夢を、見ていた。
意識化に展開される、記憶の大河の中の極彩色。
無限の空間の中にあって、彼女は、朦朧としながらも、その意識を保っていた。
聖堂の中。空は薄い雲に覆われ、時折顔のぞかせる日の光が束のように町並みを照らす光景は、キャンバスにとどめておきたいほど芸術的で…それでいて、空虚だった。
自分は、窓から、外を見ている。
いつものように。何の変わりもなく。
「やぁっ…たぁ!」
中庭の方から、声がした。
視線を向けてみると…やはり。いつもの鍛錬だ。
「どうした!昨日できたことが、なぜ今日できない?爪先、膝、腹から胸、そして肘だ…
体重移動を間違えるな!」
「……はぁっ!」
ろくに返事もせず、その銀髪の少女は、ひたすらに体を動かし続けていた。
幼いながら、その表情には戦士の自覚と冷徹さがある。人によっては鉄面皮の無表情ととれるかも
知れないが、自分には分かる。その純粋な性格が。
体裁きの方は…世辞にも、洗練された動作とは言えないが、才覚は感じる。
将来は、頼もしい使徒となることだろう。
柔らかな笑みを浮かべ、自分は、その少女の名を呼ぼうとした。訓練の邪魔になるかも知れないが、
一言、声をかけてやりたかった。
…しかし。名が、出てこない。
知らないはずはない。自分は、彼女が生まれてからずっと、ずっと…この様子を見続けてきたのだ。
それなのに、何故。
思わず、口元をおさえる。狼狽する心を、ゆっくりとした呼吸で静めようとするが、効果はない。
動悸が、胸に痛い。息が詰まり、思わず、絨毯の引かれた床に膝をついてしまう。
「はぁっ、はぁっ!」
響く、少女の声。次第にそれすらも霞んでいく。視界が混乱し、思考もまた…
少女の、名。名は、名は……

「……レナス」
目を開けた瞬間に、その名前は口をついた。
「今頃出てきても…遅いよ」
ゆっくりと、天蓋つきのベッドから身を起こし、その少女は、ひとつ息を付いた。
まだ、夜も明けぬ時刻。二つの月はまだ、遠くに見える山々の後ろに隠れる気配もない。
ちょうどこの時間、二つの月は、その色を最も強く顕示し始める。
白き月は、陽光のごとく地上を照らし…黒き月は、沈み込むような闇で、町並みを夜のままとどめおこうとする。
二つの、輝き。それはまるで、意志あるかのように。
「…疼くのかい?」
少女は、問いかけた。二つの、月に。
当然ながら、返事はない。しかし、少女は、ひとつ小さくうなずいた。
「けど、まだ、その時ではないんだ。責めるなら…わたしを責めていいよ」
つぶやき、眉を伏せる。最後の言葉は、もはや問いかけではない。
「…全部、わたしが、したことだから」
しばし、少女は瞑目した。やがて糸が切れたように、再びベッドに身を預けると、手近にあった金色の
小さな鈴を鳴らす。
「…お呼びでしょうか。教皇さま」
すぐにやってきた侍女に、少女は、柔らかな笑みを向け、
「…こっちに、来てくれないかな。一緒に、月を見たいんだ」
「はい。…その前に、水をお持ちしましょうか…。声が、かすれておいでです」
「いいんだ。大丈夫。あと…教皇とは、今は、呼ばないで欲しいんだ」
「かしこまりました…シルメリアさま。それでは、お邪魔いたします」
聖印を切り、侍女はドアを閉めた。うやうやしい動作でベッドに近づくと、少女…シルメリアの
前で、もう一度聖印を切る。
月明かりに照らされた彼女は、よく見れば、シルメリアと同じような背格好の少女だった。
シルメリアのために…彼女の世話をするためだけに、教会に育てられた、少女だった。
何か、そのためだけに育てられた者。〈教会〉には、少なくない。
「こっちに、来て」
導かれるまま、侍女は、シルメリアのベッドに浅く腰掛ける。
二つの小さな影が、波打つ白いシーツの上に伸びる。
「…古来より、影というものは、黒き月の生み出す光の残滓であると言われているんだ。
知っていた?」
「はい。それと同じように、黒き月そのものが、白き月の影であるとも、耳にしたことが
あります」
「…言い得て、妙だね。適切な表現だ。でも、真実は少し、違う」
す、と、腕を伸ばす。親指に白き月、小指に黒き月をとらえながら、シルメリアは唱え始めた。
「主、二つに分かつ。其が分身、彼が分身…永久なる闇の彼方に浮かべる……」
侍女は、その文言に何かを察したように、シルメリアの伸ばされた手を静かに取り、
「主、二つを愛でる。其が分身、彼が分身…悠久なる光の彼方に見通す……」
小さな手、細い指が、中空で緩やかに絡み合った。
「この文言…聖典第八十章第十三項。シルメリア様が、お記しになった聖言でございますね」
「そう。もう、何年も前のことだ。よく思い出せないけど…あのころが、一番楽しかった…。
もう、戻れないんだね。時の流るるままに…主も仰せだ」
声も、表情も、言いようもなく悲しげで、切なくて。
けど、涙は出ない。とうに枯れた。思い出せないほど、昔に…全て、出し尽くしてしまったから。
「でも、わたしは、戻りたい。どうしても…どう…しても…ッ」
それでも、泣きたいと思った。あの鼻の痛みが、ひたすらに恋しかった。
「わたしは…わたしはッ……!!」
けれども、身体は、思いとは裏腹。
先ほどの夢に似た動悸と息切れが、シルメリアを締め付け始めた。
言葉と呼吸を著しく乱し、それでもシルメリアの指は、月から離れようとはしなかった。
侍女は、手慣れた所作で、携帯していた袋の中から、澄んだ色をした液体の入った瓶を取り出す。
迷うことなく液体を口に含み…息も荒く肩を上下させるシルメリアの唇に、自身のそれを押しつけた。
二つの月を背景に、影が深く混じり合う。
「…っ、……っ」
シルメリアの喉が、大きく動く。何度も…貪るように。
やがて、二つの顔が離れた頃、シルメリアの息の乱れは、すでに治まっていた。
「…お加減は、いかがですか?」
濡れ、微かに光るシルメリアの口元を布でぬぐいながら、侍女は聞いた。
「何とか…落ち着いたよ…。ありがとう」
「とんでもございません。…もう、お休みになられた方が」
「うん…そう、するよ」
横になり、シルメリアは目を閉じた。
侍女は、その手を柔らかく握り、反対の手で、シルメリアの白い髪を、優しく撫で続けた。
教皇が、浅い眠りに落ちるまで。
…束の間の安息に、身を沈めるまで。

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