そして。
ついに訪れた商売祭、初日。
さらなる熱気に包まれた街は、人でごった返していた。
近くは、この街に住まう民たち。遠くは、砂漠の反対側を遊牧しているはずの騎馬民族たち。
普段見ない作りの衣服をまとった客、それらが操る聞き慣れない言語。
中には聖装束をまとった者もいて、これは、見覚えのある聖印を切って、店の前を通り過ぎていった。
これ。この混沌こそ、商売祭。
年に一度の、祭りなのだ。
しかし、その最中にあって…ルシュナの表情は、どこか沈鬱だった。
脳裏に、繰り返し思い返されるのは、昨夜の言葉…交わした、約束だった。
ああ言いは、したものの…あの競り市の厳しさは、尋常なものではない。
それを、ルシュナは、他でもない姫の玉座から、毎年眺め続けてきたのだ。
己の汗水の化身とも言える富を、迫真の気合いを込めて注ぎ込み、激突させる…あの競りは、決闘なのだ。血の変わりに、多量の金が流れる。むせかえるほどの重さと、想いを持った…。
思い返すだけで、鳥肌が立つ。
果たして、勝てるのか…湧き上がった弱音を、ルシュナは首を横に振りたくることで、ひとまずは
心の奥底に封じた。
望んでいた、事ではないか。あの場で、存分に勝負したい。そう思ったのは、自分ではないか。
この厳しさを、瀬戸際を、むしろ幸福と思うようでなければ…城を抜け出した甲斐がない。
小さく息を吐くと、ルシュナは顔を上げ、店内を見渡した。
客の入りは、祭りの最中と言うこともあり、いつもより数段激しい。選び抜き、鍛え上げたはずの
一座の面々ですら、額に汗を浮かべ、雑務の処理に追われている。
自分も、そうでなければ。
…私は、今、夢の中にいる。待ち望んだ、舞台に立っている。
楽しまずして、どうする?
刹那、ルシュナの顔に浮かんだ笑みは…清々として、それでいて狡猾な。
商人の浮かべる、それに違いなかった。
心配は、金勘定の時だけで、いい。
それも、最後の最後。あの槍…〈ダイナソア〉を競り落とす、その瞬間。
おそらく今までの生涯の中で、最も痛快で、恍惚とした瞬間…
「…ん長!団長!聞いてますか?!」
思わぬ横槍は、商品の仕入れを任せてある青年の、明らかに焦燥した呼びかけから入った。
「お、おお、すまぬ。ちと、考え事をな…。で、何事じゃ?偉い剣幕じゃの」
「そうなんです!大変なんですよ!確保してあったはずの、ボルドーの苗木…あれが、ほとんど別の買い手に持って行かれたって言うんですよ!」
瞬間。声を認識した神経が、火花を散らした。
そしてそれは、瞬時にして、怒りの炎を脳内に点火した。
「な…んじゃと?!たしかか?!」
「はい…市場にジャンが行ってます。そこからの早駆け伝言だったんで…全部ってわけじゃないみたいなんですが、予定の半分にも足りてません!」
「馬鹿な…ッ!」
確保してあったはずのその商品は、今日の特売品として陳列するはずだった、いわば目玉の品である。それを奪われたとなると、そもそも今日の商売自体が成り立たなくなる恐れも生じる。
鼻息も荒く、ルシュナは人目もはばからない大声で、
「どういうことじゃ!あの植物商め、契約の履行すら満足にできんのか…?!もうよい、私が直接行く。一言言ってやらねば気が済まぬわ…店のことは、グレスとテミアに任せる。帳簿はいつもの所に置いてあるからの!」
「はい!どのくらいで戻れますか?!もう、二、三人、苗木目当ての客が来てるんです!」
「出来る限り早く、秘蔵っ子を連れて戻ってくるわ!どうしても欲しいという客には、他の店より少し高い値を吹っかけておけ…交渉で時間稼ぎじゃ!ロベルド!騎の準備を、三十秒で済ませてくれ!」
「了解です!」
風除けのマントを羽織って、口と鼻を覆うように布を巻いて。
テントの柱に引っかけてあった一振りの鞭を手に取ると、裏口から外へと飛び出す。
騎は、すでに鞍と手綱を装着して、小さくいななきすら上げていた。
「…予定より六秒早いの。感謝する!」
「とんでもない!団長、ご武運を!」
「ああ…まかせておけ!」
飛び込むようにしてまたがり、尻に鞭の一振りを入れると、騎は弾け飛ぶように走り出した。
ただでさえ混み合うこの大通り、しかも今は商売祭の最中。本来なら歩くことすら苦労するほどだが……まるで河を下る船のように、人をかき分け、押しのけ、ルシュナは疾走を始めた。
「う、うわぁっ!」
「お、おい!あぶねぇじゃねぇか!!」
「どこみて走ってんだぁ?!」
各方面からの罵声も、流れ去る風切り音と、何より、一向に冷める様子のない憤りによって、ほぼ全てが一方的に遮断されていた。
やがて、開けた場所に着く。街の一角を占有する、取引市場だ。
この街に搬入された全ての貨物はいったんここに集められ、そして手続きを経て各商店に散らばっていく。
入ってくる、または出ていく人や商品と凄まじい速度ですれ違いながら、ルシュナは市場の中を行く。そして…その、すでに沸点すら通り越した怒りのすべてを捧ぐべき相手を、捕捉する。
「……見つけたぞッ!!」
思い切り手綱を引く。騎はいななきを上げながら前足を持ち上げ、意と慣性に抗って減速し、近くに積み上げられた樽に衝突する寸前でようやく停止する。
その騎上から、ひらりと飛んだ人影ひとつ。
軽い身のこなしで着地するなり、ルシュナは、件の植物商めがけて、敵意むき出しのまま駆けだした。
あちらも、この怒りの来訪をある程度予想していたのか、手を揃えやや腰を下げ…普段よりさらに低姿勢で、怒れる上得意先に応対した。
「あ、これは…ルシュナさん。いつもお世話になっております…」
「黙らぬか、この詐欺師め!よいか、要求はひとつじゃ。今すぐ、注文通りの数のボルドーの苗木をここに用意しろ…できぬとは言わせんぞ。契約不履行ともなれば、貴様の商い証明書をこの場で破り捨てることも出来るのじゃぞ?!」
言葉に嘘はない。事実そうした法整備が存在し…なにより、ルシュナの怒りは心頭に達している。話が平行線をたどるだけならば、バラバラにされた高級羊皮紙が地面に舞い落ちる時もそう遠くないだろう。
「そ、そんな物騒な。私たちだって商売なんですよ…あなたの付けた値の二倍で買うっておっしゃってるんですよ、相手の方は。ほら、ちゃんと、半分はなんとか残しておきましたから…ね?」
「…貴様には、いっぺん、商人の地獄というものを見せておかねばならんようじゃの…?!」
わななく拳を見せつけるようにして、自分の顔の横に持ってくる。
「お、落ち着いてください!暴力はいけません、暴力は…!」
「案ずるな。これは教育じゃ。貴様が二度と同じ過ちを犯さぬようにな…!」
表情は迫真。商いに対して真摯であればあるほど、この怒りを抑える術を知らないのだ。
これ以上この商人があやふやな対応に終始すれば、ルシュナはその拳を容赦なく振るだろう。
だが。


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