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鬼姫(仮) 〜第一話〜
 ……ここは一体どこなんだろう……

 全ては闇に閉ざされ、何も見えず、自分がどこに立っているのかもさっぱりわからない。
 けれど、愁由はこの場所を知っているような気もする。
 とても、とても親しみ深いはずなのに、初めて訪れたような感覚に襲われるのはどうしてだろう……

 わからない、わからない

 でも、ここはとても落ち着く。
 どうして? 知らない場所なのにどうして?

 それすらわからない
 でも、確かにここは落ち着くんだ……
 暗いし、寒い、俺の他には誰もいない、知らない場所。
 でも、ここには愁由を落ち着かせる何かがある。

 例えば、そう。
 あの先に見えている蒼白い炎。
 小さな、ほんの手のひらほどの大きさの光だけれど、愁由にはとても温かく感じる。
 懐かしさ、安堵感、心地いい……
 なんと表現していいかもわからないけど、とても安心できる。

 暗闇に支配された場所、凍えてしまいそうな場所……
 そんな中でも、愁由が立っていられるのはこの小さな炎のおかげだろう。

 愁由は、その不思議な炎に近づくと、手を伸ばした。
 どれほど近づけても熱くはなく、やはり心地いい。
 このまま優しく掴んで、抱きしめてみても火傷ひとつしないんじゃないかな?

 思ったことをそのまま試してみようとしたそのとき、愁由の伸ばした左腕が白い腕に掴まれた。
 それはこの暗闇の空間の中においても、異質な存在であった。
 はっきりと白とわかる腕、細くしなやかなそれは男のものではないだろう。
 しかし、愁由の腕を締め付けるその力は尋常ではなく、骨がミシミシと悲鳴を上げている。

 な、何だっ!? 離せ、離せよっ!!

 愁由は自分の腕を締め付けるその白い腕を見やった。
 虚空に浮かぶ腕はそれだけで、持ち主の姿はない。
 生気を全く感じさせない、まるで人形のような腕がギリギリと締め付けくる。
 顔をしかめたくなるほどの苦痛に、愁由は必死で腕を振るった。

 何なんだよ、これっ!

 ミツケタ、ミツケタ、ハンシン、ミツケタ、ミツケタ

 どこからともなく聞こえてくる声に愁由は恐怖を感じ、必死で抗う。

 離せよっ!! 離せってばっ!!

 ミツケタ、ミツケタ、ハンシン、ミツケタ、ミツケタ

 同じ言葉を繰り返す声を振り払い、何とか逃れようとする愁由だが、決してその左腕は自由にならなかった。

 ミツケタ、ミツケタ、……イチャン……、オニイチャン……

 い、意味わかんないこと言ってないで離せってばっ!!

「きゃっ!?」

 ……きゃ?
 不意に聞こえた女の子の小さな悲鳴に違和感を覚えた。

「も〜、お兄ちゃん。寝ぼけてないで早く起きてっ!」

 起きる? 目覚め? 朝? これは夢?
 弾かれたようにまぶたを開き、部屋に差し込む朝日を認識する。
 愁由がはっきりと意識を取り戻したときには、ほのかに暖かい日差しに、鼻腔をくすぐる味噌汁の匂いが部屋中に広がっていた。
 そして、愁由の顔を見なれた少女が愁由の顔を覗き込んでいる。
 ショートカットに、少し釣り目気味の大きな目。
 どこか猫を想像させる少女は、呆れた表情を浮かべた。

「やっと起きてくれたの?」
「こ、ここは……、俺の部屋?」
「……熱でもあるの? それともまだ寝ぼけてる?」

 少女は心配そうに愁由のおでこに手の平をあてる。

「う〜ん、熱はないみたいだし……、顔色も悪そうには見えないから……、早く顔を洗って起きてよ」

 少女はそう言うと、愁由の上にかかっていた布団を剥ぎ取った。

「ほ〜〜ら、速く速く!!」
「な、何で尚がここに?」
「何で、じゃないの。可愛い妹がせっかく起こしに来てあげたんだから、さっさと起きる」
「お、起こしに? 何で?」
「何でも何もないでしょっ! 受験も終わったから、不肖な兄の様子を見に来たのっ! ほら、起きなさいって!」
「様子見ってお前……」
「まったく、案の定ダメな生活送ってるみたいだし。やっぱり男の独り暮らしはダメなのかな?」
「そんなにひどいか……?」

 生返事をしながら身体を起こした愁由は、自分の部屋の中を見渡した。
 特に何もない部屋。
 テレビとクローゼット、それに本棚とベッド。
 愁由の部屋にあるのはこれぐらいだろう。
 別に部屋の彩が綺麗というわけでもないし、大体の人は味気ない部屋だと思うだろう。

「こんなもんだと思うけどな……」
「もう、早くしてよ。いつまでも寝てると、ご飯が冷めちゃうし、遅刻しちゃうよ」
「あぁ、はいはい。わかってるよ、尚」
「お兄ちゃんてば、家にいた頃からそればっかり。口を動かすよりも身体を動かしてよ」
「わかった、わかったから……」

 愁由は夢の中で掴まれた左腕を抱きかかえるようにして、ベッドから起き上がった。
 レースのカーテンを通して差し込む朝日は愁由の眠気を吹き飛ばし、朝食の香りが起床を誘う。
 身体を起こした愁由は目の前に仁王立ちする、エプロン姿の我が妹を不思議そうな目で見つめた。

「…………あれ? お前、どこ行くつもりだ?」
「どこって……、学校に決まってるじゃない」
「学校って……、尚の制服ってそんなのだっけ? どっちかっていうとその制服は俺の学校のような気が……」
「だ〜か〜ら〜、今日からお兄ちゃんとおんなじ学校に行くんだってばっ!!」
「お、俺と同じ学校?? って、灘清高校に?? お前が??」
「ひどーーーーいっ!! 妹の年齢も覚えてないわけっ!?」
「そ、そういうわけじゃないんだけど、尚ってうちの学校に来るのか?」
「えへへへ、そうだよ。お兄ちゃんてば、全然家に帰って来ないんだもん。話す機会がなかったから、いっそのこと驚かそうっと思って……。今日から一緒に登校だよ」
「今日から一緒に登校って……、これから毎日来るつもりか?」
「別にいいでしょ? こうやって朝ごはんを作ってあげるんだしさ〜」
「それはありがたいけど……。そ、そうなのか。尚がウチの高校にね……、よく試験に合格できたな。一応県内トップだぞ……」
「頑張ったもん。一生懸命勉強したんだよ。……まぁ、お兄ちゃんは全然家に帰ってこなかったから、私の努力とか、知らないだろうけど〜〜〜」
「あの学年最下位V2を達成していたお前が勉強を……? いやはや、驚きだよ……」

 エッヘンと胸を張る尚子の頭を愁由は優しく撫でてやった。
 ちょっとした、兄妹のスキンシップではあるが、愁由にはひどく懐かしいものに感じられた。
 愁由が土岐家を出たのは高校入学と同時で、ちょうど一年前だ。
 それ以来指で足りるほどの回数しか実家に帰っていない愁由にとっては、妹である土岐尚子と、会話もろくにしていなかった。

「へっへ〜〜んだ。あんまり私を甘く見るなよ」
「おみそれいたしました」

 愁由は未だ胸を張り続ける尚子の横をすり抜けて、洗面所に向かうと蛇口を捻った。
 いつもどおり流れる水、鏡に映るいつも通りの自分の顔。
 バシャバシャと顔を洗うが、どこかすっきりとしない。
 いつもと何も変わらないのに、ひどく違和感を覚える。
 不安感とでもいうのだろうか、胸の奥で何かが引っかかる。

 やはりこれは見ていた夢の所為なのだろうか……?
 ……きっとそうだ、怖い夢を見ただけだ。
 だからこんなに落ち着かないんだ、そうに違いない。
 そう思いながら、愁由はもう一度顔を洗った。

「ねぇ、お兄ちゃん。ホントにご飯冷めちゃうよ〜」
「あぁ、今行くよ」

 愁由は鏡の中の自分を見つめながら、気合を入れるためにも、頬をパンッと叩いた。

「さてと、飯だ、飯。久々のまともな朝飯だ」

 洗面所から戻った愁由はテーブルに並ぶ、熱々のご飯と味噌汁、シャケの切り身の前に座って手を合わせる。

「まともなって……、一体いつもは何を食べてるの?」
「いただきま〜〜す」
「お兄ちゃん、もしかして朝とか食べてないの?」
「……まぁ、その……、作るの面倒くさいし……」
「ダメだよ、朝食は重要なんだからっ!! ちゃんと食べないとっ!!」
「わかってはいるんだけどさ……」
「もうっ! この分じゃ晩御飯だってちゃんと食べてるのか心配だ」
「晩飯はちゃんと食べてるって」
「インスタントラーメンとかばっかりじゃないの?」
「いや、その……、そっ、そんな事はないぞ。兄はちゃんとした食生活を……」
「さっき、ゴミ箱除いたらラーメンの袋ばっかり出てきたけど?」
「…………まっ、まぁ、そんなときもあるさ、あは、あはははは」

 朝の食卓に乾いた笑い声が響く。
 そんな愁由を半眼で睨んでいた尚子が不意に溜息を吐いた。