農業改革でWTO自由化交渉に貢献?世論をミスリードする根拠なきマスコミの主張

農業情報研究所(WAPIC)

05.10.24

  WTO貿易自由化交渉ードーハ・ラウンドーが”野心的”成果を得られるかどうかの鍵を握るとされる香港閣僚会合が間近に迫ってきた。それにもかかわら ず、農業交渉が一向に進展せず、閣僚会合成功はほとんど絶望的といわれる状況が続いている。そのなかで、一部マスコミが、日本は農業自由化への後ろ向きな姿勢を改め、率先して世界貿易の自由化に貢献すべきだと騒ぎ立てている。今日の日経新聞の社説がその典型だ。だが、このように訴えは、様々な事実を捻じ曲げて世論を誘導しようとする悪意に満ちたイデオロギー(一部の特定利害会関係者の利益を護ろうとする主張)にすぎない。国民はこの主張を鵜呑みにしてはならない。

 社説は、「農業は今回の多角的通商交渉(ドーハ・ラウンド)の最大の焦点である。各国の利害関係が交錯しているが、複雑に見えるゲームの根底にあるのは「先進国」対「途上国」という構図だ。ブラジルやインドなど農産物の輸出を増やしたい途上国が日米欧に対し、国内農業の保護政策の縮小を迫っている」、

 「製造業やサービスで後れを取る途上国が、まず輸出を拡大できるのは農産物だ。途上国が発言力を増した今回のラウンドで、先進国の農業が最優先の自由化対象となったのは当然の流れだった。この方向を事前に読んでいた米国と欧州連合(EU)は、交渉の本格化に先立って国内で農業改革を進め、関税や補助金の削減要求の高まりに備えていた」、

 ところが、「日本はどうか。農政改革は遅れに遅れている」、「世界の自由貿易に貢献すべき日本だが、このままでは議論の中核に参加できず、農業の防戦一色で終わる。国際社会で経済外交の発言力が衰える事態は、日本にとって国家的な損失である」、「農政改革の具体的なシナリオなくしてWTO交渉は戦えない」から、「農業構造改革」を急げと言う。

 「ブラジルやインドなど農産物の輸出を増やしたい途上国が日米欧に対し、国内農業の保護政策の縮小を迫っている」というのは事実だ。だが、「複雑に見えるゲームの根底にあるのは「先進国」対「途上国」という構図だ」というのは偏見でしかない。ブラジルやインドはG20と呼ばれる一部途上国グループにすぎず、途上国全体を代表するわけではない。今以上の農業自由化で大きな利益を得る途上国は、農業条件に恵まれているために大輸出国となっているごく一部の途上国(ブラジル、アルゼンチン、南アフリカなど)だけである。

 このような条件に恵まれない大部分の途上国の農民、特にアフリカ・カリブ・太平洋(ACP)諸国の大部分を含む最貧途上国の農民は、先進国だけでなく、これら一部途上国からの輸入増大により、生計と食料安全保障を脅かされるだろう。バナナや砂糖など、現在は特恵待遇を受けているために辛うじて維持されている先進国への輸出も、先進国の一層の自由化や関税の一般的削減により有利さを失い、一部有力途上国に輸出市場を奪われる。

 「製造業やサービスで後れを取る途上国が、まず輸出を拡大できるのは農産物だ。途上国が発言力を増した今回のラウンドで、先進国の農業が最優先の自由化対象となったのは当然の流れだった」と言うが、これが当てはまるのは、まさにG20グループの一部途上国にすぎない。インドでさえ利益になるかどうか危ぶまれ、G20内部でも交渉に臨む立場は完全には調整されていない。ましてや、G20とこれら最貧途上国の立場には乗り越えがたい違いがある。

 途上国と先進国の対立が農業交渉の進展を阻む最大の、あるいは唯一の要因であるかのような言い方は、明らかに事実を故意に捻じ曲げるものだ。実際、WTO加盟国の3分の1以上を占めるACP諸国は、日本と同様に「上限関税」設定に反対、途上国の平均関税引き下げ率を24%に留めようとしている。それは、米国やG20がさらなる譲歩を強硬に要求するEUの提案以上に後退している(EUは上限関税100%を飲んだ)。

 農業交渉の進展を阻んでいる最大の要因の一つは米国とEUの対立でもあり、一気に打開を狙った最近の4ヵ国(米、EU、ブラジル、インド)閣僚会合が何の進展も見ずに終わったのは、G20だけでなく、米国がEUに対して一層の譲歩を要求するのに対し、EUが何ら新たな提案ができなかったからだ。EUの交渉権限を持つ欧州委員会は、加盟国が許す範囲でしか提案できない。

 フランスの要求で開かれた10月18日のEU閣僚臨時会合は、EUの最新提案(米国・EU、WTO農業交渉で(新)提案 行き詰まり打開は不透明 世界の農民には有害無益,05.10.11)が許される範囲を超えているとは確認できなかったが(その基準は2003年に改革された共通農業政策=CAPのさらなる変更につながらないということでしかなく、提案の具体的数字がさらなるCAP改革、あるいはその解体につながるかどうかの判断は簡単にはできない)、欧州委員会が加盟国との相談なしにさらなる譲歩をすることを不可能にしている。マンデルソン通商担当委員が、新たな提案ができるかどうか1週間の考慮期間を要請したのはそのためだ。

 その際、加盟国が農業でのさらなる譲歩を認めるとすれば、それは、EUが競争力を持つ他の分野(工業製品市場アクセスやサービス)で一層の利益が確保される場合(すなわち、ブラジルやインドがこれら分野で一層譲歩するという確約をする場合)だけだろうと示唆しており、これは、これら他の分野での交渉に進展がないかぎり、農業でのさらなる譲歩はあり得ないことを示唆したものだ。しかし、ブラジルやインドは、農業交渉が決着しないかぎり、他の分野の本格交渉には入らないと決めている。EUが新たな譲歩を行う見込みはほとんどないということだ。だとすれば、米国とEUの対立の解消も (米国が譲歩しないかぎり)あり得ない。

 「先進国」対「途上国」という構図で事態を捉えることは、この意味でも間違っている。社説は、「この方向を事前に読んでいた米国と欧州連合(EU)は、交渉の本格化に先立って国内で農業改革を進め、関税や補助金の削減要求の高まりに備えていた」と言うが、EUの場合には確かにそうだ。2003年改革では、既に推し進めてきた価格支持措置を一層緩め(関税引き上げを可能にする)、代償として導入された直接支払い(生産に関連した生産調整を伴う”ブルー・ボックス”支払い)を削減、さらにその多くを生産と無関係の単一農場支払い(”グリーン・ボックス”支払い)に移行させた。

 しかし、米国は、2002年農業法で逆の方向に進んできた。”野心的”新提案は政府の独断に近く、農家・アグリビジネス・議会の承認を得ているわけでもない。ブラジルの提訴でWTOが違法と判断した大部分の補助金を、WTOのボックス定義の見直しで ”ブルー・ボックス”に移行させようと画策している。社説の執筆者に、どんな農業改革があったかのか聞いてみたい。そんな改革があったのなら、農務長官が何故今更”補助金農政”の抜本改革を訴えねばならないのだろうか(米農務長官 補助金農政からの脱却を要請 2007年農業法,05.10.15)。

 社説はさらに、日本は、「上限関税の導入を断固阻止し、できるだけ多く例外品目を確保する交渉方針をとっている。輸入品をせき止め続けない限り、日本人の食料源である国内農業は滅びる、という悲観的な見方をしているからだ」、しかし、「直接支払制度を活用して「担い手」農家を支援しながら、価格面で国際競争を深めることは可能である」、「自給率を改善するためにも、カネがかからない効率的な国内農業を築く構造改革を、今こそ急がなくてはならない」と、直接支払制度の導入による構造改革を推奨する。そして、この制度は、「従来の「ばらまき型」ではなく、意欲と能力がある農家に対象を絞って政府が所得を補償する仕組みだ。WTOでも認められた制度で、米欧では90年代までに導入が進んだ」と解説する。

 しかし、「90年代」始めにEUが導入した価格支持に代わるの直接支払いは、米国の不足払いとともに、ウルグアイ・ラウンドで暫定的に他の国が違法性は問わない合意した(平和条項)”ブルー・ボックス”支払い(貿易・生産歪曲作用があるが、当面は改革促進のために許す)だ。WTOが晴れて公認した制度とは言い難い。米国は、96年農業法で、これをすべて”デカップリング”した。しかし、世界市場が低迷するなかでこれでは耐え切れず、90年代末には”緊急援助”の名で逆戻り、2002年農業法でこれを”恒久”措置にした。そして、WTOに違法判決を受けている。EUについては前期のとおり、大部分を正真正銘のWTO公認直接支払いに移行させた。

 社説が言うように、直接支払いならば何でも「WTOでも認められた制度」と言うわけには行かない。いわゆる「担い手」に絞った「日本型直接支払」が「WTOでも認められた制度」とは直ちには言えない。過去の基準に基づく現在の生産と関連しない”品目横断的”支払いは、グリーンとなり得るかもしれない。しかし、それでは生産・所得維持または増強というそもそもの目的が達成できないだろう。だから、生産を行わず援助だけを受け取るなどの「モラルハザード「を防ぎ、また需要に応じた生産の確保や品質向上の促進のために、一部は毎年の生産量や品質を結びつけることを考えるという(EUの単一農場支払いは、法廷の環境・食品安全・動物福祉・労働安全基準を護ることしか条件付けていない)。日本型支払いのこの部分に関しては、明らかに「WTOでも認められた制度」とは言えない。

 このような直接支払は、必ずしも途上国の自由化要求に応えないばかりか、米欧の攻撃も受ける可能性がある。そうかといって、EU型の支払いで、「自給率」が「改善」される保証もない。確かなことは、「輸入品をせき止め続けない限り、日本人の食料源である国内農業は滅びる」ということだけだ。そのための確かな手段は、「輸入規制」や「関税による保護」しかないことも確かなことだ。そのためにWTO交渉で奮闘することは、大多数の途上国も含めた”輸入国”の利益にもなる。それは、米国や一部途上国との関係を悪化させるかもしれないが、「国際社会で経済外交の発言力が衰え・・・、日本にとって国家的な損失」と一概には言えない。むしろ、大部分の途上国やほとんどすべての先進国の小農民の大歓迎を受けるだろう。輸出途上国でさえ、多くにの農民が輸出ビジネスによる土地収奪で生計維持のための農業を奪われている。

 なお、この社説のタイトルは、「消費者不在のWTO農業交渉では困る」というものだ。「消費者の「食」を左右する日本の農業改革と通商戦略の迷走に強い不安を感じざるを得ない」と言う。消費者 がどこまでも安価で大量の食べ物を求めつづけるのは確かかもしれない。しかし、消費者の無限の欲望は、無限の利益拡大を求める食品産業・アグリビジネスが作り出す食料生産・供給システムによって 創り出されたもので、どこまでもグローバル化を求めるこのシステムは、環境面からして持続可能な域を超えている(環境と食品安全を脅かす食料供給システムー講演資料,05.10.1)。それを支えるのは 大量のエネルギー消費だから、エネルギー・コストの増大によっても、いずれ行き詰まるだろう。今は、このようなシステムを一層促進するのではなく、再考すべきときだ。

 前日の社説は、「鳥インフルエンザ、防疫に万全期せ」と題し、「病原体のウイルスを運ぶのは渡り鳥だけでなく、飛行機や船に潜んで移動する小動物、経済のグローバル化で国境を超えて行き交う人やモノなど様々だ」と言う。鳥インフルエンザが人間の”パンデミック”と化したときには、このようなグローバル経済もストップするだろう。日本は食料の調達もできなくなるだろう。

 米国研究者は、 「世界貿易の崩壊とその先進国・途上国全体への波紋は、現代世界流通システムの最初の試練を与える。現代の交易が商品とサービスの国際貿易に依存する程度を考えれば、世界経済システムのシャットダウンは、危機の間の食料や医薬品など必須の商品の対する急増する需要を満たす世界の能力を劇的に損なう」、「民間・公共部門は、決定的に重要な国内供給チェーン、製造業と農業生産、流通を支える緊急計画を開発せねばならない」と警告している(新型インフルエンザ(H5N1)勃発は不可避 破滅的結果回避には緊急行動が不可欠ー米研究者,05.8.8)。

 社説は、こんな重用事にもまったく無頓着だ。それで「消費者」の利益になると言うのだろうか。