「…拳を納めろ。見苦しいことこの上ない」
前触れもなく、ルシュナの後頭部を痛打した冷たい声。
振り向くまでもない…だが、振り向かずには居られない。
怯えきった様子のその商人を払いのけ、ルシュナはきびすを返した。
その先には、一人の男が、数人の取り巻きを従え…鋭い視線を遠慮無しに投げかけてきていた。
「…サーカーン!やはり…貴様が裏で糸を引いていたのか!」
「失敬なことを言う。商品確保の時点から、競争は始まっている。気を抜いたそちらに非がある」
「他がものを競争の名のもとに略奪することこそ、礼節を欠くとは思わんのか?!勘違いも甚だしいわ!」
周囲の目もはばからぬ、舌戦。
また始まった…。周囲の関係ない商人たちも、肩をすくませて軽く嘆息した。
ルシュナと、このサーカーンという商人は、顔をつきあわせるのも、こうして市場で牙を噛み合わせるのも、これが初めてではない。
互いに砂漠でも屈指の商人であり、鋭い視点と敏感な洞察力を有している。その両者が、同じような時期、同じような商品に目を付け、その結果競合するのは、少なくとも自明の理と言えた。
加えて、今は商売祭のまっただ中。散る火花もいつもより大きく、激しく、そして熱い。
「まずは貴様に怒りの鉄拳を見舞いせねばならんようじゃ…!腐った性根は、太陽に照らされても乾くものではないようじゃな!」
「心外な。そちらこそ、どこかテントの中に入って頭を冷やすがよかろう。暑苦しいことこの上ない…熱病の薬ならば、安く売って進ぜるが?」
「き…っ、貴様という奴は…?!」
先ほどより早く小刻みに拳を振るわせ、怒りに歪んだ唇の奥からこぼれた犬歯は、ぎりぎりと耳障りな音を立てている。
……そんな姿を見るたびに、サーカーンの中で、ひとつの確信が、より強く固まっていくのだ。

これは…姫ではない。姫であるはずがない、あっていいはずがない。

姫が城を抜け出し、商人に身をやつしているという疑惑。
王権の失脚を狙う勢力の一端として、サーカーンは、幾人かの、疑わしい商人を独自に調査して来た。その中に、この銀髪の少女も含まれていたわけだが。
本物である否かは知れないが、城に姫が常時存在するこの現状で…。
この、品性に欠けた野犬のような商人を、今さら疑ってかかるのは、時間と労力の無駄だ。
前々から感じてはいたが、今日でそれが疑いようのないものに固定された。
ひとつ息をつくと、なおも冷め切った視線でルシュナを一瞥し、
「もうよい。黙れ。私の鼓膜を破る気か?…とにかく、この苗木は私がそちらの二倍の値で買い取った。これが結論だ」
「貴様の鼓膜など何枚でも破ってやるわ!私が言っているのは貴様の理不尽なやり口が…!」
やや鋭角な軌道を描いて、議論は一番最初に戻った。
ともすれば永久に続くかと思われた叫び合いだったが、助け船は意外な方向から訪れた。
「…サーカーン殿。なにをなさっておいでで?」
「ぬ…お、お主は…」
「あら。また、お会いしましたね。ルシュナさん」
市場の奥の方から、足音小さく歩んできた女性。サーカーンは、ひとつ小さく礼をすると、
「これは、ベベルナ殿。この不逞の輩とお知り合いなので…?」
「言葉を慎みなさい」
優しげな口調から一転――短く叱責するように、ベベルナは声を突き刺した。
「……少なくとも…紳士が使う言葉ではなくてよ?サーカーン殿」
だがその一瞬あとには、もとの柔和な表情に。
サーカーンだけでなく、ルシュナさえ戸惑わせた感情の起伏。
それは、結果として、両者の戦意すら吹き消していたのだ。
そして、さらに追い打つように、
「そこのお方」
呼びかけられたのは、いまだ地面に座り込んだままの、あの植物商人だった。
「は、はいっ?!」
「この、苗木。私が全て買います。今の値のさらに三倍でいかがかしら?」
「そ、それは…もう!ぜひ!お売りいたします…!」
この男も商人だった。すぐに飛び起き、ベベルナの手など握って感謝の辞をまくしたてる。
「き、貴様…また寝返りおったな…?いかなサーカーンに対してとはいえ、義理というものはないのか!」
再び拳を握り直すルシュナに驚き、ベベルナの後ろに隠れる商人。
しかしそこも、安住の地ではなかった。
「なにをなさって?あなたにはまだ仕事があります…この苗木、全てをルシュナさんの商店まで届けていただきたいの。今すぐ、出来るだけ早く。よろしくて?」
「え…?!」
「あと、やっぱり三倍は言い過ぎたわ。通常の半値でどうかしら?この状況から言って、その程度まで値下げする義務があると思うのだけど…」
「そ、そんな!それじゃあ利益も何も…!」
「あら、そう。ならいいわ。その代わり、またこのお二人と商談を始めて下さいね…その時、素人の私が何か口出しを出来るはずもありませんが」
瞬時に、商人の顔が青ざめた。
怒りの火種いまだ熱いルシュナ。その矛先は商売敵だけでなく、ほぼ間違いなく自分にも…。
せっかく入った仲裁をみすみす逃す手はない。土壇場で、少なくとも身の安全を確保する算段程度は、頭の中で成立したらしい。
「…分かりました…半値でおねがいします…」
がくりとうなだれる商人。
「ふふ…ものを値切るというのも、案外面白いものね。サーカーン殿も、よろしくて?」
「はは。貴女のご判断であれば、異を唱える理由も…」
「ありがとうございます。…それでは、参りましょうか」
一歩踏み出すベベルナ。
その先に、砂を巻いて回り込んだ人影ひとつ。
「…ルシュナさん?どうか、なさいまして?」
問いに、ルシュナは、無言で…懐から、ややしわの寄った羊皮紙を取り出し、ベベルナに突きつけた。
「代金じゃ。料金証明書…受け取りは王室銀行で頼む。あの苗木、買い取りたい」
「何を申されますの?あの苗木は、お譲りすると…」
再び突き出される、羊皮紙。
「譲り受けたものなど、商品ではない。もしこれを受け取らぬと言うなら…私も、あの苗木はいらぬ。サーカーンにでも何でも、捨て値でくれてやるわ」

「…分かりました。あなたの真摯な態度、深く感銘しましたわ。勝手な行い、どうかお許し下さいませね」
言い、ベベルナは、ルシュナの手から羊皮紙を指先でつまみ上げ、懐にしまった。
「感謝する。昔から意固地な質での」
「とんでもない。それでは…」
歩み去る、二人の影を数秒だけ見送ると、ルシュナは三度拳を握って、
「こら!何をぼうっとしておるか!搬送の準備じゃ!ここまで手こずらせたのだ…送料は当然、無料でよいな…?!」
「はっ…はぃぃぃ…」
そんな騒がしいやりとりを背中に聞きつつ、サーカーンは、
「ベベルナ殿。なぜ…あのようなことを」
問われ、ベベルナは、小さく笑んだ。本当に小さく…。
「…かわいそうだから…と言えば、聞こえはいいかしら?」
「…は?それは、どういう…」
「これから…全てを失うんですもの」
「……」
サーカーンは、二の句を継げなかった。
ただ、その、あまりに平易な言葉が、恐ろしく無惨な意味を、平然とまとっている事実に。
砂漠で流れるはずのない、冷たい汗に。
言葉を奪われたのだ。
「…子細は、これからお話しします。ジグルド殿のお屋敷までご案内いただけますか?」
優しげな、目を閉じたままの微笑み。
それが…こんなにも空恐ろしく見えたのは、気のせいだと、彼は自分に言い聞かせた。


次頁