はしごを伝ってベランダに降り立つと、ルシュナは、椅子に鎮座していたレナスを見つけた。
「戻ったぞ。…存外、上手くやっておるようじゃな。感謝するぞ」
言葉に気付いたか、レナスは顔を上げた。
もう夕食も終えた時間帯であるせいか、あのヴェールは身につけていない。
月光に微かに照らし出されたその無表情は、今は、微かな困惑と思索に彩られていた。
「師匠」
「…うむ。どうした?」
「師匠…あの、競り市には、私は参加できないのですか?」
…一瞬だけ、ルシュナの視界が暗転した。夜だから…という理由では説明できないほど、はっきりと。その後、目を皿のように丸くした。全く予想しない問いだった。
「ま、待て。待ってくれ…お前が…か?!そうじゃな、お主は商人ではないから、参加資格がないしのう…と、そうではなくて!今お主は、姫なのじゃぞ?!私の代わりをしているのだぞ?!無茶を言うでない!」
とっさの言葉は、つい荒くなる。はっきりと言いきられ、レナスは、小さくうつむくと、
「…ならば、もう、師匠の代わりはできません」
言うが早いか、おもむろに…身にまとっていたドレスを脱ぎ始めた。
「あの槍を、私はどうしても手に入れなければなりません」
背中の布止めを外そうともがくレナス。そのたびに、衣服は乱れ、ずり下がっていってしまう。
「し、しばし待て!それは困る!それが一番困る!約束したであろう?!」
「でも、私は…」
「分かった、分かった!じゃから、ひとまず落ち着くのじゃ…ほれ、襟を正さぬか」
はだけかけたドレスの胸元をただしてやりながら、ルシュナは大きく息を吐いた。
「…おぬし、なぜそうまでしてあの槍にこだわる?確かに、ただならぬものは感じたが…おぬしくらいの娘の趣味に合うものではあるまいて」
「…あれは、〈聖剣〉なのです。私は、あれを手に入れなければなりません」
「な、なんじゃと?」
「ですから」
「待て。言葉は聞こえた。だが…意味が、理解できん。〈聖剣〉とな…聞いたことはあるぞ。伝説の武具。しかし、あの槍が、そうだというのか?」
レナスの首が、こくりと縦に動いた。
もう一度、訪ねる。反応は同じ。
さらにもう一度…訪ねようとして、ルシュナは口をつぐんだ。
返ってくる答えは、恐らく同じ…それより、レナスの表情に、目を奪われたのだ。
無表情に変わりはない。それどころか、より、顔の表面から感情が消失している。
戦場の兵士は、昂揚の果てに無我に至ると言うが…それと、同じなのだろうか。
それほどまでに。もはや、本能的に。
この娘は自身が〈聖剣〉と呼ぶ武具を、欲しているのだろう。
嘘を言っているようには、見えない。それに、例え嘘だったにしても。
この娘の嘘なら、面白い。
「…なんと。我が王家の宝物庫に、そのようなモノが埋もれていたとはな…。驚きじゃ」
やや芝居がかった口調で、ルシュナは言った。
「そんな貴重な品であれば、ぜひ欲しい…ぜひとも欲しい!この手にしたい…そうじゃろ?」
まだ、完全に、レナスの言葉を信じたわけではない。
しかし、否定したわけでもない。
ただ、確かなのは…より、負けられなくなったということ。
そしてなにより。
「ますます…燃えてきたわ」
「…師匠」
「一番簡単なのは、奪うこと…競りの会場から盗むなり、はたまた手に入れた人間から…。だが、我らは商人じゃ。ものを手に入れるなら、あくまで取引き。通貨で交換する…それ以外にない」
「…はい」
「勘違いしてはいかん。まだアレを競り落とすと決めたわけではないぞ。ルシュナ一座は、無駄な買い物はしない…それが、私の流儀」
心根と、全く正反対の文言で締めて、ルシュナは小さく鼻を鳴らし腕を組んだ。
…嘘も方便。特に、この地域では。
「……はい」
言ったきり、レナスはうつむいた。その表情は相変わらず凍り付いたままだが、微かな憂いの色が見て取れる。
少し、言い過ぎたか…もとより、無理を言っているのは自分の方だった。
ルシュナは、唇をとがらせて、息を吹いた。
「ま、しかし、お主には迷惑をかけておるしな。礼のひとつでも…せんではないぞ」
レナスの顔が、ぱっと上がる、が、その鼻先に指を突きつけ、
「じゃが、私が本懐を遂げるまで、課せられた役を完璧に演じ切れたらの話じゃぞ。ひとつでも失敗すれば、全てが無駄になる。よいな?」
「…はい」
「何を、景気の悪い顔をしておる。私を、誰だと思っている?任せておけ。悪いようにはせぬ」
tから強く言い放った後、ルシュナはレナスに背を向け、小さく肩を下げた。
ただでさえ、気が急って、眠れそうもなかったというのに。
満天の星空に制された夜空を見上げて、
「いよいよ、明日…明日じゃ」


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