農業情報研究所意見・論評2011年4月25日

脱原発の論理 高レベル放射性廃棄物 10万年もどこに? 

 福島第1原発事故以来、にわかに「脱原発」ムードが高まっている。

 4月24日には、「脱原発社会の実現を求める市民団体が24日、東京都内で相次いでデモ行進した。参加者は、福島第1原発の事故を踏まえエネルギー政策の見直しを訴えた」(毎日新聞 チェルノブイリ:脱原発訴え、都内でデモ 事故25年 4月24日)。デモに参加した作家 C・W・ニコルさん、「(原子力は)安いと言うけど 、原発には保険はきかない。事故があると、国がつぶれるほどのコストがかかる。No more atomic anything.(もう原子力はこりごりだ)」と言ったそうである(エネルギー政策転換」訴えるデモ行進)。

 24日の地方選挙、北陸電力の志賀原発がある石川県志賀町議選では、4年前に落選した原発運転差し止め訴訟の元原告団長・堂下健一氏が、「安全安心はうそだった。事故が起きれば作物もとれず、水産物も売れない」と訴え、トップで返り咲いた(石川・志賀町議選 反原発の元職がトップ当選 朝日新聞 2011425)。東京世田谷区長選では脱原発区長が誕生した。

 大手マスコミの論調にも変化が見られる。毎日は、「大災害を転機に、長期的な視点で原発からの脱却を進めたい」、理由は「どこまで安全装置を重ねても絶対の安全はなく」、「原発は大事故の影響があまりに大きく、長期に及ぶ。地震国であるという日本の特性も無視できない。予測不能な地震と原発の掛け算のようなリスクを、このまま許容できるとは思えない」からだ(社説:震災後 地震国の原発 政策の大転換を図れ)。

 地方紙は、「脱原発は自明」、チェルノブイリの「最も重要な教訓は、ひとたび原発で大事故が起きると、周辺の地域社会が丸ごと消滅するということだ。人々の生活も仕事も一挙に失われ、破壊されてしまう」、「日本の安全対策は「著しい放射能災害をもたらすような事態は、最初から想定しない」だけのことだ。何のことはない、「見たくないものは見ないから、存在しないのと同じ」という幼児的心性にすぎなかった」と言う(チェルノブイリ25年 脱原発は自明の教訓だ 琉球新報 4.25)。

  こうした論調の台頭は歓迎すべきものだ。それにもかかわらず、「どこまで安全装置を重ねても絶対の安全はなく」、「原発は大事故の影響があまりに大きく、長期に及ぶ。地震国であるという日本の特性も無視できない。予測不能な地震と原発の掛け算のようなリスクを、このまま許容できるとは思えない」といった主張はまったく新しいものではなく、以前から繰り返されてきたものだ。そして、このような「事故」とその結果の重大性を根拠とする脱原発論は、既存原発の廃止どろか、原発増設も阻止することができなかったのが現実だ。

 チェルノブイリや福島にもかかわらず、脱原発は非現実的、安全対策を強化しながら原発依存は維持せねばならないという論調が衰微することは考えられない。事故の可能性を軸とした論争は、以前と同様、「水掛け論」の域を脱することができないからだ。日本政か府も世界の多くの政府も、決して原発を諦めないだろう。

 我々は、原発があるかぎり、恐ろしい事故の経験から学ばねばならない。しかし、原発廃止のためには、それ以上のことが必要だ。問題は、「廃炉」で取り出した高レベル放射性廃棄物をどこに持っていくのか、どこに置くのかということだ。世界には、高レベル放射性廃棄物はすでに30万トンあり、これからも増え続ける。これは地下深くに埋めるのが最善とされるが、そうした場所は、今のところ、世界の何処にもない。認める地元住民はいない。米政府も世界に先駆けてナバダのユッカ・マウンテンに白羽の矢を立てたが、オバマ政府は最終的に断念した。

 フィンランドは、世界初の高レベル放射性廃棄物の最終処分場、オンカロの建設を始めた。10万年の間密封して貯蔵する必要があるが、人間の建築術が作り出したものは、せいぜい100年しかもたない(チェルノブイリ)のコンクリート製石棺は25年でボロボロだ。これを覆う新たな鋼鉄製のシェルターもせいぜい100しかもたない。 この100年の間に原子炉を解体するというが、解体で出る高レベル放射性廃棄物はどこに棄てるのか→ネイチャー:チェルノブイリの遺産)。しかも、たった数千年の歴史しかもたない人類が、それをはるかに上回る後代に、ここを発掘してはならないと、どういう言葉、記号で伝えるのか。原発は、いかなる解決策も持たないままに、走り出してしまった。

 Nuclear waste: Keep out – for 100,000 years,Guardian,4.24

 事故があろうがなかろうが、原発は人類滅亡以外の結果をもたらさない。