わからない―命
日記 05,4,26
突然変な話を始めていいですか。 長くなるし、ただの個人的な心情の吐露なので、お気に触ったらあしからずです。 数日前、高校の頃の友人達に会いに行ったときのこと。 食事に繰り出す車で移動している間に、前に乗った2人が、駐車場で猫を拾った話をしてたんです。 駐車場にまだ臍の緒もついてるような子猫が捨てられていて、見ていられなくて拾って困っていたら、 じゃあ僕がもらいますよと、通りすがりの男の人がもらっていってくれた話。 拾ってくれる人がいてよかったけど、まったく命を何だと思って云々・・・ というようなことを話しているのを聞きながら、私は違うことを思い出していました。 素人の小説(脚本?)を選抜して作る、カネボウヒューマンスペシャルのドラマに、 「ちゃんめろの山里で」というのがあったんです。 都会の主婦が田舎に移り住んで、地元の人々とかかわりながら暮らしていく話でした。 読んでいた新聞に小説が載ってたので、文章のほうでずっと追っていたんですが、その中の一つ、 仲良くなった猟師さんにもらった犬が、子犬をたくさん産んだときのエピソードがあったんです。 メスが2匹にオスが5匹、たくさん生まれちゃったけどどうしよう、というおばさんに向かって、 猟師さんは「子供を産むと雌はうんと頭が良くなるから、乳やり終わったら母犬は去勢して、 メスの2匹だけ残して、オスは箱に入れて川に流しゃいい」とこともなげにいうのです。 「えー、そんな残酷な!」と驚くおばさんに、 「何が残酷なもんか。かわいそうに思うなら、箱の中に菓子でも一つぽんと入れて、 なむなむって拝んで流せばそれでいいんだ」というのです。 結局おばさんは自分では出来なくて、旦那さんと猟師さんがやってくるんですけど、 確か中学生だったかの私はそれを読んで、はァこんなのもありなのか、と至極興味を引かれたのです。 (ちなみにのエピソードは、テレビドラマでは拾われませんでした。) 自分の周りにある生命倫理(多分今もその延長線上にある)と、だいぶ違っていたので。 同じようなかけらとして、モンゴルを旅行した獣医さんの紀行エッセイのなかで、 子供達が遊びに誘ってくれたのでついていくと、小さな林の前でわっと木をゆすって騒いで、 林に住んでいるシマリスがびっくりしてわらわら飛び出してくるのを、棒で叩いて殺して遊んでいる。 日本の感覚だとかわいそうだなと思ったけど、子供らみんな楽しそうだし、 そういうものかなと思ってみてた、というエピソードがあったんです。 もう一つモンゴルで、道端で知り合った遊牧民のおじさんとおしゃべりしていたら、 突然おじさんが持っていた銃をばんばん撃ち始め、タルバガンが何匹かひっくり返った。 でもおじさんはにこにこ笑っているだけで、別に取りにいくわけでもない。 ただ単に僕に狩りの楽しさを見せてくれただけらしい。(ついでにちょっと腕自慢) 完全なスポーツハンティング、無駄殺しです。 テレビじゃこういうエピソード拾わないけど、本、特に素人執筆者の書いた物に 時々こういうエピソードが浮かんでいて、私は気付いて拾い上げては、 胸の中の「解らない−命」って同じ引き出しの中に、放り込んであるのです。 子犬を川に流すなんてとんでもない! ちゃんとみんな貰い手を捜してあげるべきだ、 とか、 遊びでシマリス殺しちゃいけません! とか、 食べもしないのにタルバガンを撃つなんてかわいそうだ! とか、 言うのは簡単です。 今私のまわりに(私もその中に)溢れている生命倫理では、そう言うのが正統だと思います。 でもこれをやってるのは、プロの猟師さんとか、生粋の遊牧民とか、 命にずっと寄り添って生きている人たちであって、 スーパーで買ってきたスライスのお肉を毎日食べてる私のような者が、 そういう人たちに向かって「命とは・・・」なんて説教できる立場にあるとは思えません。 そういうことを言うだけの強い実感を持った生命倫理が、自分の中にあるとも思えません。 多分私の倫理より、彼らの倫理の方が完全に近いのです。 不完全なのはこちらの方だと感じています。 現在自分のまわりにある(中にもある)無駄に殺しちゃいけませんって生命倫理、 それは大方、正しいものだと思います。 でもねぇ、なんだかビックバン理論みたいな不完全さを感じているんです。 ギリギリ前のことまでは説明できても、肝心なビックバンの瞬間のことは説明できない不完全さ。 3次元の脳みそで4次元を垣間見ようとするときの、 事象は確かに4次元の存在を示して何らかの法則を持って歪んでいるけれど、 どうしても3次元の脳みそでは理解し得ない一つ上の次元世界の理解不能さ。 目の前に見えているけど掴めない、でも確かにある・・・のに掴めないのは、 私を支える倫理基盤を構成する基礎方程式が不完全だから? いくらかけらを拾い集めても、ただの無駄だと思います。 この引き出しのかけらは所詮欠片で、組み合わせて何かが出来るって類のものではない。 もし解るときが来るとしたら、それはなんだか全然別のアプローチをしてくるんだろうな。 んで解ったら、このかけらたちも一気に全部解ってガラクタになってしまって、 なーんだそうだったのか、納得納得。と思いながら引き出しひっくり返して ガラガラ全部捨てて、引き出しの見出しタグを剥すんだろうな。 そんな日が生きてるうちに来るだろうか。 このまま生きてたらきそうもないから、この引き出しはきっと来世の宿題に持ち越しだな。 なーんてことを考えてて・・・おお、そうだった、ここは友達の車の後部座席でした。 後部座席で誰にも何も言わずこんなこと考えてる友達は、うざったくて私だったらいやだなυ なんて、我にかえって辺りを見回したりしていたのでした。 ああ、書きたい事だったけど、締めに困ってしまいましたな。 ここまで飽きずに読んで下さった奇特な方、ありがとう。 でも他人の整理もされてない頭の中覗いたところでわけ解んないね。 みんな自分ナイズに勝手なところに勝手なもの詰め込んであるだけだからね。 まあどうせ答えは出てないんだから、ただの駄文ということで。 無駄な時間をぷれぜんとふぉーゆー。 私は時々引き出しを覗いちゃあ、考えてると思うけど。 |