日の光が、やがて濃い朱に染まる頃。
街は、にわかに、騒がしくなる。
いつものことではあるのだが、今日は、今日ばかりは、毛色が違う。
商人たちは、今からが、日中と並ぶ稼ぎ時だというのに、早々に店を畳み…歩き出す。
彼らの足の向かう先は、ひとつ、同じところだった。
……普段は、乾ききって崩れかけた老木のみが、孤独にたたずむ、砂漠のとある一帯。
そこに、巨大な、演目場が出現していた。
水をすくう子供の手のように丸まった作りの、大きなテントである。わざわざ遠方の商人から大量に買い付けた、太く大きな丸太を惜しみなくうち立て、大の男の腕ほどもある、幾重にも編み込まれた綱を張り。その上にかぶせられたテントの幕は、商人の妻たちが夜な夜な集まって一ヶ月ががりで仕上げた、ひとつの集落の面積にも匹敵する広範なものだった。
「商売祭開会式、開場はすでに始まっています!参加される方は、商行証明書をすぐに提示できるご用意の上、五列にお並びいただき、正面の入り口にどうぞ!」
衛兵の張り上げる声も、開場に近づくに連れ高まるざわめきに、所々聞き取れない部分が多い。
「…参ったな。だいぶ並んでおる。もう少し早く出れば良かったか…あの客め、ぎりぎりまで値切りおってからに」
嘆息ぎみにひとりごちると、ルシュナは、まだ遠くにそびえるのみの大きなテント…演目場に、神妙な面もちで視線を走らせた。
次第に、濃紺に埋もれていく空。そこに、いくつもの松明に照らされ、荘厳に浮かび上がる巨躯。
こうして…見るのは、入るのは、はじめてだ。
特別に設えられた裏口から、誰も彼もにかしづかれながらのあのときとは、違うのだ。
「……」
手のひらに浮かんだ汗を、衣服の裾になすりつけ、咳払いひとつ。
落ち着け。なめられるな…まだ始まってもいないのだぞ。
じりじりと進んでいく列。やがて、テント内部へと続く入り口で、入場者の管理をする衛兵の顔が見えた。
だが…その胸ぐらを掴んで、大声でまくし立てる男の姿もまた、見えてしまったのである。
「ですから、商行証明書を提示していただかなければ、入場を許可することは出来ません」
「だから、忘れちまったって言ってんだろ?!分からねぇ野郎だな…!」
「お忘れなのでしたら、一度お戻りの上、再度おいで下さいと、何度も申しています!」
「そんなことしたら、また一番後ろまで逆戻りじゃねぇか!いいから入れろ!そこをどけ!」
「ですから…!」
完全に頭に血を上らせた様子の男に、譲歩の気配は微塵もない。
いずれ、衛兵にたたき出されるだろう…そうは思いつつも、ルシュナは半眼、嘆息ぎみに悶着を眺めていた。
…しかし。
不意に冷静になったのか、男は当たりを見渡し…最も弱そうな、とある一人に、狙いを変更した。
「なんだ…てめぇ!ガキのくせしやがって…じろじろ見てんじゃねぇ!第一な、てめぇみたいなのが、商売祭に参加するってのか?はッ、笑わせてくれるねぇ!」
「なん……じゃと?!」
矜持を傷つけるような言葉に、ルシュナの怒りは瞬沸した。
「持論を正論と押しつける不逞の輩に言われたくはないわ。貴様こそ、そこをどけ。邪魔じゃ」
売り言葉に買い言葉。
怒りの矛先は、瞬時に変更された。
「この…ガキがぁ!!」
乱暴な所作で、衣服の胸元を掴まれる。
「今の言葉、取り消しやがれ!」
「…断る。そちらこそ取り消せ!私は商人じゃ…しかも、証明書を忘れるような無能でもない」
例え言葉とは言え、買ったものを売りもせず捨てることはしない。
しかし、誇り高い商人の理論は、男には理解されなかったようだ。
「黙りやがれ!!」
手を振り上げる、男。
思わず、目を閉じてしまったのは…不覚だったが。
「っぎぇあ…!!」
…その無様な悲鳴が、自分のものでないことは、分かったが…
次に、目に映った光景には、驚きを禁じ得なかった。
ルシュナの胸ぐらを掴んでいた両腕が、あらぬ方向へと折れ曲がっていた。一瞬で卒倒したのか、白目を剥いて泡を吹いている。
「…怪我はなくて?」
目の前。そこに…微かに薄目を開いた、女性がいた。
身体の線をなぞるような作りの、濃緑色の衣服。恐らく軍服だろう。その上に日よけのローブを羽織ってはいるが、砂に汚れぬ紺色の髪、白い肌は、女性がこの国の人間ではないことを誰の目にも明らかにする。
「ごめんなさい。余計な手出しかとは思ったのだけれど…つい。列にも割り込んでしまったし」
「い、いや。こちらこそ、すまん。面倒をかけた」
素直に、砂漠式の礼で頭を下げる。
対して女性は、完全にまぶたを閉じ、小さく微笑んだ。
「礼には及ばないわ。でも…お気を付けて。危険は、どこに潜んでいるか、分からないものだから」
含んだような言い方。しかも、その中身を、微かにちらつかせるような…。
「うむ…肝に銘じよう」
「ええ。それでは…」
区切り、一息…
「ごきげんよう、姫様」
意図して言葉の末尾を濁した。ルシュナは見抜いていたが、聞き返す前に、女性は歩み出していた。後ろ姿はもはや見えない。後日礼でもと思ったが、それもかなわないようだ。
倒れたままの男は連行され、列はその後、滞りなく進行し、ルシュナも入場した。無論、証明書を忘れるような下手はしない。
暗く長い、場内への道を抜けると……
演目場内は、すでに熱気で満ちていた。
「……」
ざしゃ…。
音まで立てて、立ち止まってしまう。その拍子に後ろの商人の胸元に後頭部を埋めてしまったが、「すまぬ…」と一言残し、足早に進んでいく。
比較的空いた区画に身を滑り込ませると、小さく方を上下させる。
想像していたより…濃い。
肺の中に満ちた、空気以外の熱い何かを、すぐには受け入れられず、小さく咳き込む。
「ついに…ついに、来たぞ」
それでも、つぶやくことが出来た。
毎夜毎夜…寝床で、必ず思い浮かべた情景。
商人として立つ、演目場の光景。
目の前に広がったのは、正にそれ…演目場中央に、くぼんだように広がる演壇。
囲むように、外側に行くに連れ広がる、客席。
そこを満たす、猛者たち。
「………」
今度は、大きく吸い込むことが出来た。
それは、血液を巡り、脳内を満たし。
「…いい雰囲気じゃ」
迷いを、消した。
吹っ切ったところで、ルシュナは、素早く視線を走らせた。
その到達点…演目場最上段には、設えられた三つの玉座に治まる、王、王妃、そして…姫の姿があった。
手を閉じた膝の上に置き、首は真っ直ぐに前を向き…ひとまず妙な動きもない。
両側の王、王妃にも、変わった様子はない。
よしよし…うまくやっておる。ばれておらんな…。
自信に満ちた断言を心中で響かせると、ルシュナは、演目場の中央に、再び目をやった。
三昼夜続く、商売祭。その初日である今日、すべての商人たちはここに集う。
開催式への出席という名目もあるが、そのほとんどは…この席で発表される、とあるモノへの関心から集まっている。ルシュナも無論、その例に漏れない。
やがて、中心に設けられた演壇に、司会の男が登ると、場内にどよめきが起こった。
「……みなさま、たいへん長らくお待たせいたしました!いよいよ、今回の祭りの主宴目!大競り市の、対象品をお目にかけたいと思います!」
待ちに待った言葉。商人たちの歓声は、耳に痛いほどだ。
無理もない。彼らが、この貴重な機会に恵まれるのは、例外なく、年に一度だけなのだ。
……王室が、広大な砂漠のいずこかに隠し持つという宝物庫。
その中より、毎年たった一つだけ…はるか過去より伝えられ、戦乱の火の手からすら逃げ延びた秘蔵の品が解禁され、この壇上に登るのだ。決して並の市場に出回ることのない、至高の逸品。
いやが上にも、緊張が高まる。
ともすれば張り裂けそうな場の緊張を、司会も、痛いほど肌に感じていた。
なにより己の高ぶりを押さえきれなかったか、甲高い声を張り上げる。
「今回の競りの目玉はッ…この一品!名槍〈ダイナソア〉!!」
布の覆いが、司会の手によってはぎ取られた瞬間…その場にいた全ての人間の視線が、その、一振りの槍に集中した。
青く染め抜かれた全身は、焼き入れの段階から特殊な薬品を用いて生成された証。
本来なら鳥のくちばしのように取り付けられる先端の刃の部分は、不自然なほど巨大で、槍の身の半ばほどまで伸びている。その部分に、規則正しく並んだ窓のように配置された数個の宝玉は澄み渡る透明で、演目場に掲げられた松明の光を四方八方から受け、淡く輝いていた。
王室が確保していたものである以上、粗悪な偽物と言うことは、あり得ない。
それに、分かるのだ。
圧力。そう言っては語弊が生じるかも知れないが…本物だけが帯びる、威圧感。
離れていて、これである。もし、己のものとすることが出来たら……。
いずれにせよ…己の財を賭しうるに、足りる。商人たちは、唾を飲んだ。
「何という…神々しい」
「あれが、ダイナソア。第三次砂戦争末期、英雄ムザルークが用いて戦場を平定したという…!」
「素晴らしい逸品だ。ぜひとも…欲しいものだな」
誰かがつぶやいた一言は、その他全ての商人たちの声ならざる意見を、極めて正確に代弁していた。
「みなさま!ご覧いただけましたでしょうか?!間違いございません、本物です!あのダイナソア
が、競り市の壇上に登るのです!」
視界の大仰な動作は止まない。大きく、大きく息を吸い込むと、
「この至高の一振りを手にするのは、果たして誰なのでしょうか……?!答えは、祭りの最後で待っています!それではみなさま!僭越ながら私が!今!この場で!一年一度の、商売祭の開催を、宣言いたします!!」
空を貫くばかりの声量で。集まった商人全員の鼓膜を叩き、鼓舞する文言が発せられた。
呼応するように、大歓声が、演目場全体を揺るがせる。
「……すごいな」
となりの、大柄な商人のつんざくような声に顔をしかめつつも、ルシュナは、素直に吐露した。
今、鏡を見たくはない…口元がゆるんだ、今の自分の顔は、なんとも情けないものと分かるから。
この感情。この、情熱。失わぬうちに、帰ろう。
今のうちに燃え尽きていては、笑い話にもならない…全て、明日から始まるのだ。
一目。射るように、未だ演壇上で煌めく〈ダイナソア〉を見やると、ルシュナは、会場を後にした。
その後、やがて品見せも終わり、演目場から去っていく商人たちの目は、どれも、輝いている。
必ず、あれを手に入れる。競り市に勝ち、商人としての誇りを得る。
そのために…この祭で、できうる限り、富を得る。
だからこそ、商売祭は加熱していく。加速していく。
夜も朝もなく、売り買いの声だけが響く…決戦の場、商売祭の火蓋が、切って落とされたのだった。


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