「それは…どういうことですかな…?!」
部屋の隅にわずかな暗闇を残す、その程度のぼんやりとした明かりの室内に響いたのは、もう少しで裏返りそうなジグルドの声だった。しかし、たった今…告げられた言葉の内容を鑑みれば、この男にしては、よく耐えたと言えるだろう。
対して、それを暴露した本人、ベベルナの表情は、沈鬱な暗い影を宿していた。
「今、お話ししたとおりです。あれは…姫ではありません。偽物…この国に紛れ込んだ、〈教会〉の使徒だったのです。あの使徒を放っておけば、あなたの予想通り…いいえ、それ以上の惨事が、必ずあなたに降りかかるでしょう…」
小さく声を震わせ、興奮と恐怖の赤と青を表情に同居させ、拳を固く握る音はきわどく、だが確実に他人の耳に届く絶妙な具合に。舞台俳優さながらの身振りで、ベベルナは言葉を紡ぎ続ける。
「これを明らかにしたのは、この王国を案じたからだけではなく、もう一つの理由がありますの…。ジグルド様ほどの人物であれば、お話しできますが、実は…我が〈王国連合〉と〈教会〉勢力とは、衝突寸前の状態にあるのです…」
「!」
鼻の穴を大きく開き、ジグルドはこの上ないほど動揺した。
「放った間者からの情報に寄れば、すでに何十万もの使徒が、兵力として動員されているとか。
審判の日は近い、邪教徒を全て抹殺せよ…と、街という街で唱えられているとか…。ですが、戦の常として、前を攻めるには後ろを固めねばなりません…〈魔導連合〉とほど近いこの王国は、〈教会〉にとって、それを牽制するに、非常に好都合な存在と言えるのです。国王は既に〈教会〉と
密約を交わし、勝利の暁には、我が〈連合〉国土をともに支配しようと企んでいます…」
そこでいったん言葉を切り、ベベルナは眉を伏せ、しぼりだすように、
「その上…これは、大変申し上げにくいことなのですが…姫様は、すでに…〈教会〉の使徒により、お命を落とされていました…」
「ば…馬鹿な…?!そ、それは真なのか?!」
「はい…。僭越かとは思いましたが、〈王国連合〉でも、姫様の御身を案じ、調査を進めていたのです。ところが先日…名もない砂漠の果ての地域で…姫様の、亡骸と思しきものを発見したとの報告が…!」
堰を切ったように、閉じられたままのベベルナの瞳から大粒の涙がこぼれた。そして、それを拭くこともせず懐から取り出したのは、何か細い糸を束ねたようなものだった。
「状態があまりにひどいようでしたので、お連れして差し上げることもままならず…結局、ご帰還なされたのは…この…御遺髪だけで…!」
言葉尻を涙に詰まらせ、ベベルナは膝を折って泣き崩れた。
その震える手から、紐でまとめられた、銀色の、人の髪と思しき束を受け取り、ジグルドは目を見開いた。
「これは…確かに、銀色…姫の御髪ではないか!なんということだ…!!〈教会〉は、どこまで腐り果てているのだ…?!この国を利用して戦争をしようとするばかりか、あまつさえ姫のお命まで…!!国王も国王よ…!悪政を敷いてはばからぬばかりか、己の野望のために姫をも犠牲にして迷わぬとは…!許し難い…どうあっても、許すことまかりならぬ!!」
完全に頭に血を上らせた様子のジグルド。そこに、涙も拭かず立ち上がったベベルナの言葉が追い打つように、
「ジグルド様。もはや、この窮状、救いを見いだせるのはあなたしかおられませぬ…。この王国を、ひいては世界を守るために…ご協力をいただけますね?」
「無論ですとも!!」
「ああ…なんと頼もしきお言葉…!私、感銘を禁じ得ませんわ…!」
やりとりを聞いている中…サーカーンは、すでに諦念で埋め尽くされた頭を、重く小さく揺らしていた。
〈連合〉と〈教会〉の衝突…ありえるはずがない。敵対する理由が、そもそも存在しない。
それに、〈教会〉領内に数十万もの兵力が結集しているなら、この街にも、それなりの需要があるはずなのだ。食料、兵装、馬から羊、果ては人間まで…しかし、その手の商談は、最大限に過去の記憶をたどっても、無い。だが、そのような相場の連綿を知るよしもない血筋だけのこの男が、この大嘘を見破る可能性もまた、無いのだ。
加えてこの巧みな話術。おだて、乗せ、引き込む。機微をわきまえた言葉の連携は、もはや引き返せない奥地までジグルドの心を飲み込んでいる。今さら何を進言したとて聞き入れられまい。
姫の生死のついても、ここまで話が進んでしまってはさして重要な意味を持たない。銀髪の人間がこの大陸にルシュナ姫たった一人というわけでもないだろうに…。
まるで児戯だ。容易に騙し、だまされる。
だがただでさえ幼稚なジグルドにとっては、複雑な理論を並べ立てられるより、救世主として祭り上げられる方が理解も早く、なにより…乗せやすいことは自明の理。
してやられた…。
嘆息と歯噛みの耳障りな音を、肩を落とした衣擦れの動作で巧みに押し隠し、サーカーンはなおも聞き耳を立てた。
「どうすればいい…?!私はどうすればよいのだ?!にっくき敵を討ち滅ぼす策、ベベルナ殿、あなたなら既にお考えであろう?!」
「はい…。たしかに、今のこの状況を打破するには、何からの作用を及ぼさねばなりません。しかし武をもって圧すれば、多くの血が流れましょう。民は決してそれを望まぬはず。ですから…ジグルド様、あなたが直接、悪の根元だけにくさびを打たれてはいかがかと」
「それは…どういう…?」
「王座のある壇上にあなたが登り、国王の全ての陰謀を民に暴露するのです。そののち、この砂漠の血を汚そうとした大罪人、国王に、粛正の刃を与えるのです…。この悪政の根元と、邪なる〈教会〉の使徒の断末魔こそ、ジグルド様、あなたが支6配なさる新たなる王国の産声となるのです…御武運をお祈りしていますわ」
「かたじけないお言葉だ…。ベベルナ殿、あなたへの感謝、筆舌には尽くしがたい…。サーカーン!この恩に報いぬは砂漠の民の恥ぞ!兵を集めよ!今こそ我が神聖なる王権建立の時ぞ!」
「は…はは。かしこまりましてございます…」
深く。
深く、ひとつ礼をする。
ジグルドの私室を出たサーカーンの足取りは、決して切迫したものではなかった。
「………」
ここまでか。
厳密なる判断だけを下してきた頭脳からの、最終勧告だった。
開けた中庭に出ると、小さく、
「…誰か、おらぬか」
その呼び声が、地に落ちて消える寸前。すくい上げるように、一人の男が、サーカーンの足下に音もなく現れた。彼の呼びかけにだけ答えるよう教育された間者であった。
「…ここに。サーカーン様、ご用でも?」
「うむ…。近う寄れ。話がある」
近づき、再び頭を垂れた男の耳元に、何事かつぶやく。
すべて聞き終わった男の表情は、闇の中でも確認できるほど、驚愕に歪んでいた。
「…あの槍を、でございますか…?!」
「うつけが…声が大きいわ。よいか。何も考えず、今私が言ったことを実行しろ。失敗すれば無論、貴様の首もないと思え…」
「は、ははっ…!」
短く返答し、再び闇に消えていった男の背中を見送ることなく、サーカーンは、深く息をついた。
「恩を、仇で返す、か…」
瞳に宿るのは、怜悧な策謀の光り。
「それが、商人と言うものよ」
たとえ飼い犬に身をやつそうとも。
飼い主が、その牙の鋭さを自覚していないのなら…裏切られても、詮無きことなのだ。


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