「…な?」
間抜けな声が。
明らかに、父の悲鳴ではない、その声が、代わりに聞こえるまでは。
その光景は…全ての人間の、角膜を膨張させた。

姫が。

玉座に座し微動だにしなかった、姫が。
赤い大剣を。
容赦なく、突き刺していた。
続いて、ぼとり、と、鈍い音が響いた。腕だ。人間の腕が、床に落ちた。
遅れて、その銀の刃を一滴の血にも染めることなく、むなしく照らしたナイフが、弧を描いて舞台裏の闇に消えた。
それが…それらが。
自分のモノだと気付くまでに。
…ジグルドは、少しの時間を要した。
「あ…」
静寂…沈黙。
その後に響くのは、苦痛に苛まれた、絶叫と、筋が決まっていた。
しかし。息を吸い込んだ刹那、姫の瞬速の拳が、胸部を貫通する。
破砕し尽くされた肋骨が暴れ回り、あらゆる臓器を引き裂く。拳は、深く、深く、突き刺さった。
もはや、吐き出す息は残っていない。肺を握りつぶされ、ジグルドは一度、大きく喀血し、倒れ…その寸前、大剣…〈ラグナロク〉の一閃で薙ぎ飛ばされ、遅れて分断した二つの半身が、壇から落下し、はるか下方の床にたたきつけられ…それきり、動くはずも、無い。
飛び散った血の染みが、姫…レナスのドレススカートの裾を赤く汚していた。
だが、そこに留意するような素振りすら見せず、言い放った。
「師匠。競りを、続けてください」
静かな声音。水を打ったような沈黙の、その水面を、軽やかに跳ねて、ルシュナの耳に届く。
「約束しました。その槍を、競り落とすと」
震えた。心の奥底…本来、暗く深い部分に眠る、何かが。
「ここは私が守ります」
言い切った。
あの娘が。守ると。
砂漠の中から生き延びた…最後の決心を与えてくれた、あの娘が、守ると言い切った。
服従に似た説得力。強引なまでの絶大な信頼感が、ルシュナの脳内を満たす。
……それと同時に。
「みんな!今だぁっ!!
客席でも、騒動が勃発した。
波打つように蠢き、ひしめき。
商人たちが、兵士を取り囲み、取り押さえだしたのだ。
戦闘能力や武装に関係なく、ただ大人数の質量で、強引に駆逐していく。
「だ、団長〜!!」
その、暴動の発生地点と思しきあたりから、声が響いた。
「!!」
忘れるものか…この声!
身体ごと、その声の方向に振り返る。そこに…そこには。
「お…お前たち…!!」
もみくちゃになって争う客席の中に、こちらに向かって手を振る、何人かの顔。
いや、それだけではない…ほぼ全員…。
ルシュナ一座。団長を失い、消滅したはずの、その面々が。
「なぜ…ここにいる…?!私は、お前たちを、裏切ったのだぞ!」
「え?!な、何て言ってるんですか?よく聞こえません!」
「だから…!」
なおも言いかけた刹那、ルシュナの周囲を、兵士が取り囲んだ。
多勢に無勢、歯を噛み、威嚇するように視線を突き刺す。
「なんじゃ、貴様ら!下がれ!」
腕を振り、間合いを置こうと数歩下がる。しかしそれより早く、その中の一人が、ルシュナを拘束しようと走り寄ってきた。
「…!」
その手を振り払おうと、身をよじるが、後方から伸びた腕にあえなく捕まってしまう。
こんなところで、終わりなのか…?!わずかに見えた絶望の影を振り払おうと、なおも抵抗する。
が。それは、最初に接近してきた兵士の、潰れたような悲鳴によって、止まった。
「団長、私です。落ち着いてください」
すぐ後ろからも、聞き覚えのある声。振り向けば、団員の一人が、優しい笑みを浮かべて。
そこにいた。
「お前たちまで…!」
一人がルシュナを守るように抱き、他の団員たちが次々に、兵士たちをなぎ倒していく。
「団長をお守りするのも、団員としての役目ですから。さあ、前を向いて!決着はまだ、付いてないんですから!」
「団長、俺たちは商人なんです!商売に命を懸けてる!なのに、その場所を勝手に取り上げるなんて、ひどすぎですよ!」
「団長は、責任とって、最後の最後まで団長でいなくちゃいけない!だから、負けないでください!」
「団長!」
「だ、団長ぉぉぉ!痛ッ、ちょっと、押さないでよぉ!」
いつもと、まるで変わらぬ様子で。団員たちは騒いでいる。
まったく、どこまで脳天気な奴らなのだ…ルシュナの表情に、場違いなほどの明るい笑顔が咲く。
「揃いも揃って…お前たちは…まったく、どこまでも…」
そこまで。
そこまで、私は、お前たちに思われていたのか。
ならば…応えようではないか。
約束、忘れたわけではない…。
萎え、折れかけた信念が、徐々に、その鎌首をもたげて。
ルシュナは、サーカーンを…〈ダイナソア〉を、振り返った。
遅れた挙動で、衣服の裾が地面すれすれを這い、砂埃が微かに舞う。
「…待たせたな」
その声に、商人席で事態を静観していたサーカーンは硬直する。
「まさかこれは…貴様の計略か?サーカーン」
両の瞳は、つり上がっている。
今まで誰一人に対しても向けたことのない、怒りに満ちた視線で、ルシュナは仇敵を睨み付けた。
「わ…わ、私は…知らない!関係のないことだ!」
芝居がかった所作と声で、サーカーンは慌てて否定した。
この場で、事件の真相を話せば、今後の立場が危ない…土壇場においても、その程度の計算は出来る男だった。
しかし…この場においては、それが不運の引き金となったようだ。
「ほう…。それは、すまなんだな。非礼は詫びよう。…そして、競りも再開じゃ」
「な…!」
「何を驚く?ここをどこだと、今をいつだと思っておる?いったん登った勝負の壇上…商人ならば、決着も付けずに降りることは万死に値するぞ!」
高らかに叫び放つ。
ルシュナは、動揺するサーカーンの返事など待つこともなく、息を吸い…一声。
「百三倍じゃ!」
大音声が、会場を小さく振るわせた。
競りは、再開されたのだ。
「そう、そうだ!団長!後のことなんか考えちゃダメだ!攻めて攻めて攻めまくれ〜!!絶対に負けないで…って、大事な所なんだから、邪魔するな、この野郎!」
客席から、文字通り投げ出されて背中から地面に激突する兵士の悲鳴に鼓膜を振るわされ、苦々しい舌打ちと声が、ベベルナの口から漏れ出た。
「…予定外だわ」
ジグルドが絶命したことではない。暴動が起こったことでもない。
〈ヴァルキリー〉は、動かないはずだった。
感情無く人を切り裂く、冷血な一介の使徒が、王を、〈聖剣〉とは何の関連もない存在を、助けただと……?ベベルナの生み出した理詰めの芸術に、思わぬ方向から泥が塗られた瞬間だった。
〈ヴァルキリー〉は、ジグルドが王族を始末し、その後〈連合〉工作員が〈聖剣〉に接触して初めて
玉座を離れるはずであった。そこで初めて王らを拘束し、加えて本物の姫も捕らえる。
人質を取っても無駄と言うことはすでに知れているが、時間稼ぎと、意識的拘束の一助となるはず。彼らを人の壁として使ってもいい。何より大事なのは、毒から自身を皮の一枚でも遠ざけることにあったのだ。その隙に、〈聖剣〉を接収し、速やかに本国に持ち帰る。
そして、最終目的として〈ヴァルキリー〉をも、殲滅する。
〈ダイナソア〉と部隊を接触させた時、あえて奪わなかったのは、そのためだというのに。
競りは続行され、〈ヴァルキリー〉は、剣を取った。
戦う空間を…理由を、与えてしまった。
理論的な説明が思いつかない。
何故だ。
何故人形が、ひとりでに動く。
閉じたままのはずの瞼が、怒りに歪みうっすらと開く。
聖堂騎士団を壊滅させ、〈連合〉の精鋭を屠り、なおも幾多の血を浴び続ける、兵器が。
その矛先を、極めて不鮮明で、不安定な自由意思に任せきっているというのか……
瓦解してゆく自らの理論を支えることも出来ず、ベベルナは、その薄ら寒い事実に固く奥歯を噛んだ。
こうなった以上、強制接収など不可能。
またも漏れ出たのは、嘆息。
彼女とは、いつまでも、どこまでも、争う運命にあるのか。
ベベルナは、手にしていた黒い小さな箱を、口元に向け、言った。
「無線通信。こちらは指揮官。全部隊員に通達。作戦は続行。客席にはかまわず〈ヴァルキリー〉殲滅を最優先」


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