通達は瞬時に浸透した。
客席に殺到していた兵士たちが、統制のとれた動きで素早く半々に分かれ、王座の壇へと見る間に押し寄せた。ただでさえ囲まれていたため、王も王妃も逃げることはかなわなかった。
剣、槍、棍棒に短剣。獲物は様々…。
「…あなた」
眉根をつり下げ、王に寄り添う王妃。その、重みを、肩で受け止めた王の額にも、汗が流れる。
「お前は…逃げるのだ。この子を連れて、早く!」
「無駄です」
鋭く飛んだ声。顔を向けぬまま、レナスは続ける。
「お二人は、ここを動かないでください」
「しかし…!」
手で制す。少しだけ、視線を向けて。
「私は、お父様とお母様を、お守りします」
腰を落とし、〈ラグナロク〉を、絞るような音がするほどに握りしめて。
真正面から、迎えうった。
「百八倍!」
刹那。姫君は、暗殺者の闇を、瞳に宿した。
小さな跳躍から、勢いに乗せた肘。防御のため兵士の構えた棍棒は、砕けて折れて吹き飛んだ。
「百十倍っ…!!」
微細な隙ではあったが、見逃すレナスではない。独楽のごとく身を翻し、横から殺到した踵が男のこめかみを蹴り潰す。
「百…二十倍!!」
目と鼻から血液を噴出させる男の肩を蹴り、その後ろで刃を振りかざしていた兵士の両手首を斬り飛ばす。さらにその顔面を膝で射抜く。倒れ込む身体を壁として利用し、跳び、王妃に刃を向けようとした兵士を赤い刃が串刺しにした。
「に、に…二百倍!!!」
刃が迫る。受け、流し、翻して切り返す。舞い散る火花の最中を突っ切り、並んでいた数人を横薙ぎで捌くと、しゃがみ、蓄えた力で斬り上げた。舞い跳ぶ、何人かの身体。
その着地点で待つのは、平等な最後。冷徹な結末。赤い、刃。
重力に、はたまた自身の悲惨な運命に逆らうように、手足をばたつかせるが、それらもろとも斬り砕かれ、沈黙。破片は、ばしゃりと言う音を立て、床を転がった。
それを踏み越え、レナスはなおも、構える。
「三百倍!」
絡め取るように走った赤いひらめきは、兵士の肋骨を陥没させ、身体に深く食い込んだ。
「三百五十倍…!!」
そのまま〈ラグナロク〉を、後ろに投げ飛ばすほどの勢いで剣を引き、迫った兵士の顔面を掌握した。力がこもり、指が食い込み…血管が、圧砕される。頭蓋に致命的なひび割れを生じさせ、内圧で自壊した頭部をかなぐるように捨てて、残った身体を床に叩き付けた。
衝撃で、何人かが転倒する。その無防備な頭上に、またも斬撃が降りかかる。
「四百倍じゃ!」
王と剣を交えていた兵士を斬り裂いた瞬間、後ろから組み付かれる。拘束された細身に、剣が接近した。
しかし、レナスは、抵抗しない。力の方向…後ろへと、ほんの少し、体重をかける。
その動きに任せ、強く床を蹴った。掴まれた腕を支点に素早く回転し、刃をやり過ごす。
耳のごく近くで、腕を掴んでいた兵士の悲鳴が聞こえた。自分に届くはずのない一撃を受け、筋肉が一瞬の硬直のあと、弛緩した。レナスへの拘束が甘くなる…刹那、魚の身のこなしで兵士の腕をふりほどき、後方に着地すると、好機と見て集結していた幾人かの身体を、〈ラグナロク〉でたやすく貫通した。
まるで水瓶を貫いたかのような量の血が、大剣の扁平な刃を滑って落ちた。
…魂を、奪う必要はない。
また、その価値もない。
今はただ…壁であればいい。後ろにいるものを、守るだけでいい。
一点に集中する。だからこそ、それは酷薄なまでに強固で、頑丈で。
「ご…ご、五百倍!!」
裂帛の気迫を込め、レナスは大刃を振るった。
切り裂かれ、血と臓物を飛ばす者。剣圧に押され、悲鳴と涙を垂れ流す者。
近づけない。
不可能ではない。近寄ることは。
だが、その先には、不可避の最期が、口を開けて待っている。
今さらながらに、本能に浸透する、冷たい感情。
やがて兵士たちは、影を縫われたかのように、その場に硬直した。
その、恐怖に満ちた、視線の先には。
「…来ないでください」
真っ直ぐに伸びた刀身。
「来れば殺します」
その先端で閃く、赤き光芒。
「必ず殺します」
したたり落ちた、まだ生暖かい雫が、演目場の土の床の上で砕ける、その刹那。
「千倍じゃぁぁぁっ!!」
腹の底から、絞り出た大音声。
驚異の宣告額に、サーカーンだけでなく、全ての商人が、文字通り凍り付いた。
ルシュナは、やや頬を紅潮させ、荒く息を付き…それでも、自分の発した言葉に、驚きなどしない。
自分のために、命まで賭けた者がいる。
報いると決めたのだ。
例え今、商人の常道から外れ、奈落に落ちるのだとしても。
その底からでも、最高額を発してみせる。
保身も保証も念頭にはない。
その、境地に、ルシュナは、この場の誰よりも早く踏み入ったのだ。
結果…敗者は、沈黙した。
怒号に包まれていた会場も、勝負の行方を悟ったのか、水を打ったように静まりかえる。
「……っ、げほ…っ、えー、司会でございます!ルシュナ一座、規定値の千倍を値掛け!!他には!他にはいらっしゃいませんか?!」
混乱の最中に埋もれていたのか、司会が、累々たる倒れ込んだ兵士の山から今になって這い出でてきた。
沈黙はなおも続く。
全員の鼓動が早まる。
……刹那。司会は、懐から小振りな木製の板と、木槌を取り出し、板だけを地面に置いた。
そして、おもむろに木槌を振り上げ…大きく、打った。
「落札!落札です!!今年の商売祭、大競り市を制したのは、ルシュナ一座です!!!」
早まりきった鼓動が……
歓声に変わった。
「やったぁぁ!団長ぉぉぉ!!」
「勝った勝った、勝ったぞおお!」
「さすが団長!カッコいいぃっ!…って、押さないでって言ってるでしょ?!」
会場が、揺れていた。それは争いの振動ではなく……商人たちの拍動というべきもの。
「お見事です。師匠」
なお、敵から目をそらさぬまま、レナスはつぶやいた。そしてそのまま、なおも迫る兵士の身体を両断した。斬り飛ばされて床を打つ音に…ベベルナはもはや、撤退の気勢を感じていた。
唇を噛み、しかし気丈な声で、
「…全部隊に通達。撤退行動を、開始せよ。可及的速やかに当該地域より離脱、事前通達の集合地点へ退避。最優先次項とする……」
言葉は、静かな水面への水滴となった。波が引くように、レナスから、商人たちから、兵士たちが離れていく。中にはそれを追いかけなぎ倒す者もいたが、レナスは一つ息を付き、剣を下ろした。
〈ラグナロク〉の赤い刀身は、こびりついた兵士たちの血液を、貪るように…飲み干すように、吸収していく。
やがて『食事』を終えた赤い刃を〈アルキュゴス〉に還すと、レナスは王と王妃に向き直った。
「お怪我はありませんか?」
問うレナスの顔は、うっすらと返り血に汚れていた。
王妃は、ひとつ首を横に振ると、未だ恐怖でおぼつかない足取りで、レナスに歩み寄る。懐から上品なレースの施された布を取り出し、震える手で、その赤を拭った。
「大丈夫よ…。あなたが、守ってくれたから…」
「なによりです」
その一言を、安心したような表情で聞き取ると、王妃は唐突に膝を折った。倒れ込む寸前、その方をゆっくりと支えたのは、王だった。
王妃の首筋に手を当て、大事ないことを悟ると、王は大きく息を吐き、レナスを見上げた。
「さすがは…我が娘。武芸のたしなみも、並ではないな」
苦笑し、一言。
「ありがとうございます、お父様」
聖印を切り、一礼。
「サーカーン!!」
前触れ無く響いたのは…ルシュナの叫びだった。
敗者の名を呼ぶ厳しい声音は、遠ざかり闇に消えようとする、サーカーンの背中を打つ。
演目壇に飾られていた、〈ダイナソア〉。それが……今は、無い。
正当な競りによって、本来ルシュナの手に渡るはずのその槍は、今は…サーカーンの横を走る黒衣の男の小脇に抱えられていた。
盗んだのだ。
奪ったのだ。
そして、逃げたのだ。
「待て!貴様、盗むというのか…誇りを捨てて、盗むというのか!!」
口をついて出た言葉は、今までルシュナが発してきた彼への罵倒の中でも、最も大きく、激しく、
そして感情のこもったものだった。競り落とした物を盗まれた恨めしさからではない。ただ、商人として、一切の取引も介さず、奪い取ったこと。その不条理に、純粋な怒りをおぼえたのだ。
しかし、そんなルシュナの叫びにも、サーカーンは返答しなかった。
「貴様が欲しかったのは、その槍なのか…それとも命なのか?!答えよ!!」
悲痛なまでの問い。またも返答はない。追おうにも、未だ逃げまどう兵士やそれにつきまとう商人たち…人混みの壁に阻まれ、動くことも出来ない。
「…く…!すまん、レナス!約束の品、奪われてしまったわ…!」
「分かりました」
事も無げに答え、レナスは王と王妃に背を向けると、彼女の身長の十数倍はある王座の壇から、ひらりと飛び降りた。頭から地面に垂直落下し、寸前で身を翻して鮮やかに着地してみせる。
その動きを止めぬまま、レナスは走り出した。激流のような人の壁を、右に左に軽やかに回避し、数度の瞬きの間にルシュナの前に姿を現した。
「すまぬ……。競り落としたことで気が抜けてしまったわ…。奴らはあちらに逃げた、追うぞ!」
「いえ。師匠はここに残ってください」
「なぜじゃ?!お前が強いのは分かったが…私では足手まといか?!」
「師匠は、もう、お姫様です」
一言。ルシュナは、縫いつけられたように動きを止めた。
「約束は、果たしました。お父様…いえ、王様と、王妃様を、お願いします」
それだけ言うと、レナスはきびすを返し、地面を蹴る。
その勢いに、風が緩やかに吹いた。
ルシュナは、動かなかった。やがて、その姿もまた人混みに飲み込まれていく。
その、一部始終を見届けると、ベベルナは、侮蔑の混じった嘆息を付いた。
「窮鼠が、猫も噛まずに逃げ出した、か…あさましいことね」
刹那、黒い箱から声が響いた。
『少佐、〈聖剣〉の反応を砂漠地域で捕捉しました。空挺の準備は整っています。追跡しますか?』
「そう…いえ、今はいいわ。私が直接、追います。〈聖剣〉を確保次第合流しましょう」
『了解しました!』
黒い箱を懐に収めると、ベベルナは歩き出した。
あのタイミング、そしてあの動作。前もって意図し、行動した結果だろう。
その程度は、出来る男だとは見抜いていたが…生憎、今はその計算高さが腹立たしい。
「私を裏切った男が…皆、どうなってきたか」
今まで苦々しく歪められていた端正な顔が、一瞬、寒々しいほど平坦な無表情へと変貌する。
「教えてあげるわ」


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