第三話『ダイナソア』


…暑い。
この感覚は、ずいぶんと、久しぶりだった。
聖堂のステンドグラスから注いできた、あの柔らかな日光とは比較にならない…限度と容赦を
知らない、子供のような日差し。頭の上から、つま先まで、全てを焦がすように照らしてくる。
その上、歩む二の足をゆるゆると縛り付ける、砂。砂。砂……見渡す限りの、砂。
わずかな高さと間をおいて、ひたすら波うち続ける乾いた土色の大地。
知りうる限りの知識を動員して、この特異な場所の、一般的な名称を言うとすれば。
砂漠。
それも、荒野のように、草と石の混じらない、乾燥した土の大河。
レナスの白い額に、一筋の汗が流れた。
この先…この、はるか先には、険しい山脈がある。
事実上の〈教会〉と〈魔導連合〉との国境の役割を背負っている。
加えて、この季節、連峰の向こう側では、暖かな季節風が吹く。吹き付けられたあちら側では山肌に
風流がせき止められて湿度が増し、雲となり、大量の雨を降らせる。その雨が生んだ河のほとりから、
あちら側に文明が発祥したという史実もあるが…こちら側に、その恵みの水は、一滴たり
とも、もたらされない。
あちら側でほとんどの水分を排出した雲は、乾燥した気流となり、こちら側の山肌を駆け下り、
熱風となって大地を焦がすのみ。
戦時中の様子をわずかに伝える資料の中に〈教会〉は〈魔導連合〉に対する陸上戦力を満足に送り込め
なかったとあるが、その主な原因は、この自然の障壁であると考えられる。
そして、争乱が終わった今でも、その壁はなおも〈教会〉を阻み続ける。
たとえそれが、今にも倒れそうな、少女だったとしても。
息が、乱れる。暑さに対する備えを、レナスは一切有していない。
ある意味、丸腰と言える状態で砂漠に入ろうとした彼女を、最後に立ち寄った村の若者が心配して薄い布を
くれたが、さきほど突風に吹き飛ばされて、もはや見えない。
常人であれば、もはや引き返すか…干涸らびているか。そんな窮地だというのに、相変わらずのその無表情には、
危機感のかけらもない。
「……」
レナスの、乾ききった唇が、動いている。
唱えている…聖言を。
聖典第二十八章第三十一項…主が地上に与える、潤いの恵みに感謝する文言。
主よ。その涙は慈愛の雨。
主よ。恵みたまえ。
主よ……
とさり。
それが、自分の倒れた音だと気付くまでに、少し、時間がかかった。
口の中に、少し入った砂が苦い。
「……」
すこし、ここで休もう。
即決し、遮るモノの何もない砂漠の真ん中で、レナスは…ためらいなく、目を、閉じた。
すぅ……と、大きくひとつだけ、息を付き。それきり、レナスは動かなくなった。
寝たのだ。
それは、教会式暗殺術に秘められた術儀のひとつ。
他を滅するだけでなく、他に滅されないこと…呼吸や拍動、およそすべての生命活動を、限界まで抑えることで、
いつかいかなる場合、場所においても、戦闘に支障のない体調を維持、回復する術。
目を閉じたまま…砂と風にさらされながら、照りつける日光に、少しずつ焦がされながら。
レナスは、寝ていた。…午睡を楽しむ、清楚な姫君の無邪気な寝顔で。
その深い眠りを邪魔する存在はない。全くそのままの状態で、かなりの時間が経過した。
風が強い。砂漠の形は一定ではない…砂が流され、大河の全容は刻一刻と変化し、二度と同じ姿を見せることは
ない。
徐々に、砂が、レナスの背中に、頭に、降り積もっていく。
やがて、顔や指先…わずかな部分を残して、少女の身体は、完全に砂の中に埋没していた。
肌の色に似た砂は保護色となり、人の目からは、ほとんど彼女の姿を覆い隠していた。
だがそれでも、彼女は、目を開かない。ただ深く、意識を眠りの底に沈めている。
とくん…とくん。
鼓動が、聞こえる。弱く、遅く…
とくん。とくん。とくん…
間をおかず、拍動は加速する。
とく。と。と。と、と、とととととと……
鼓動はやがて、あり得ない速度で命を刻み始める。砂の中にあるため外からは知れないが…唇は、もう、乾いては
いない。汗もとうに引き、白い肌は艶を取り戻し、わずかに朱が差している。
時間が逆流するように、降り積もった砂の下で展開される怒濤のような復活劇が、誰の目にも
止まることなく、開演し、そして終幕する。
「……」
あとに残るのは、余韻も引かぬ、静かな寝息のみ。
砂に埋もれながら、誰にも気付かれることなく、レナスはやがて、日没を迎えていた。
風も止み、空は深い青に染まり始めている。
温度差で生じた夜露で、わずかに水を含んだ砂。それを、ゆっくりとした足取りで踏みしめながら、彼女の方向に
迫ってくる存在があった。
馬を毛むくじゃらにしたような生物。砂漠にしか生息しない特殊な変種であろう。
長い首を地面に向けて下げ、鼻面を盛んに動かしている。その様子を見て、その背中にまたがっていた人影は、
乗騎の不審な行動に、怪訝な表情を浮かべる。
「…どうしたの?まだキャラバンは先だよ?止まっちゃ駄目だよぉ」
首を叩いて、騎をこちらに引き戻そうとするが、反応しない。ただ、微かに盛り上がった砂の山に鼻を埋めている。
…なにか、あるのだろうか?
騎から降り、砂山に近づく。
ふと、のぞき込んだ、その視界に…指が、映った。
反射的に、砂を掘り起こしてみると…腕が、肩が…そして、顔が。
砂で汚れた聖装束をまとった、少女が。
埋もれていた。
「だっ…だ、団長!!大変ですぅ!人が…人が!!」
もはや日の沈みかけた、砂漠の沈黙を粉々にするような大声。
しかし、それでも…砂に埋もれていた、その、少女は。目を開くことは、なかった。

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