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鬼姫(仮) 〜第五話〜
 本能的に愁由は視線を逸らし、目を閉じた。
 暗闇に閉ざされた自分の世界で、何かを考える時間的余裕はなかった。

 いやだっ!!

 そんな考えだけが頭の中を巡り、逃げ出すことすら考えなかった。

 バキンッ!!

 不意に何かが弾ける音がして、体に軽い衝撃が走る。
 刃が自分の身体に突き刺さったのだろう……
 そう考えた愁由だったが、一向に痛みが襲ってこない。

「うっ、くぅぅぅぅ……」

 聞こえる男の苦悶の声に、愁由はゆっくりと目を開ける。
 刃は愁由の目の前にあった。
 細かく震える刃が愁由のほんの10センチほど先で止まっていたのだ。

「なっ、あっ……」

 男が刃を止めたわけではない。
 今も渾身の力で愁由に振り下ろそうとしている。
 それを阻止しているのは、黒く大きな腕だった。

「くそっ! しつこい奴め!」

 暗闇をそのまま纏ったかのように、黒い腕が今度は影から生えていた。
 それは間違いなく、学校の屋上で愁由の首を締め上げたソレだった。
 二の腕から先を、地面に映った愁由の影から出し、男の左腕を掴んでいる。

「ぐっ、うぅぅぅ……」

 唸る男の左腕が軋む。
 寸刻前まで、自分の首を絞めていた強力な力が、今度は男に襲い掛かっているのだ。
 額に脂汗を浮かべる男は、なんとか刃をおろそうとするが、黒い腕の力には到底敵わないのだろう。

「ちっ!!」

 大きく舌打ちをすると、右腕を振って、愁由の体を放り投げた。

「うわっ! あっ、あぐっ!」

 突如宙に投げられ、コンクリートの上を転がる愁由。
 咄嗟に頭だけは腕で覆い、そのまま端の方まで転がった。

「そこで大人しくしていろっ!!」

 男はそう叫ぶと、右腕で腰から何かを取り出した。
 左腕に握られた刀と同じ刃物。
 違うのは、それが幾本もの刀の柄を、鎖で繋いだ状態だということだ。
 まるで囲いの杭を思わせるそれを、天高く振り上げ、その内の一本が勢いよく振り下ろされる。

「このぉぉぉぉぉ!!」

 男の叫びと共に、腕に刀が突き立てられた。
 連鎖的に繋がれた全ての刀が腕に貫く。
 ビクンと腕が振るえ、一瞬その凶悪な力が緩んだのか、男が巨大な腕を振り払った。

「影の分際で、調子に乗るなぁっ!!」

 男は自分の影に、左手に握った刀を突き立てる。
 本来ならばコンクリートに打ち立てられるはずだったその刃先は、まるでバターにでも刺さるかのように、無音で影に突き刺さった。
 男の影が大きく広がる。
 突き立てられた刀の衝撃をあらわすかのように、闇がその範囲を拡大した。
 そしてその一瞬後に、高波のように影が持ち上がり、腕に向かって襲い掛かる。
 影の放流にさらされた腕はピクリとも動く気配はなかったが、中心にできた渦に呑まれ、ズズズっとゆっくりと沈んでいく。

「闇に佇み、深淵が生みし化け物め。さっさと自分の居場所に戻るがいい」

 刀を繋いだ鎖がジャラジャラと音をさせながら、腕と共に沈んでいく。
 微動だにしない腕は、刀に貫かれているというのに、血すら流す気配がない。
 それどころか、宙を掴みその手の力は全く衰えていない。
 ギリギリと力を力を込めた握り拳を、天に向け、呑み込もうとする影の渦に抗っている。

「な、何なんだよ、これ……」

 目の前で繰り広げられる異常な事態に、愁由の頭はパニック寸前だった。
 冗談だと思いたくなるなるような事ばかりだ。
 何が起こっているのか、自分の身に何が起こったのか、そして目の前の奴らは誰なのか……
 何もわからない。
 ただ、はっきりとしているのは一つだけだった。
 殺される……
 それだけははっきりと感じていた。
 腕にしろ、男にしろ、その殺意は痛いほどに感じている。
 男に至っては”殺す”と明言までされた。
 疑いようがない……

 知らず、愁由は腰を上げていた。
 逃げなきゃ……、逃げなきゃ、殺される……
 そんな思いに駆られた愁由は、ドアを探した。
 これは夢だ……、きっとドアを開ければいつもの朝になるんだ……
 淡い希望、一縷の望みを持って見つけたドアは錆付いた重々しい緑色のドアだった。

「に、逃げなきゃ……」

 愁由は駆け出した。
 ただココから逃れたくて、この夢から一刻も早く逃れたい一心で足を動かした。

「っ!? 待てっ!!」

 愁由の動きを察知した男が叫ぶ。
 が、そんなことを言われたからと言って足を止めることなど有り得なかった。
 想像よりも簡単に緑色のドアは開き、愁由は無心で階段を駆け下りた。
 背後には男の声が聞こえてくるが、無理矢理その声を遮断する。
 何も聞こえない、これは夢だ、夢なんだ……
 無限に続くような階段をひたすら駆け下り、やっとのことで地上に辿り着いた愁由は、そのまま止まることなく駆け出した。
 自分が今どこにいるのか、それすら考えることなく、走った。
 とにかく人通りの多いところを目指して走った。
 すぐにでも目が覚める。
 いつもの布団で、いつもの朝がそこにはある。
 そして、来栖と馬鹿な話をして、香澄が学校に来たり来なかったり……

「そうさ、これは夢なんだ……」

 そう思い、駆けていた愁由はいつの間にか大通りに出ていた。
 見慣れた風景、何度も利用したことのある店。
 そして、自分と同じ制服を着た生徒たち……
 そこに広がる普通の世界に安堵しながらも、愁由は胸の中に広がる不安を打ち消すために、そのまま走り続けた。

「大丈夫、大丈夫だ……」

 自分にいいきかせるように呟く愁由だが、心を落ち着けるほどの効果は持っていなかった。
 何もわからない、あれは現実なんかじゃない……
 そう思い込もうとしても、何かを失ってしまったような不安を振りほどくことはできないでいた……