「そこまでだ!」
その息が、詰まった。
たけなわに達しようかという競りの途中…静止の声などあるはずがない。
声のした方向。王座の壇上。そこに、思わず沈黙した会場全員の視線が集まった。
そこには……誰の予想も許さない、一人の男が、悠然とたたずんでいた。
「このような茶番で、人心を惑わすが……為政者のなすべき事か?笑わせてくれる」
ただその一言だけが、会場の空気を振るわせた。
身につけた、高級な布で設えられたローブや装飾の施された穿刃を見れば、一定の身分にある、貴族の一人と言うことは分かる。しかし、いかな高貴な身分の人間であれ競りを中断させる権限など無いはず。不条理と疑念の混じった多くの視線に射られながらも、その男は、むしろそれを歓迎するような満足げな笑みを浮かべ…
「聞け、民よ!ここにいる者は、姫などではない!信じがたいことだが、姫は既にこの世から去られた……この、国王と呼ばれる黒き存在によってな!」
大仰な動作で指さされた王は、狼狽こそ抑えたものの、尋常ならざる状況に身を固くした。
「な……何を言う、ジグルド卿!乱心したか?!」
「黙せよ!新たな統治者は、この私だ。貴様が、そして民が蔓延させた、欲にまみれた秩序を一掃し、この砂漠に栄光ある国家を再建する!その頂点に立つ存在こそ、高貴なる血を身に宿す私なのだ!」
会場をどよめきが満たした。
半分は市場に関係のない、生白い貴族の言い出した妄言への怒号、そしてもう半分は姫が偽物であるという言葉への疑問の叫び。
「な……?!」
ルシュナは、疑問の叫びの中にいた。ただ、その種類は他とは少し異なっていたが。
ジグルド卿…顔は知っていた。だが、商いとは全く無縁の存在であったはずで…何故彼がこの場に姿を現したのか見当も付かず……なにより、王の施政を侮辱し、姫はもう亡いなどという言葉。
全く予想しない方向から、全く予期しない時期に入ってきた横槍に、ルシュナは動揺を隠しきれない。無論…その向こうで、暗く薄い笑みを浮かべているサーカーンになど注意が向くはずもない。
もはや値掛けの声などなく、ただ無秩序な混乱のみが、代わって会場内を吹き荒れている。
そんな中、会場の高い位置にある閲覧席の奥の、柱の影に立つベベルナは、苦笑すら漏らす気分にはなれなかった。
自分は高貴。よって従え。評価のしようがない論法だ。
あの程度の稚拙な演説で心を動かす商人たちでもあるまい…。
しかし、これでいい。予定通り競りは中断され、民は混乱を始めた。
「もっと…もっとよ。潔く壊れてしまいなさい…」
ベベルナの言葉は紛れもない真意であった。
砂漠の市場を牛耳るこの国の存在は、〈王国連合〉にとっては障害でしかなかった。
ジグルドが不明瞭な論を唱え続ける限り、国は乱れ、民は廃れる。
やがて、間をおかず国家は自壊するだろう。
そこへ、あらたな自治領を〈連合〉が『援助』という形で建立し、砂漠一帯を実質支配する。
それに、〈教会〉周辺に、その影響を一切受けない領地を確保することは、〈ヴァルキリー〉を〈教会〉領内に封鎖し、これ以上の〈聖剣〉強奪への防衛策にもなる。
この地で〈聖剣〉に遭遇したのは、全くの僥倖であったのだ。
領地を確保し、〈聖剣〉を奪還し…〈ヴァルキリー〉を葬り去る。
一兎を追うもの、時として三兎をも得るということか…。
この時ばかりは聖印を切りたいような気分で、ベベルナは口元に余裕の笑みを浮かべ、柱の影から状況を静観していた。
「く……!」
壇上で、次々となだれ込んでくる兵士たちを目の当たりにしながらも、歯を噛むことしかできないルシュナ。その姿を、ベベルナは冷徹な目で睥睨していた。
姫が亡くなったと偽ったのも、そこからの思わぬ展開を危惧してのことであった。
もはや失われた存在との認識を植え付けておけば、ジグルドもその愚策の中から姫というカードを抜き取らざるを得ない。それに、他ならぬ姫…ルシュナも、まさかこの場で自分が姫であるなどと言う暴露をするわけにはいかない。二度に渡って彼女に接触し、その自身の秘密を堅持する様子を観察したのは他ならぬベベルナなのだ。
姫という精神的支柱を…それが例え細くとも、残せば民はそれを軸に再起を図りかねない。
もともと軍備のほとんど無いこの国家を制圧するなど、造作ないことだが……毒のある草は、一本と残さず、根こそぎ刈り取る。
ベベルナとは、そう言う策士であった。
さて、仕上げだ。口元に浮かんでいた微かな笑みを消し去ると、つとめて冷徹な声で、
「全部隊に通達。予定配置に付け。全武装解放、全権限委譲。配置が済み次第、行動開始…」
「おいおい、ふざけたこと言ってんじゃねえぞ!」
ベベルナの指令をかき消すように、一人の商人が突如叫びを上げた。
「そうだ!高貴だか統治だか知らねえがな、王様は俺ら商人を裏切るような真似をするお人じゃねえ!」
「第一てめえは何者なんだ?!商売のいろはも知らねえ貴族の分際で、姫様が偽物だとかほざきやがって、何か証拠でもあるのかよ?!」
決壊する堰から吹き出す水に似た勢いで、商人たちの怒号が次々とジグルドを打った。
当然の意見だ。ベベルナは息を漏らした。もう少し、理論だった演説をさせるべきだったか……
だが、それも些事だ。指令はもうじき実行される。
「ワケわかんねえことほざくんじゃねえぞ!大事な競り市の途中で……ぐぉっ!」
「うわっ、てめえ、何しやがる!ぐ、がはっ…」
前触れ無く、色めき立つ客席の中から、明らかに怒号とは違った、悲鳴のような声が漏れ始めた。
武装した、何人かの男たちが、商人たちを無差別に攻撃し始めたのだ。先ほどの兵士たちが、客席や商人たちの席にまで踏み込み、少しでも抵抗の動きあれば容赦なく打ち据えた。
声を上げていた商人たちは、なすすべなく駆逐されていった。わずかな間もおかず、会場には生臭い血の臭いが立ちこめる。
……やがて。
誰も、何も、言わなくなった。
「ようやく静かになったな…。なかなか理解が早い。命より大切なものはない…諸君らがよく使う格言だがね…?」
口元をゆがめ、ジグルドは玉座の高さから客席を、民を睥睨した。
「止せ、何のつもりだ!私の執政に意見あるならば、私にその切っ先を向けよ!民を害することは許さぬぞ!」
「よく言えるものだ……その大事な民を偽り、あまつさえ〈教会〉との醜い戦争への尖兵として利用しようと画策した独裁者が!」
「〈教会〉との戦争だと…?!尋常とは思えぬ、ジグルド卿、気は確かか!」
議論と状況、ともに逼迫する中、姫は……〈ヴァルキリー〉は、未だ動かない。その視線の向かう先は薄衣のヴェールに覆われ察することは出来ないが、行動パターンを察するに、『〈聖剣〉に関係のない事態』と処理しているのだろう。
そこも予定通りだ。あれは、ただの戦闘人形でしかない。その個体自身を不利な状況に追い込みさえしなければ、自発動作することもない。計算尽くだ。まず王族に危害を加えなかったのも、すべては〈ヴァルキリー〉を状況から引きはがし、剣を振るう理由を失わせるため。
でなければ、あそこまで不細工な演説を、わざわざジグルドに許す理由など無い。標的を民に、国王に…〈ヴァルキリー〉の狙いと関係のない場所に意図して移すことで、場をかき乱し〈聖剣〉の気配をあの人形から押し隠すことこそ本来のねらいだった。
ルシュナ姫が、よりにもよって〈ヴァルキリー〉と接触し、自分の代役を任せていた事実をつかんだのは、商売祭開会式の当日であった。だからこそ、ここまで演劇じみた策を打ったのである。
あれは動かない。
絶対に、動くはずがない。
行動パターンは分析済みだ。〈聖剣〉収集をのみ思考の最優先とし、己に危害が及ばない限りは、その無表情、その無関心、崩れることはない。〈教会〉は忠実で冷徹な使徒を育て上げたつもりでいるだろうが、その意味で忠実なる工作員ならば〈連合〉にもごまんと存在する。
人形はただ座っているだけ。それだけしかできないから。
これで、唯一、動かれては困る存在を押さえつけたことになる。
この上なく冷徹な笑みを口元に張りつけ、ベベルナは、最後の一押しをするべく、黒い箱を取り出し口を開いた。
「ジグルド様…素晴らしいご演説ですわ。民は感服して言葉もない様子。あとは……あなた様の障害を取り除くのみ……」
ジグルドには、例外事態に備えて同じような声の伝わる黒い箱を持たせていた。無論…その中に小型炸薬を忍ばせるのも忘れてはいない。少しでも作戦に支障ある行動を取れば、黒い箱もろとも砂塵に返す。
すべては駒だ。自分に運命を牛耳られた存在だ。ベベルナは、策士の愉悦に浸りきっていた。
「さて…民よ。そこから、眺めているがいい」
ベベルナの一声に背を押され、ジグルドは腰に差していたナイフを抜きはなった。
〈ヴァルキリー〉は、動かない。動くはずもない。
「あなた!」
「動くな…!抵抗してはならぬ。多くの民が、我らと同じように命を握られている」
思わず立ち上がろうとした王妃を制止し、王は、苦渋に満ちた表情で、
「残念だ。卿の理解を得られなかったことは……。よかろう、私の命一つで足りるなら、かまわぬ。持っていくがいい。だが遺される王族や民の安全は保証していただけるな?」
「くく…ようやく己の非を認めたか。だが貴様らの血はこの国にとって有害だ。すべての王族は貴様の後を追うことになる。恨むなら、自身の暗愚をあの世で呪うがいい!」
想定したすべての歯車が噛み合う。その合致が生む火花は一つの優美な芸術となってベベルナの脳裏に鮮やかな姿を映しだした。
美しい。
何もかもが美しい。
刺せ。血で彩れ……この策士の芸術を!
「この国を侵し続けた、悪政の根元の、最期をな!!」
振り下ろされる刃。誰も動かない。
ルシュナは…見上げることしかできない。
時間が長く薄められたような感覚。ゆっくりと、迫り行く刃。
唯一、出来たことは……。
「父上ぇぇぇぇぇぇぇ!!」
ばしゃり…
血。大量の鮮血が、玉座に散った。
ルシュナは、目を閉じていた。
それしか、できなかった。
なにも考えられない…考えたくない。
ただ、いやに生暖かく響いた、その水音を…一刻も早く、鼓膜から引きはがそうと念じるだけだった。


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