モンゴル族
 メルキト族
セレンゲ河畔に住む。居住地に産出量
の豊富な鉄山を持つため優れた武器を作り、土地も豊かであったので、簡単な農耕も行っていたらしい。生産性の高い、精強な部族。
 タイチュウト氏族
アンバガイ・カンの子孫とその民。オノン河の中流域に住む。このへんには小規模の鉄山もあり、少し草原も開けているので、放牧にも交易にも利点が高い。
 オンギラト族
金との交易の深い、草原一豊かな部族。金の草原出張所のような感じ。
オンギラトと交易するために、他の部族は必死になった。
 ケレイト族
トーラ河畔、黒い森(カラトン)に住む、強大な一族。王家は約200年続く。首長のトオリルはテムジンの主筋。ネストリウス派キリスト教を信奉している。
 キヤト氏族
カブル・カンの子孫とその民。チンギスの出身部族。オノン河上流域に住む。鉄は出ないし、地形的にも山間部で交易にも不便な、高原ベストオブ貧乏ポジション。
 タタル族
現在の内蒙古自治区、豊かなケルレン河下流域に住む、強大な部族。金の支配下に入り、支援と引き換えに、他の部族の金への攻撃を阻止していた。
 ナイマン族
アルタイ山脈からイルティシュ河畔に住む一族。 ネストリウス派キリスト教徒。 金と交易するには遠すぎるので、 もっと西の中央アジアのオアシス 都市と交易していた。
草原にも古代からの街道があり、メルキト族が東の金と交易するには、どうしてもケレイト族かキヤト族の勢力圏を通らなければなりませんでした。

メルキトの東進を阻止するためにキヤトとケレイトは同盟し、それによってキヤトはケレイトから物資や鉄の援助を受けていました。

メルキトがホエルンやボルテを娶ろうとしたのも、エスガイが力ずくで阻止したのも、こういう部族関係があるためだったとも言われています。




ここでさんざん鉄、鉄と言っているのは、
戦争するのにどうしても鉄が必要だからです。

武器類もすべて、自分たちで
作っていたのでした。
  金
北中国を支配していた女真族の王朝。草原部族が団結すると、とてもじゃないがかなわないので、分裂させておくために部族抗争を煽ったり、人口を減らすために定期的に奴隷狩りを行ったりしていた。豊かになるためにはここと交易するしかないが、許しがたい敵でもある。

民族や人種といった考えは、19世紀の西欧帝国主義の概念
なので、13世紀に持ち込んで考えることに意味はありません。
モンゴル系は東方に住む仏教徒、トルコ系は西方に住む
イスラム教徒とされていますが、そんなふうに分かれるのは
もっとずっと後年の話です。まだ未分化なのです。

1206年、草原を統一し、チンギス・ハーン即位
大モンゴル国(イェケ・モンゴル・ウルス)建国
(元朝はこの前に「大元(タイオン)」とつく。物の始まりという意味。)

イェケ・モンゴル・ウルスとは、「大なるモンゴルの人々」という国名。
ウルスとは国と訳されますが、領土のことではなく、「他者、他族を含めない身内の人々」という意味の言葉で、遊牧民にとっての国とは、仲間意識を持った人をすべて含む、柔軟な人々の集まりのことでした。
定着民はよその土地へ行くとその土地を得ることに執着し、元々そこにいた人を追い払ったり奴隷にしたりしますが、遊牧民は土地所有の観念自体がないので、元々そこにいた地元の人たちを、みんな仲間にしちゃうのです。

モンゴルは異文化に対する寛容さと、高い文化に対する謙虚な尊敬を常に持っていました。
大きなモンゴルの中にはさまざまな文化や宗教が取り込まれていき、モンゴル自身もさまざまに変容していきましたが、それらが原因で排斥や抑圧されることはありませんでした。
最初のディープインパクトさえ越えてしまえば、その後、文化や宗教が理由で弾圧されることはなかったのです。法律上で死刑になる人も、とても少なかったといわれています。
(元朝フビライ統治下の30年余りの期間で、死刑になったのは2500人弱。
これは現在のアメリカや中国の平均数よりもずっと少ないそうで、
まったく死刑が行われなかった年もあったらしいです。)

モンゴル以前、ユーラシア大陸にはさまざまな小さな部族や集団がいました。
安全や便利のために大きな国の傘下に入りたくても、自分たちの宗教や習俗を
弾圧される恐れがあるため二の足を踏んでいた彼らは、寛容なモンゴルに自ら進んで
合流し、モンゴルとなりました。
現在、黒海沿岸のクリミア半島に住む、クリミア・タタールと呼ばれる人々は、遺伝的にモンゴル人の血を引くのではなく、このようにして自らモンゴルに合流した、
少数民族や小集団の総称だったといいます。