人物 紹介

発音形態の違うモンゴル語を日本の仮名で完璧に表現するのはムリなので、名前の表記は日本で一般的に使われているものを使用しています。

  テムジン(チンギス・ハーン)
弱小貧乏部族モンゴルのキヤト氏貴族の末流の家に生まれる。早くに父が亡くなると一族に見捨てられ家は没落、艱難辛苦をなめるが、父のアンダ、ケレイトのトオリル・カンや、自分のアンダ、ジャムカらの力を借りて次第に頭角を現し、やがて両者を倒して草原を統一する。続いて代々の宿敵、金国を席捲、西の大国ホラズムを下し、全ユーラシアにまたがる大帝国の基礎を築く。 ただ、初期のモンゴルは文字を持っておらず、記録する習慣もないため、草原を統一してチンギス・ハーンを名乗り、世界へ討って出る中年以前のことはほとんど口伝承によっており、実像は謎に包まれている。

ボルテ

テムジンの妻。富裕な部族オンギラトの出身で、テムジンより1つ年長。聡明な女性で、重要な局面でテムジンにたびたび助言を与える。敵対するメルキト部族に略奪されたことがあり、帰ってきてから生まれたジュチは、血統に疑いをもたれてしまった。(疑いというか悪質な噂で、まず実子に間違いないんですけどね)      

    ベルグタイ
テムジンの異母弟。兄のベクテルがいたころはテムジンと対立していたが、ベクテルが死んでからは大人しい性格が前面に出て、テムジン陣営の一角をなした。兄弟1のお人よし。子供が100人居たので、「100人の子持ちのベルグタイ」と呼ばれた。

     カサル
テムジンのすぐ下の弟。弟として部下として、よく兄に仕える。軍隊指揮に優れ、対ナイマン戦では主力中軍の指揮を執る。 独立した勢力の主で、ジャムカたちと並んでテムジンの競争者だったらしく、その後の二人の確執は、それが要因になっている。

     ホエルン
テムジンの母。モンゴルのゴットマザー。オルクヌウト族出身。元々メルキト族に嫁ぐところを、テムジンの父エスガイの略奪を受けてモンゴルに来た。エスガイ亡き後、一族に見捨てられた一家を支え、女手一つで子供たちを育て上げた聡明な女性。
黄金氏族(アルタン・ウルク)
女性の地位の高いモンゴルでは、正妻の子だけが嫡子として皇位継承権を持つ。 チンギスの子の中ではボルテの生んだ4人の皇子、 ジュチ、チャガタイ、オゴデイ、トゥルイが嫡子となり、黄金氏族と呼ばれ長く栄えてゆく。
   ジュチ
出生の疑惑もあってか、とても大人しいテムジンの長子。武芸に長じ、師団長としてかなり有能だが、破壊や殺戮が嫌いで出来る限り避けようとするので、軍では少し浮いていたようだ。病を得て征西の戦線離脱したのを謀反と疑われ、チンギスから討伐軍が送られようとした時、訃報が届いた。
   チャガタイ
チンギスの次男。厳格な性格から法(ヤサ)の番人を仰せつかる大法官。正義漢過ぎて他人を許せないところがあり、功臣諸将ともよく諍いを起こした。機動力が命のモンゴルの戦争において、長兄ジュチの後々まで考えてなるべく無傷で城を落そうとする姿勢が理解できず、真正面から対立してしまう。
   トゥルイ
四皇子の末子。俺の都合が世界標準。兄弟一の戦上手で、末子相続のモンゴルでは、有力な後継者候補だった。チンギスの死後はほとんどの軍事力を継承、2年も監国として国政を担った。急激に膨張した帝国の主には調停能力を重視したチンギスの意向を尊重、オゴディに大ハーン位を譲った。
   オゴディ
上二人が仲悪いので、調整役だった三男。その調整能力を買われて二代目大ハーンになれたんだから良しとしよう。もともと冗談とおしゃべりの好きな、人好きのするタイプだったらしい。死ぬのがあと二年遅ければ、モンゴルのヨーロッパ遠征軍は大西洋に達していただろうと言われている。
   モンケ
トゥルイの長男。4代目大ハーン。沈着冷静で感情を表に出さない、趣味はユークリット幾何学という理知的な切れ者ながらシャーマニズム信奉者。大ハーンになるべく生まれたサラブレットだが、即位前の政争や若くして戦病死したため、治世は9年と割と短い。かなり厳しい人だったしね。
   グユク
オゴデイの長子。第三代大ハーン。母の身分からも本人の出来からも、元々は有力な跡継候補とは見られていなかった。ヨーロッパ遠征に参加した折、総司令官のバトゥと徹底的に対立してしまい、仇敵の間柄になった。大酒飲みで病気がちであり、即位後2年で病死。バトゥの暗殺説もある。

   オルダ
ジュチの庶長子と言われるが、実は生母はコンギラト附馬家出身のジュチの第一王妃でバリバリの嫡子。(今更直せないので、もう設定はこのまま行きます。)体が弱くて将軍としては使えず、「オルドを守るもの」の意味の名前になったらしい。バトゥと国を二分し、キプチャクウルスの左翼を形成する。

バトゥ
ジュチの嫡長子。ジュチが早く死んだため、ウルスを継いだ時はまだ20歳だった。29歳でヨーロッパ遠征軍の司令官を拝命、ロシア、ハンガリーを席巻し、叔父のチャガタイ、オゴディが死ぬと一族の長老となり、トゥルイウルスのモンケと同盟を組んで、帝国に隠然たる勢力を振るった。

シェイバン
バトゥの弟(資料によっては兄とも)。キプチャクウルスきっての武闘派で、対ハンガリーのサヨ河の戦いでは、バトゥの指揮の元、戦場での実戦部隊の指揮をとり、突撃を繰り返した。キプチャクウルスの北辺に独立したウルスを持ち、キプチャク宗家を支えた。

ベルケ
バトゥの弟。バトゥの意を受け、分身として他の勢力と交渉していた。バトゥの死後、バトゥの嫡子も相次いで死んだので、ベルケが跡を継いだ。ベルケには嫡子がなかったので、ベルケの死後、ハン位はまたバトゥ系に戻った。 跡目は継いだが、バトゥと同腹ではなく、庶子ギリギリの血筋らしい。

ノコル
部下であり、友であるもの。チンギス陣営の特徴として、アンダより子飼いのノコルを基軸にして組織を育てていったことが上げられる。
   ボオルチュ
アルラト族出身。最高の幕僚参謀、四駿の筆頭。参謀総長。少年時代、テムジンの盗まれた馬をともに取り戻しにいって以来、ずっとテムジンに従って力をあわせてきた、右腕的存在。良いこと悪いことをびしびし諫言してくれるテムジンの親友。チンギス即位の後は右翼の万戸侯に封じられる。
   ジェルメ
ボルジギン氏の隷属民、ウリャンハイ族の出身で、本職は加治屋らしい。テムジンの誕生祝に差し出された私奴隷あがり。戦闘も強いが、人の気がつかない細々した裏方仕事の方が好き。テムジンが毒矢で首を負傷した時、毒血を吸い出して看護し、単身敵陣に潜入して飲み物を取ってきて蘇生させた。
四駿
幕僚参謀
チンギス・ハーン
八大功臣
四狗
先鋒、
別働軍指揮官
  ムカリ
東方(中国戦線)総司令官兼占領地総督。国王と呼ばれる。モンゴル帝国の実質的bQ。誠実で有能、諫言も辞さず、チンギスの信頼も絶大だった。左翼万戸候。チンギスの征西中、金との戦いのさなかに54歳で死亡。彼の子孫はジャライル王家と呼ばれ、その後も難しい仕事に挑んでいく。
   スブタイ
ウリャンハイ族出身。テムジンの親衛隊(ケシクテイ)からたたき上げた愛弟子。モンゴルの戦闘にはすべて参加している勇将。征西ではジェベ、ヨーロッパ遠征ではバトゥを助けて功があった。誰と組ませても滞りなく最高の仕事を上げてくる、しかも政治的野心は何もない、使う方としては大変ありがたい人物。
  チラウン・バートル
元々タイチュウト氏に属していたソルカン・シラの子。少年だったテムジンがタイチュウトにさらわれ、集落を引き回された時、自分の一家の危険も顧みずそっと助けて逃がしてくれた功がある。
   ジェべ
タイチュウト氏の隷属民、ベスト氏族のスナイパー。矢が尽きて降伏したとき、以前自分が毒矢でテムジンを負傷させたと名乗り出た。テムジンはその正直さを愛し、陣営に加え、鏃を意味する「ジェベ」の名を与えた。大群を指揮して彼の右にでるものはなく、征西ではロシアまで別働軍主将として遠征した。。
   ボロクル
フウシン族出身。拾い子としてホエルンに育てられたとも言われるが、年齢的にあわない。他文化がモンゴルの記録を書き始める前に死んでいるので、重要人物ながら詳しいことがほとんど分からない。ケレイト族との戦いでは、激戦で負傷したオゴデイを保護し手当てした功がある。
   クビライ
バルラス族出身。ジャムカと袂を分かった時にテムジン側に帰順している。テムジンの第二次即位の際には、近衛軍団の総司令官に任じられる。テムジンの庶子、クランの子クルゲンの後見役。
ホエルンの4人の養い子
クチュ、ケクチュ、ボロクル、シギ=クトク
(クチュ、ケクチュは実在が未確認。
ボロクルも拾い子だったかは不明)
モンゴルには、戦場で拾った敵の子を養子として育てる風習がある。頭のよさそうな見目麗しい子供を選んで、貴婦人が養子とする。 貴族としてきっちり教育を受けるので、彼らの地位はかなり高く、国政に参加して重要な役回りを果たすようになる。
南宋攻めには、モンゴルとして育てられた金の遺児達が活躍していることからも、破れた側の血筋を政権に取り込んでゆく効果があった。
主な敬称
バートル:勇者
バヤン:富者
セチュン:賢者
ベキ:姫
ノヤン:殿
メルゲン:射手(弓の上手な者)
フジン、ウジン:夫人
(多分中国語の訛り 第一妃)

ハトン:妃(フジンより一つ下)
ゴア:姫、女性に対する美称
ビチェーチ(書記官)
統治の実務に不可欠な、文書業務に当たる官僚。モンゴルには文官の官称号がないので、文書業務に携わっていた者は、高級書記官から事務の下っ端まで、すべてビチェーチ。
  シギ=クトク
タタルからの拾い子。ホエルンが育てたとも、ボルテが育てたとも言われる。他のあいまいな者たちと違い、彼が拾い子なのは確からしい。戦いは下手で派手に負けてきたりしているが、モンゴルでは珍しく文字が書け、数に明るい。後に最高裁判官にあたる大断事官(ジャルグチ)となる。
耶律楚材(ウルツサハリ)
金に滅ぼされた遼の王族の一人。基本的にはオゴデイ時代の人。チンギスに「この人は天が我が家に下さった贈り物だ」と言わしめた人物だが、この時代の文書官はハーンの書記官に過ぎず、直接政治を司る宰相ではなかった。名で呼び捨てにせず「ウルツサハリ(長い髭)」との呼び名を下賜した。
  ソルカグタニ・ベキ(姫)
トゥルイの第1妃。同時代の詩人に「女性という種族の中に、このような人をもう一人見出すようなら、女性は男共より遥かに優れていると言わざるおえない!」とたたえられる賢夫人。ラシードも絶賛している。トゥルイ・ウルスを実質的に切り盛りしていたのは彼女だろうし、トゥルイ亡き後、ウルスが空中分解しなかったのも、彼女の手腕だろう。その死後は、チンギスと並んで祈りを捧げられる、モンゴルの守護母神となった。(エシ・ハトン(母上)と呼ばれる)位牌はチャハル部に受け継がれ、何百年も守られていった。
   クラン(忽蘭)
チンギスの第二夫人。メルキト族の娘。献上された時チンギスから純潔を疑われ、だったら自分で調べてみればいいじゃないと啖呵をきった。チンギスの征西に従い、行動を共にする。一人息子のクルゲンは、バトゥのヨーロッパ遠征に従軍して戦死している。

アンダ(盟友)
対等な部族長同士の同盟者のこと。
生死を共にと誓うのだが、利害がぶつかればいつ裏切るか分からない危ない関係。
   トオリル・ハン
強力なケレイト族の長で、テムジンの父エスガイのアンダ。テムジンは一時トオリル配下の武将だった。油断のならない古狐で、初期テムジンを庇護し、利用する。金から王の位を与えられ、「王(ワン)・ハン」とも呼ばれる。テムジンと協力して他の草原部族を平らげたあとは二人の直接対立となり、トオリルは敗退、ナイマンへ逃げる途中殺された。
   ジャムカ
テムジンの幼馴染で、子供のころからのアンダ。モンゴルの傍流、ジャダラン族の出身。頭の回転や政治力はテムジンより上だが、その才能に振り回されている感がある。初期テムジンと行動を共にするが、やがて袂を分ち対立。敗れて独立勢力をなくしたあとも、さまざまな部族に知恵袋として取り入っては、反テムジンの画策をする。

  • ココチュ(テプ・テングリ) シャーマン。宗教の力を借りてチンギスと勢力を争うが、粛清される。
  • タヤン・ハーン 優柔不断なナイマン族の王。チンギスとの戦いに敗れて戦死。
  • 耶律阿海 もと金の外交官の契丹人。テムジンに惚れ込み、弟の耶律禿花とともにモンゴルに降る。祖国を滅ぼした金を恨んでおり、チンギスに金を攻めることを薦める。
  • 長春真人 道教の教団、全真教の教主。チンギスに呼ばれてサマルカンドまで旅し、養生の道を説く。その道程の旅行記を書いたことでも有名。
  • 鎮海 ケレイト人といわれる。チンギスの即位前から従うバルジュナトの一人。アルタイ方面に屯田して鎮海城(ハルザン・シレグ遺跡)を築く。長春真人を西域に案内したのもこの人。オゴデイ時代には耶律楚材らとともに、ビチェーチの長として、主にムスリム関係の行政に従事した。
  • 文天祥 南宋の状元(科挙主席及第者)で丞相。南宋が滅びてからも、ゲリラ戦を組織してモンゴルに挑み続けた。捕虜になってからも帰順することを拒み、フビライも諦めて死を賜った。
バルジュナト
1202年、ケレイトとの激戦に破れたテムジン軍はちりじりになった。バルジュナ湖のほとりに逃れたテムジンと少数の部下たちは、湖の泥水をすすって永遠に変わらない君臣の誓いを結んだ。
これをバルジュナ湖の誓いと呼び、湖の誓約に加わった者とその子孫をバルジュナトと呼んで、その後のモンゴル帝国全土で、チンギスの股肱の臣として重んじられた。

ホラズム帝国
モンゴルの西、旧ソグド、ペルシャの領域に位置するイスラムの強力な新興国家。モンゴルには惨敗したが、けして弱い国ではなかった。モンゴルの隊商をスパイ容疑で皆殺しにしたため(実際スパイだった可能性が高い)大征西でモンゴルに滅ぼされる。
テルケン・ハートゥーン
スルタン・ムハンマドの母。ホラズムの軍事力の主力を占めるカンクリ族の出身。「カンクリさえ良けりゃ後はどーでもいい」論理の困ったバアさん。息子のスルタンとも仲が悪く、カンクリの軍事力をバックに政治を寸断し国を割る勢いで、モンゴルに付け込まれる原因になった。
チムール・メリク
ホラズム一の勇将。国境付近で全軍を集めてモンゴルと対決することを進言するが、容れられず、各地を転戦する。ジャラール皇子と合流してからはずっと側を離れず戦うが、インダス河でモンゴル軍に追いつかれ、戦死を遂げた。

ジャラール・ウッ・ディーン
ホラズムの第3皇子。勇猛果断に戦い、度々モンゴル軍を苦しめた。生母がインド貴族の娘でカンクリ族の血が薄いため、カンクリ至上主義の祖母から骨の髄まで嫌われていて、皇太子にはなれなかった。ホラズムが滅びた後もインドを足がかりにモンゴルに戦いをいどみ続けた。

スルタン・ムハンマド (アラー・ウッ・ディーン・ムハンマド)
ホラズム国王。母親との確執のため、味方に寝首を掻かれる事を恐れて大軍を集結させる事ができず、各都市に分散配置されたホラズム軍はモンゴル軍に各個撃破されていった。カスピ海の小島に追い詰められて窮死。


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