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鬼姫(仮) 〜第六話〜
 愁由は街を疾走した。
 現段階では追われているわけではない。
 もう命の危機を感じるわけでもない。
 あれは夢だった……、悪い夢だったんだ……
 そう思いたくともそんな事は不可能だった。
 締められた首の痛み、窒息する感覚、真っ白になっていく世界……
 あれらは全て現実のものであり、今ならまだ鮮明に思い出すことができる……

「くそっ……」

 悪い白昼夢を見たんだ……
 何度も自分にそう言い聞かせようとした。
 けれどそれは不可能だった。
 なぜなら、あれは現実であると愁由自身も理解していたから……
 ただ、認めたくなかった、信じたくなかった……
 受け入れたくなかった……
 自分が殺されそうになった。
 しかも、わけのわからない腕と、知らない男に……
 一体何をしたというのだ? どうして殺されなければならない?
 いわれのない非難を受けるどころの話ではない。
 理由もわからず、ただ淡々と命を奪われそうになったのだ。
 そんなことを容認できるはずがない。
 愁由は生きているのだ、今ココに……
 振り返ることもなく、愁由は走り続けた。
 今にも、あの男が背後に現れるのではないか?
 目の前が揺らめき、虚空より漆黒の腕が現れるのではないか?
 それを疑わずにはいられず、一秒たりとも同じ場所にはいたくなかった。
 ただ、そのためだけに街中を走り続けた。
 すれ違う人々が振り返る。
 何事かという目でこちらを見る。
 そんな回りの目を気にする余裕もない。
 安全で休める場所、それだけを探して走り回った。
 だが、まだ社会的に自立も何もしていない愁由にそんな場所があるはずもない。
 安心できる場所……、自分だけの居場所といえば、やはり家しかなかった……

「はぁ……はぁ……」

 知らず知らずのうちに愁由は今暮らしている場所ではなく、実家に舞い戻っていた。
 白い壁に、黒い屋根。
 何も特筆するようなことはない普通の一軒家。
 だが、愁由に取ってそれは”普通”の一言では表しきれないほどの思いが詰まった家だった。

「はぁ……はぁ……ど、どうして……?」

 答えのない自問に、口の中に苦味が広がった気がした。

「……ここにはいられない……」

 言い聞かせるように呟く愁由。
 もし本当に愁由が狙われているのならば、被害が周りに及ぶのは見たくない。
 いや、そんなことをさせるわけにはいかない。
 父や母は勿論、尚に危険が及ぶ……、そんなことは想像したくなかった。
 いや、そもそも愁由は自分にはこの家に入る資格をすでに失っているのだ。
 自ら、その資格を捨てたのだ……

 愁由にとって、彼らは理想だったから……
 父はどこか冷たい感じを持ちながらも、実際に冷たい人間だと感じたことはない。
 優しくも厳しい……、普通に接した時期を鑑みるとそう思う。
 母はニコニコと笑っていた。
 愁由は怒る姿は見たことはなかったが、心配しながらも真剣な顔で、何も言わず見届けようとする姿は何度も見た。
 そして、家を飛び出した兄に対しても変わらぬ態度で接する妹……
 それらは失った全てであり、何よりも守るべきものだと愁由は感じていた。

 だから、この家に問題を持ち込むわけにはいかない……
 愁由が帰るわけにはいかない……

 愁由は身を翻した。
 誰もいない昼間の住宅街は、先ほどまで遭遇していた光景が嘘だったかのように静まりかえっている。

「でも、あれは現実だ……」

 だからこそ、ここを去らないと……

「……お兄ちゃん?」

 愁由が一歩足を踏み出したとき、背後で今朝聞いたばかりの声がする。
 振り返らずとも、妹の声であることがわかった。
 だから、そのまま振り返ることができなかった。

「帰ってきたの? よかった〜、お父さんも、お母さんも喜ぶよ」
「……悪い……、ごめんな……尚……」
「え? お兄ちゃん……?」

 愁由は一言謝って駆け出した。

「お、お兄ちゃんっ!!」

 尚子の声は聞こえている。
 だが、止まるわけにはいかなかい。
 事情を説明するわけにもいかないし、これ以上ココに留まるわけにもいかなかった。
 ただ、愁由は尚が悲しまないだろうかと、心配ではあった。

 裏切られたとは思わなかっただろうか?
 できることならば、尚には……そんな気持ちを味わって欲しくない。
 誰かに拒絶される悲しみなど知らずに生きていて欲しい……

 そう思いながらも、足を止めずに……、尚の声から逃げるようにして愁由は走った。
 何かを振り切るように……

 そうして、いくつかの角を曲がったときに、女の子とぶつかりそうになった。

「きゃっ……」

 突然現れた愁由に驚いた少女はその場で尻餅をついてしまう。

「ご、ごめん。大丈夫?」
「えっ、えぇ……大丈夫です。ちょっと驚いただけですから……」

 そのまま走って逃げることもできた。
 今の愁由の心情を考えると、そんな行動をしても不思議ではなかった。
 けれど、愁由は足を止めた。
 それは何故だかわからない。
 自然と手を伸ばして、少女を起き上がらせた愁由は目を見張った。

「ありがとうございます……」

 愁由の手を取った少女は別におかしな所はない。
 ショートカットに、女の子としては平均的な体格。
 色素の薄く、細い髪が特徴的と言えなくはないが、それでも少々赤みのある茶色にしか見えない。
 それほど目立つわけではなく、どこをどう見ても普通の、どこにでもいるような少女。
 けれど、少女は愁由にとっては普通ではなかった。

「君……今朝の……」

 見間違うはずもない。
 今朝、愁由が目を奪われた少女だ。

「え? あ、あの……どこかで、お会いしたことがありました?」
「あ、いやっ、そういうわけじゃないんだけど……、その……今朝ちょっと見かけたから……」

 そこまで言って、少女は納得したように手を叩いた。

「あっ、なるほど。その制服、ウチの学校ですものね。先輩ですか?」
「まぁ、そういうことになるかな……」

 ……本当はこんなことをしている時間はないと思っていた。
 すぐにでも逃げ出したかった。
 けれど、この少女といると安心できる……
 まだ、一言二言しか話していないのに、愁由は目の前の少女に安心感を覚えた。
 それは心地よく、先ほどまでの出来事を忘れさせてくれるほどのものだった。

「私、七瀬梢って言います。先輩は?」
「俺は……、土岐愁由……」
「よろしくお願いしますね、愁由先輩……」

 突然の自己紹介……
 そして、愁由を名前で呼び、にこやかな笑顔を向けてくる少女。
 その親しみはどうしてだか、好感を持った。
 馴れ馴れしいその態度を嫌煙しても、不思議ではないのだが、その少女に対してはそんな気持ちが浮かばなかった。

「……あ、あぁ……よろしく……」
「それじゃ私、そろそろ行きますね」
「ごめんね、ぶつかっちゃって……」
「そんな、気にしないでください。私が勝手に驚いちゃっただけですから」

 悪戯を見つかった子供のように、ペロッと舌を出した少女は「それじゃ」と言い残してその場を去った。
 その背中を見つめながら、立ち尽くす愁由は先ほどまでの不安感が嘘のように、心が落ち着いていた。

 何をそんなに心配していたのか?
 なぜ、そんなに脅えていたのか?

 そんな疑問だけを抱きながら、ゆっくりと愁由は歩みだした。