ルシュナが会場に入ったときには、既に幾つかの品目の競りは終わっていた。
大競り市の最終の競り…すなわち、〈ダイナソア〉の競りまでには、幾つかの前座が設けられている。とはいえどれも王室秘蔵の品であることには変わりなく、目の色を変えた商人たちの声や熱気が、まだ入場したばかりだというのに鼓膜と肌に微かに痛い。
だが、もう、臆することはない。手足は止まることなく、ルシュナを、競りに参加する商人たちの座す席にまで運んだ。ちょうど一つの品……最後の競りの一つ前の品の競りが終わった直後らしく、人の流れと逆行しながら、空いていた一番前の席に腰を落とす。
小さく……大きく。肩を上下させ、会場の天井を見上げる。
松明の光も届かない最も高い所では、固く、くぐもったような闇が、重力に逆らって沈殿している。
そこに…ルシュナは、今までのことを、映し見ていた。
ここに来るまで、言葉に出来ないほど、様々なことがあった。感傷に浸って自分を情に流すような真似は好きではないが…恐らく、これが最初で最後の、思い出に浸る時間だ。機会損失は商人として避けねばならない。そのまま目を閉じ、思い返せば、とりとめもない記憶の奔流が精神を駆けめぐる。夢のみを抱き、商人のいろはも知らなかった頃もあった…次第に団員を集め、街の一角に自分の店を設けたときの喜びといったら、今追い返しても、口元がゆるむ。いや、それよりも
団員たちの喜びようと言ったら無かった…振る舞い酒と飲ませてみたら、結局一夜で酒樽十個を
空にして、翌日、全員で頭を抱えていた姿を見て、笑いのあまりこちらも腹を抱えたものだ……
そこで…微かに、胸が痛む。
自分が、いかに…支えられていたのか。
今さら思い出す。
………やはり、感傷に浸るのは、好きではない。
弱くなって、しまいそうだから。
目を開け、視線を元に戻す。そこにはすでに、〈ダイナソア〉が搬入されていた。
間近で見ると、その威容は先日の披露目の時とは比較のしようもない。
すでに席も埋まっており、そこに座した商人たちの視線も、行き着く先はルシュナと全く同じだった。
会場の一般客席も、人で埋まっている。誰もが、この世紀の逸品の行方を目に焼き付けようとしていた。
やがて、一人のローブ姿の男が、〈ダイナソア〉の飾られた壇上に登り、声を張り上げた。
「さあ……競りを開始したいと思います!初値は、規定値から発します!」
司会の宣言に、独特の緊張感が走る。早い者勝ちの理論に縛られぬ、競りにおいて、開始当初からこの圧迫感は尋常ではなかった。苦しい勝負になる。ルシュナも、誰をも、その覚悟に誘うだけの威容を、〈ダイナソア〉は悠然と松明の明かりに煌めかせていた。
「希代の名槍、競り落とすのは果たして誰か!!それでは……値掛け、始め!!」
一瞬。空気が凍り……刹那、それを溶かし尽くす熱気が会場に爆散した。
「二倍!」
「三倍だ!」
「…五倍!!」
「八倍、八倍だ!」
怒濤の勢いで重なり行く値掛けの声。遠慮も謙譲もない大声に鼓膜を連打されながらルシュナは、砂嵐に撒かれたときの恐怖を思い返していた。手も足も出せず、ただ吹き飛ばされぬように
頭を下げるしかないあの重苦しい瞬間。だが、ここでも姿勢を低くすれば、目標ははるか彼方へと運び去られてしまう。きっと顔を上げ、叫ぶ。
「十五倍じゃ!」
力強い声。雑多な叫びの波をすりぬけ、会場全体に響いたそれは、他の商人たちを一瞬沈黙させた。
「おおっと、十五倍!十五倍の値掛けだ!他には、他にはいらっしゃいませんか!」
「十六倍……」
虚をつくように響いた声だった。今までの轟々とした競りの中では聞こえるはずもないような小さな値掛けだったが、この一瞬の静けさの中、針を通すように抜けた声。
サーカーン……やはり貴様も居たか。ルシュナは、商人の席の一番奥に座す、仇敵の姿を見逃さなかった。あちらはルシュナに気付いているのか否かすら明らかにせぬ様子で、腕を組んだまま悠然と次の値掛けを待っていた。
奴の策に乗るようで心持ち悪いが…それが唯一の道というなら。
「十八倍!!」
「……二十倍」
「二十二倍じゃ!」
「二十五倍」
「三十倍!」
途中、何人かの商人たちが割り込みの値掛けを入れてきたが、すぐさまそれをしのぐ二人の値掛けに押され、次第に横槍も減っていき……やがて、競りは一対一の様相を呈し始めていた。
苦しい。
ルシュナは、悟られぬように少し下を向き、口元を歪めた。
体験したことのない急速度で値が上がっている。駆け引きというものもそれなりに身につけてきたつもりでいたが、あの男の計算はそれを上回るというのか…?
「五十二倍…」
冷たい声に脳天を打たれ、ルシュナは、はっと顔を上げた。下は向かぬと決めたはずが…情けない。ふっと息を付くと、
「五十五倍!」
負けるわけには、いかない。何度、心の中で繰り返したと思っている。
負けるかも、知れない。だが、それでもやはり……負けるわけにはいかないのだ。
少なくとも、決着の宣言を聞くまでは、己の中に一辺の疑念もあってはならない。
「六十倍」
やはり、そう来るか。どこまでも、憎たらしい仇敵である。
だが打つ手は一つだけだ。値掛けの声を上げるべく、息を深く吸う……

次頁