ムカリは国王と呼ばれていましたが、それはモンゴル側からではなく、
戦の相手である金国側から言われだしたようです。
陣営の中での離間策を狙ってのことだったようですが、ウケをとっただけでした。
(正式にその呼び方が決定されたのは1217年だそうですが、呼ばれだしたのはもっと早くからでしょう)

ムカリは東方戦線総司令官と占領地総督を兼ね、実質的にモンゴル帝国のナンバー2でした。
普通の王朝の場合、ムカリやスブタイ、ジェベあたりの人は、特に戦争が落ち着いた後は
力を持つゆえに危険視され、粛清の危険とかを感じるのではないかと思いますが、
初期モンゴルでは、功臣の粛清も、逆に反乱の類も、ほとんどありませんでした。
粛清の危険がないので、反乱の必要がない、というのもあるでしょう。
モンゴル人の頭数が少なくて困っていたので、「モンゴルはモンゴルを殺さず、共に富貴を受ける」が基本でした。

「以夷制夷」―夷を以って夷を制す
華北の中華王朝である金(皇室は女真族)の、北方遊牧民に対する基本政策。
遊牧民が一つに団結すると、とてもじゃないがかなわないので、
部族間を互いに争わせ、時には討伐に手を貸して、有能な首長を早め早めに叩き潰し、
約300年余りの平和を維持していたのでした。
もっとも、300年にわたる血で血を洗う部族間抗争に磨きぬかれて、
戦争の天才、チンギス・ハーンのような人が出てきちゃったわけですが。