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鬼姫(仮) 〜第四話〜

 腕は愁由の太もも以上の太さで、しかもその力は半端ではない。
 ギリギリと首が絞められ、骨が軋む。

「がぁっ、あっ……」

 首の血管を押さえつけられ、血の巡りは止まり、視界が白く霞んでくる。
 すでに漏れるほどの息もない愁由の口はパクパクと金魚のように開かれ、空気を求めている。
 しかし首を、黒く太い腕で鷲掴みにされ、息をすることすらままならぬ愁由。
 力を振り絞って、その黒い腕を叩く。
 朦朧とした意識の中で振り絞った力は、まるでそこらへんの女の子のような……、もしかしたらそれ以下の力だったかもしれない。
 その程度で、目の前の腕が動くはずもなく、愁由の視界は完全に白くなる。
 すでに思考は停止し、振り絞った力も尽きて、ダランと重力に引かれるままになっている。

「……ぁ……」

 もう駄目だ……

 直感的に愁由はそう感じていた。
 実際、意識を失う寸前だった。
 あと、数秒……数コンマ、腕が愁由の首を締め付けていたならば、意識は飛んでいただろうが、そうはならなかった。
 不意に首が解放され、愁由はその場に倒れ込んだ。

「ごほっ、ごはぁっ!!」

 体勢を起こすよりも先に、体が求めるままに新鮮な空気を吸い込んだ。

「はぁー、はぁー、はぁー、はぁー」

 体に酸素が染み渡るのを実感するかのように、体に自由が戻ってくる。
 クリアになる思考と、白い霞が晴れてゆく視界の中で愁由が見た物は、黒い腕を押さえつける、黒い物体だった。
 その物体が何なのかは愁由には理解できない。
 ただ、それは影から伸びていることだけははっきりとわかった。
 太陽に映し出されたちいさな自分の影が、影としての理を無視するかのように空中へ伸びている。

「なっ、な……」

 言葉にできないほど、奇妙な光景だった。
 何もない虚空から黒い腕が生え、自分の影は空中に伸びて腕を押さえつけている。
 すぐにでも逃げ出したい状況だった。
 全く理解できない……

 とにかくその場を離れようとした愁由が、体勢を起こす。
 しかし、愁由は体を起き上がらせることができなかった。
 腕を地面につき、体を起こそうとした愁由の体が沈んでいく。

「うああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 まるで水か何かのように、ズブッと右腕が影に沈み、徐々に身体も沈下していく。

「なっ、なんだ!?」

 じたばたと暴れてみるが、それも無駄な徒労に終わる。
 全く動けない。
 見た目は液体のように思えても、影に飲まれた部分は回りを固められたかのように、ビクリともしない。

「だ、だれかっ!! 誰かいないのかっ!!─

 大声を上げてみても、誰の返事もない。
 それでも愁由は叫び続ける。

「た、助けてっ!!」

 叫びはむなしくこだまして、青い空に消えていく。
 愁由の声が消えれば、後は静寂が支配し、何の音もしない。
 鳥一羽すらおらず、視界の中で動いているのは、一進一退を繰り返す腕と影だった。

「ひ、ひやはっ!!」

 すでに右半身が完全に影に呑まれた愁由は普通に喋ることもかなわなくなる。
 愁由は徐々に増えていく恐怖に屈し、目を閉じた。
 何も見えず、見ることを拒んだ愁由の耳に、トプンと音がしたような気がした。
 体が生暖かい液体のようなものに包まれ、心地よさを感じるが、自由は全くきかない。
 まるで自分の体ではないかのように、漂い、何かに流される愁由の腕が誰かに掴まれた。

(……さっきの腕か……)

 強い力で引かれる愁由は、まるで絶望の中に引きずり込まれるような感覚だと感じた。

(俺は死ぬのか……?)

 何も状況のわからぬまま、引かれる愁由の体が不意に軽くなる。
 慣れ親しんだ、空気と重力の感覚に愁由は辺りを見回した……
 見覚えのない場所……
 どこかのビルの屋上らしい。
 そしてそこには愁由のほかに、一人の男が立っていた。
 男の右手が、愁由の襟を掴んでおり、自分はこの男に引かれたのだと理解するまでに、そう時間はかからなかった。

「あ、あんた……、俺を助けてくれたのか……?」
「………」

 男は沈黙したまま、腰に手をやる。
 しかし、その右手は愁由の襟を掴んだままだ。

「……俺はお前を助けに来たんじゃない……」
「………」

男の静かで、重みのある言葉に愁由は息を呑む。

「………」

そして男は、愁由をさらに引き寄せ、腰に当てた手で何かを掴んだ。
愁由の角度からでは、それが何であるのは確認できなかったが、よくない状況だということは直感的に理解していた。

「俺はお前を殺しに来たんだ」
「!!??」

声をあげる暇もなく、男が左手を振り上た。
愁由が男の左手を直視した瞬間、太陽の光を反射させる銀色のきらめきが目に映る。
そして次の瞬間、凶刃が愁由の身体目掛けて振り下ろされた。