雑誌記事寸評:リスク社会をどう生きるか(中央公論、06年6月号)

農業情報研究所(WAPIC)

06.5.16

 『中央公論』で、中西準子氏が「科学者に求められる責任とは何か」と問うている。

 主旨は次のとおりだ。

 狂牛病(BSE)から来る人間の変異型クロイツフェルト・ヤコブ(vCJD)病の問題への対応で、英国と日本の科学諮問機関は科学と科学者への信頼を失わせた。諮問委員会としての任務を厳密な科学的評価だけに絞ったために、不確実性が残るvCJDリスクの評価を放棄するに近い結論しか出せず、結局はリスク管理機関(行政機関)の 独走を許すことになったからだ。

 信頼を取り戻すにはリスク評価・管理に貢献しなければならないが、科学的評価にこだわるかぎり、科学者や専門家はリスク評価・管理に何も貢献できないだろう。今や、科学者と行政官のニ分法的役割分担は時代遅れだ。リスク評価とリスク管理はできれば分離したいが、これもできないことが多くなっている。不確実性の大きさを見積もることなしにリスク評価は成り立たず、どこまで不確実性の大きさを考慮すればいいかは、リスクを大きく見積もることによる負の影響(例えば牛肉不買運動の発生)が大きくならないか、つまりリスク管理を考慮して決めねばならないことがある。

 「何を考慮して不確実性を見積もるかをルールにし、透明性を保ち、修正可能な形にまですることが大事なのであって、これこそが、政策決定に関して科学が解決すべき課題ではなかろうか」、「科学者に求められているのは、従来の「科学」の枠を超えたものになっているのである。できるだけ事実に裏打ちされたものでなければならないが、それだけで構築されるものではなく、多くの推定を含み、不確実性の高い領域にも踏み込まざるを得ない。その結論は思想や好みに影響されやすく、幅のあるものである。それでもなお、一定の収束を目指す、それは基本的には不確実性の処理のための共通のルールを作ることであり、それこそが新しい科学であるはずである」と言う。

 これは、科学・科学者が信頼を取り戻すために決定的に重要な指摘であろう。しかし、どうすればこのような「共通のルール」ができるのか、私は知らない。

 この号で「食や農業も絶対安全主義は通用しない」と題して、「日本ほど豊かな食生活を送っている国はほかにないだろう。豊かさ故に仮想リスクを膨らませ、過剰な安全を求めすぎているように、私には感じられる。しかし、自給率は40%、輸入がストップすれば豊かさは一瞬にして消える。それが日本の最大の不安材料である、と思えてならない」と主張する松永和紀氏には、処理すべき不確実性そのものがほとんど認識されていないようにさえ見える。 彼女の議論の対象は農薬と遺伝子組み換え作物だが、これらのリスクはゼロではないとしても、拒否することの負の影響の大きさを考慮して見積もらねばならないほど(リスクの)不確実性はないということが前提となっている。

 私にとっては、自給率を40%にとどめているような日本の現在の食生活の方が「最大の不安材料」だ。肉食を減らせば、自給率は簡単に上がる。肉食を減らすことによる「負」の影響もない。却って生物多様性・人間の健康・持続可能な農業を含む環境に便益がある(肉摂取を減らせば生物多様性・人間の健康・持続可能な農業に便益ーオランダの研究)。気候変動の抑制にも貢献する(肉食か菜食かで食品生産による温暖化ガス排出量に大差ー米国の研究が菜食の勧め)。 狂牛病の根源である集約的・工業的と言われ、牛を食品製造装置とみなすような牛の飼い方も減るだろう[起源、病原体、感染・発病のメカニズムもはっきりしていない狂牛病とvCJDに関しては、人類は確かなリスク軽減・最小化措置は手にしていない。ただ、有機農場や草地農場では狂牛病は発生していないという事実を頼りに、牛の飼育方法を改めることで狂牛病根絶を図るのが唯一の確かな方法だ ー5.17追記]。負の影響も、見方によってはプラスの影響に変わる。しかも、これは「思想や好みに影響」された結論ではなく、科学的に確認を受けた結論だ。 こうした視点を抜きにした「リスク論」にどんな価値があるのだろうか。