要旨

WTO農業交渉における農業の「多面的機能」

 農業のもつ多面的機能とは、農産商品の生産という農業の基本的機能の発揮に伴って生み出される食糧安全保障・自然災害防止を含めた環境・景観保全・農村地域の維持・活性化などの様々な機能のことである。経済学的には、「外部性(外部効果)」であり、その多くは「公共財」に属する。

 この言葉が国際的な論議や交渉に登場するのは1990年代と比較的新しく、1992年の国連環境開発会議、1996年の世界食糧サミットでは、環境保護や食糧安全保障、持続可能な農村開発にとってのこの概念の重要性が認められた。

 他方、ウルグアイ・ラウンドにおいては、この概念は「非貿易関心事項」の名で登場した。ここでは、専ら多面的機能と国際貿易の関係が論じられ、制御されない貿易自由化は農業の多面的機能の実現を脅かすという主張と、この概念は新たな保護主義の口実となる主張が激しく対立した。最終合意文書(WTO農業協定)においては、農産物貿易の改革はこれに配慮して進めるとされ、この概念はWTOにおいても一応の公認を見た。

 しかし、この対立は解消するどころか激化しているようである。WTOの下での次期包括的多角的貿易交渉の開始を宣言するはずであったシアトル閣僚会議が決裂した一因は、農業交渉における多面的機能の扱いをめぐる対立にあった。日本は、EU、スイス、韓国等とともに「フレンド・オブ・マルチファンクショナリティ」グループを構成し、交渉が、「農村地域の社会的・経済的活力に特別に注意を向ける農村開発、環境保護、食糧安全保障、農産品の安全性、動物福祉」にかかわる「農業の多機能的役割」を考慮に入れるべきことを主張した。この主張は、多面的機能の強調が新たな保護主義の口実を生むことになるとする米国やオーストラリアを盟主とするケアンズ・グループの激しい反発を招いた。

 農業交渉が始まれば、この問題が再び焦点となることは間違いないであろう。わが国も、食料・農業・農村基本法において多面的機能確保の重要性を強調し、WTOに対しても、次期交渉が、食糧安全保障を含む多面的機能を最優先の考慮事項とするように提案している。多面的機能をめぐる交渉の行方は、わが国の農政と農業・農村の将来に大きくかかわるであろうし、これら機能に託された様々な目標は、シアトルに集まった世界の市民の最大関心事でもあった。

 多面的機能をめぐる対立は、一見したところ、自由貿易の経済的利益を最優先する米・豪と、食糧安全保障、環境保護、農村地域開発、食品安全などの公共政策の重要目標をこれに優先させる国々の対立のように見える。しかし、米・豪の主張の要点は、各国が食料安全保障・環境保護・農村地域活性化などを公共政策の重要目標として掲げることに反対するものではなく、これらの目標は農業生産と関連のない、生産刺激的・貿易歪曲的でない手段で達成できるとする点にある。しかし、EUや日本は、農業と農地がもつ多面的機能は歴史的生産物であり、これらの機能(財・サービス)は農業生産の「結合生産物」(すなわち、農業生産と不可分)であるから、農業生産の維持・増強なしには、これらの機能も維持し、増強できないとする。

 そうであれば、交渉は、結局は、目標達成のための具体的手段をどこまで認めるかという具体論においてしか決着しないであろう。

 EUは、1992年の共通農業政策改革以来、このための手段を調えてきたし、次期交渉を睨んで行われたアジェンダ2000のCAP改革で、それを一層強化し、精緻なものにした。保証価格引き下げ(内外価格差縮小)により削減約束の対象となる国内支持を大きく減らすとともに、保証価格引き下げに伴う所得補償も可能な限り「グリーン化」し、米・豪の攻撃に対処し得る具体的手段を確立した。

 もし、このEUの線で交渉が落着することになれば、日本がEUとの連携にかけた思惑は、大きくはずれることになる。EUには、先進国の食糧安全保障のために闘う用意はない。日本は、食糧安全保障を多面的機能に含めた意図を貫くために、食糧自給によっては食糧安全保障は達成できない、自由貿易こそ食糧安全保障の最良の手段とする米国と、自力によって闘わねばならない。そのためには、自由貿易が食糧安全保障に与えた影響を経験に基づいて検証し、同時に自給率向上のための具体的な国内手段を構築する必要がある。

 更に、生産刺激的・貿易歪曲的国内支持は、消費者・納税者の負担を増し、外国に悪影響を及ぼすばかりではなく、とりわけ環境への悪影響を増すという米・豪の批判に対応し、また、既にこのための具体的手段を構築しているEUの理解を得るために、そして何よりも国民の共感を得るためにも、このための具体的手段の構築を急ぐべきではなかろうか。

 多面的機能を必要としているのは、先進国ばかりではない。途上国が制御不能な都市化に対抗するための最良の手段は、健全な農業と農村を築くことである。多面的機能は、むしろ途上国でこそ必要である。WTO交渉に向けてわが国が与えられた課題の解決は、わが国だけではない、途上国の将来にもかかわっている。