窓の枠を乗り越え、のそりとした動作で部屋に入ってきた人影を捕捉し、レナスは音もなく顔を上げた。
「おかえりなさい、師匠」
「ああ…ただいま、帰った」
声は、乾ききっていた。
ふらふらと歩を進め、疲れた様子でベッドに腰を落とし、ルシュナは、ぽつりと、
「…のう、レナス…」
「はい」
「私は、大事なものを持っていた」
語る口調は、わずかに震え始めていた。
「かけがえの無いほど、大事なものじゃ。言葉に出来ぬ…それほど、大事なもの」
「…はい」
明らかに尋常でない様子だったが、レナスは、あえて問わず、ただ答えた。
「けどな…今。つい先ほどじゃ。それを…私は、この上なく無様に、裏切ってしまった…」
「……」
言葉だけでなく、肩も震えていた。両の拳を強く握りあわせながら。
「説明するにも、一昼夜では足らぬくらいじゃ。すべての歓喜、すべての苦難、すべての悲嘆。
なにもかも、ともに過ごしてきた。こう言っては語弊があるかも知れぬが…我が血族とのそれよりも、さらに強いもの…絆、と呼べばいいのか。そう言う物を感じるほど、大事なもの…」
言葉の余韻が消え去って、微かに揺れた木々の葉掠れの音も止んで。
沈黙に握りつぶされそうな声で、ルシュナは、
「これは、大罪かのう…。お主の信じる神の流儀に照らし合わせれば、許されぬほどの咎かのう…?」
「…我らが主は、いかなる罪であろうと受け入れ、許されます。その罪、犯せし者の懺悔あれば」
「懺悔?泣きながら祈れと…?気が、進まぬな…第一、それは私には許されぬ」
「懺悔の時、人は誰しも…涙で神に贖罪します。それは、許されるか否かというものでは、ありません」
「しかし…今さら泣き叫んだとて、なにも変わらぬ。心は救われるかも知れぬが…。私だけに一方的な救いが訪れるのでは…自分が許せん」
自身の膝を両手で叩き、その反動で立ち上がって。
「…だから私は、泣かぬ」
封じ込めた、笑みだった。
胸の内では、荒れ狂うほどの悲嘆と自責が、自らの心をためらい無く傷つけているだろう。
だが、その痛み。この笑みで、受け止める。
誰に許されようと言うのではない。ただ、自分が許せない。
一滴でも、涙流せば…そこに救いを求める、癒しを欲する自分に負けそうで。
ルシュナは、笑んでいた。
その凄絶な笑顔を、変わりもせぬ無表情が見つめた。
「……」
沈黙が流れた。
何を言うでも、思うでもないような…いつもと変わりのない鉄面皮の視線を受け止めることが、何故か今のルシュナには若干の苦痛をもたらした。
「…なぜ」
声は、震えていた。
「なぜ…何も言わぬ。なぜ……許そうとする!私は、取り返しの付かない罪を犯したのだぞ!」
唐突な激昂にも、無表情は崩れない。むしろそれを待っていたかのように小さく息をつくと…足音小さく、滑るように、月明かり差し込む窓際に歩み寄り、両の膝を床に付く。
「なにを…する?」
ルシュナの問いに答えを返すことなく。
聖印を切った、その向こうの陶磁のごとき白い頬に…前触れ無く流れ落ちた、輝く一筋。
それは、涙に違いなかった。


主よ
大地を愛でるその偉大なる御手にて、この者の涙を拭いたまえ
主よ
蒼天をそよぐその無辺なる御心にて、この者の苦しみを癒したまえ


それが何らかの聖言であろうことは、想像に難くなかった。
漸進が総毛立つような感情に見舞われ、ルシュナは叫んだ。
「止めよ!私は要らぬ!癒しも、許しも…必要ない!」


其は永遠
其は永劫


「止めよ……止めてくれ!何故お主が泣く必要がある?!咎は私にある!お主が祈ったところで何になると言うのだ!私の罪は、悲しみは、私にしか分からぬのだ!」
声は空しく響く。
涙も、
祈りも、
止まることはない。

悠久を流れる時の河に
願わくばその悲しき一滴の
一筋の波紋をも生まぬよう…


小さく開かれた唇よりこぼれた、聖言。
聖典、第三十八章第九十六項。『代涙の懺悔』。
再び切った聖印で儀式を結び、レナスは立ち上がった。
「主は、師匠をお許しになります」
その頬には、いまだ乾かぬ煌めく一筋が残っている。
この少女は。自分のためだけに。祈るためだけに。涙を。
「なぜじゃ…」
立ち上がったレナスに、ゆるゆると近づいていく。
「なぜ…私を責めぬ……」
やがて、その細い肩に、すがりつくように両手を置いて、
「お主は、誰が苦しんでおっても、等しく涙を流すのか…?そんなことで、お主の信ずる主とやらは全てを許し癒すというのか…?だとしたら、それは私には届かぬ祝福よ。この苦しみは…誰にも取り除くことなど出来ぬ」
うつむくルシュナ。しかし、涙はない。
「……」
そのとき。
無表情が、唐突に……
再び、涙を浮かべた。


主よ
大地を愛でるその偉大なる御手にて、この者の涙を拭いたまえ


耳元のすぐ近くで聞かされ、ルシュナは驚いたように顔を上げた。
「な…!何度やっても、おなじ事じゃぞ…?お主に私は癒せぬ。主とやらの許しなど欲しくはないのじゃ…」
反応はない。
全ての文言を再び唱え終え聖印を切ると、レナスはルシュナの瞳をのぞき込んだ。
「……」
涙はない。
「……」
そして、
…再び。

主よ
大地を愛でるその偉大なる御手にて、この者の涙を拭いたまえ

またしても、まるで井戸から沸く水のように、レナスの瞳から涙が溢れた。
その光景を……ルシュナは、
………額に青筋を浮かべながら、凝視していた。
「もう……」
レナスの肩に置かれていた手が、強く握りしめられる。
「…もうよいわあぁぁぁぁぁぁあ!!」
絶叫一喝。
聖言も涙も止まぬレナスの顔を両手でわしづかみにし、瓶を持ち上げる屈強な男達の表情で、そのままベッドの上に投げ飛ばした。
爪先の力加減、腰の回転、投げ終わりの体勢……どれをとっても非の打ち所がなかった。
尻からベッドに着地し、二、三度大きく跳ねたあと、うつぶせに倒れ込んだレナスは、きょとんとしたような、しかし変わらぬ無表情であった。
「あああッ……もう、馬鹿馬鹿しい!!私としたことが…何を下らぬ事でうだうだと悩んでおったのだ。簡単で…昔から変わらぬ事じゃった。私を許すだとか、癒すなどと…そんな不遜を許されるのは、この世界でたった一人私だけじゃ!その、お主がだらだらと涙を捧げた主とやらにも、よく言い聞かせておくのじゃな!今度このような真似をすれば、一族郎党すべての身ぐるみを剥いで売り物にしてやると!」
頭をくしゃくしゃとかきむしり、なおも奇声を上げながら、ルシュナは部屋の中を歩き回った。
その様子を、レナスは、シーツに埋もれながらぼんやりと見つめていた。
……涙の価値というものは、各人それぞれ、一様にして定義はあり得ないが。
泣く、泣かぬで自身を壊しかねないほどに揺るがしていた自分が、ルシュナには途方もなく小さく見えたのだ。
泣くのも、泣かせるのも馬鹿馬鹿しい。
叫び返せばいい。笑い飛ばせばいい。
そう心に決め、ルシュナは動作も荒く衣服を脱ぎ始めた。
「さあ、私はもう寝るぞ!明日だけは絶対に寝坊できぬでな…と、レナス、お主、それは私の寝間着ではないか!お主のはもっと他にあろうに…なに、それが一番可愛かった?そんなことは私も百も承知じゃ!ええい、返さぬと言うなら強引に…!」
勢いよく飛びかかるルシュナ、それをひらりとかわし壁際に逃げ込むレナス。
……月の光が、その涙であると詠んだ詩人が居たと言うが。

今だけは、それが無粋だと、ルシュナは思った。


明くる朝。
衣擦れの音にレナスがふと目を開けると、すでに身支度を整えた様子のルシュナが、やや緊張したような面持ちで、椅子にかけていた。
「師匠。おはようございます」
「…ああ、早いな。すまん、起こしてしまったか?」
「いいえ」
「そうか…」
椅子を引き、立ち上がる。組んでいた腕を解いて腰のあたりを数回叩くと、
「夕べのこと…感謝するぞ。ただの一夜にして神仏に感化されたつもりは無いがな…たしかに、引っかかりは失せたわ。これで、勝負できる」
「はい。御武運を、お祈りしています」
「まかせておけ。これが最後の張れ舞台じゃ。無様に終わらせるつもりなどない」
言い放ったルシュナの目は、もはや、ここからでもうっすらと伺える大きなテント…大競り市、会場のみに注がれていた。


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