登場すれば和平交渉、口を開けば助命嘆願。
「モンゴル帝国史」一巻の第五章の終わりあたりから、この七章のウルゲンチ攻めまで、
完全に軍から浮いてるように見えるほど出ずっぱりで
被害を最小限に抑えるための努力をしてきたジュチが(たいてい報われてないけど・・・)、
最後の最後に怒り心頭に発して怒鳴るシーン。 
FANとしてはもうかわいそうでかわいそうで、涙なくして読めません(泣υ)
彼はこれきり身体を壊してキプチャク草原に引きこもり、そのまま亡くなってしまうのです。
(40前後だったと言われています)

ウルゲンチ城攻めは6ヶ月も続き、その間激しい戦闘も行われていましたが、
ここまで長引いた原因は、何といっても城攻めの指揮を執るジュチとチャガタイの不和でした。
なるべく無傷で落したいジュチと、なるべく早く落したいチャガタイ。
二人の意見が噛み合わずにいたために、戦闘が6ヶ月も長引き、
最後には女子供まで巻き込んだ市街戦に発展して、城は壊滅してしまいました。
(これを見てたからバトゥは、その後のヨーロッパ遠征で、
降伏を蹴った城には一切の手加減ナシで、いきなり総攻撃&徹底的に見せしめ作戦を
取ったんじゃないでしょうか。いや、想像だけどね。)

長い市街戦を嫌ったジュチは、軍事拠点の橋を占拠して、一気に仕留めようとしたことがありました。
3000名の突撃部隊を送り込みましたが、押し返されて全滅してしまいました。
実はこの当事のモンゴルの悩みは、モンゴル人の人口の少ないことでした。
田舎の小さい草原部族がいきなり世界制覇したので、支配層たるモンゴル人の数が足りず、
なるべく死なせないよう、そして数を増やすよう、必死で努力していました。
軍律に触れて死罪になるような兵も、いきなり現地で殺させず、必ず中央官庁に護送して、
何とか命を奪わない方法はないか、法律を調べたものでした。
戦闘においても、なるべく兵が死なせないように心がけていました。
(モンゴル軍の、おとりが敵軍をおびき出して本隊が埋伏してるところまで連れ出し、
完全に包囲して遠くから一斉射撃という戦いかただと、自軍側にはほとんど戦死者が出ないのです。)
だからモンゴルでは、兵隊が1人2人死んだだけでも大変なことで、
100人単位で兵を死なせた指揮官は、中央に召還されて、資質審査を受けなければなりませんでした。
3000人もの兵を死なせたジュチは、この時点で軍法会議送りのミスをしでかしたことになります。
チャガタイが怒るのも、ムリのないことなのです。
(30000連れてってほとんど一人で帰ってきたシギ=クトクは軽く注意されただけですんでるので、
もちろんこれでジュチが処罰されたりするわけではないのですが)
ちなみに、 征西に参加していたモンゴル兵は、全部で10万ちょっとくらいだったといわれています。
(正確な数は軍事機密として厳重に伏せられていたため、今でも不明です)

ジュチが戦闘を嫌ったことは確かですが、その理由についてはさまざまな説があります。
後に自分の領地になるから保護したがっただけ、とも言われています。
たとえばジュチは征西前に、金国遠征でも師団長として戦闘に参加していますが、
その時はモンゴル軍の将軍として、特に浮いた行動はとっていないので、
モンゴル軍として当たり前の略奪や殺戮はやってたはずです。
(ビギナーだから監軍がついてて、それほど自分の思い通りには出来なかったのかもしれませんが)

理由はどうあれ、帝国史を読む限り、戦闘を避けようとする意思をもって働きかけてくる
モンゴルの将はジュチだけなので、それだけでもホラズムにとっては貴重な存在だったと思います。
報われてないけど・・・υ

ジュチをおとなしい平和主義者として書いたのは、ジュチの息子ベルケがイスラム教徒で、
モンゴルで初めてのイスラム教徒のハンになったので、執筆しているイスラム教徒に好感を持たれて
真実よりよい姿で書かれている、という説もあります。
確かにベルケはイスラム教徒で、キプチャク・ウルスもその後イスラム化したけれど、
(ベルケ本人がイスラム教徒だったってだけで、
キプチャク・ウルス全体がイスラム化したのはずっと後のウズベク・ハンの時代です)
モンゴルの歴史を書いているイスラム王朝は、フラグ・ウルス(イル・ハン国)か、その後継王朝です。
その人たちにとって直系の王朝の始祖であるトゥルイの言動には一切の脚色・・・というか
フォローすら入っていないのに、(坊ちゃんはっちゃけ行動記υ)
ただの伯父筋にすぎないジュチのことを、筆を曲げてまでよく書くなんて、ありそうもないように思います。
キプチャク・ウルスとイル・ハン国(フラグ・ウルス)はベルケとフラグの時代から
ずーっと喧嘩していたしね。