目を開くと、そこは、砂の中ではなかった。 「…ようやく目を覚ましたか。心配したぞ…」 横から、突き出た顔。 レナスをのぞき込んだのは、そう歳も離れていないであろう女性であった。 頭を押しのけるように起きあがると、レナスはゆっくりと周りを見渡した。 頼りなく炎を揺らめかせる蝋燭に照らし出された、薄暗い、三角錐形の空間。 もう、とうに夜を迎えていたらしく、かすかに漏れてきた冷たい風は、湿った匂いがした。 「ここは、私のテントの中。砂漠の真ん中で倒れておったおぬしを保護してやったのだ…感謝せいよ」 どうやら、そういうことらしい。少なくとも、自分はテントの中で休息した覚えはない。 「…ありがとうございます」 前触れもなく、頭を下げる。その拍子に、額の上に乗っていた白い布がぱさりと落ちた。 「よいよい。この地では助け合いが原則じゃ。砂漠で人死にが出ては、地の精霊に顔向けできんからな」 白い布を拾い上げ、傍らの、なみなみと水をたたえた桶につけ、洗う。絞り上げた時にしたたり落ちた水音に… レナスの喉が、小さく鳴る。 「…おお、忘れておった。おい、誰か!水を持ってきてくれ」 手を叩きながら呼びかけると、すぐさま、水差しと空の瓶を持った女性がテントに入ってきた。 「ほれ…飲め。はじめはゆっくりじゃぞ。あわてると喉に詰まるからの…と」 水を入れ、瓶をレナスに手渡す。 しかし、忠告を聞くどころか最後まで言わせもせず、レナスは差し出された瓶を、一気に傾けていた。一瞬にして 空になった瓶を、無言で差し出す。 「…も、もう一杯か?」 うなずく。 二杯、三杯と。まるで、自分を覆っていた、砂のように。水を飲み干す。 やがて一息ついたレナス。けふ、と小さく肩を揺らす。 「ふむ…見事な飲みっぷりじゃの、しかし……」 女性は、レナスの顔をまじまじとのぞき込んだ。 そのままその無表情をさすってみたり、頬をつねってみたりとを繰り返すと、何かを決めたようにうなずく。 「よく見れば…、おぬしなかなか、器量がよい。少々のことでは動じぬ不遜なこの無表情もよい…決めたぞ。 おぬし、我らに付いてこい。そして我らを手伝え。恩を着せるつもりはないが…少なくとも、このまま一人で 歩き続けるよりは都合もよかろう?うむ、我ながら名案じゃ」 なにやら、決まったらしい。よく分からないが…水の恩がある。 それに…この、砂漠からは。未だ、〈聖剣〉の気配は、消えていない。 逆らう理由は、ない。 きわめて単純で明快な計算が終了すると、レナスはもういちど、素直に頭を下げていた。 「よろしく、お願いします。師匠」 ◆ 夜明けと同時に、レナスは目を開いた。 「……」 昨日と同じ、テントの中。辺りを見回してみるが、誰もいない。 ただ、外から微かに漏れ聞こえる人の声だけが、日光とともにレナスの五感を少しずつ覚醒に導いてゆく。 足音…近づいてくる。テントの入り口から、顔をのぞかせたのは、昨日のあの女性であった。 「起きたか。ちょうど良い。街を、案内してやろうと思っておったところじゃ」 浮かべた笑顔は優しかったが、同時にその効果をなかば悟ったような鋭さも内包している。 よく見れば、背格好や年の頃は、レナスとそうは変わらない。成長の時期は過ぎているだろうが、未だ子供と、大人の部分を併せ持つ、 その狭間にいる女性だけが持つ清冽な容姿である。 健康的な褐色の肌は、血因的なものか、それとも日光の下でのたゆまぬ労働の証なのか。 頭部に巻かれた、砂と同じ色をした布からわずかにこぼれる髪の色は、レナスとほぼ同じ…銀色だった。 手を引かれるまま、テントから出る。途端に差す、砂漠でさんざん自分を射抜いた強烈な日光に、レナスは小さく目を細めた。 「まぶしいか?これを被ると良い」 手渡された布。ルシュナのそれと同じように、巻き付けてみる。 「…はは、なかなか似合っておるぞ。…さ、行くか」 並んで歩き出す。 「言い忘れておったな。私の名はルシュナ。よろしくな。で、お主は?」 「はい。レナスと申します」 「そうか。では、レナス。どうじゃな?この街は」 問われ、レナスは、辺りを見回す。 通りは人と、それを運ぶ馬のような生き物と、商品を求める客とで溢れかえっている。 雑然とした街並みは全体的に背が低く、横に広がった印象を受ける。凝縮されていると言えば、聞こえはいいかも知れない。 刀剣類などの武器を扱っている店があるかと思えば、その反対側には妖しげな薬品類を陳列するテントが鎮座している。 しかし外見のちぐはぐさとは裏腹に、商人たちの腹はひとつ、利益への飽くなき追求へと収斂している。 愛想笑い、客引きの声ひとつまで、計算された、技術。 ただ行くのとは別に、闊歩するためには、それなりの知識と度胸を要求する…清濁併せ持つ、ややいびつな活気だった。 「騒がしい街じゃろ?大小、何人いるのかも分からぬ商人たちが、日夜しのぎを削っておる」 「そうですね。いつも、こんなに人がいるのですか?」 「まあ、な。しかし、今日でさえ最近から見れば空いている方じゃ。 この街で、年に一回だけ開かれる、商売祭、というのがあってな。それが近いのじゃよ」 「商売…祭?」 不思議な顔をしたレナスに、ルシュナは咳払いひとつ。 「こほん…そうじゃ。商売の祭典。大きくて、華やかで…参加せぬ者などおらぬ、伝統行事じゃ。 と、その前に…商売というものについて、話しておこうかの。 この砂漠の土地で生きていくためには…商売をせねばならん。ここの民ならば、常識じゃがな。 おぬしのその衣装…少なくとも、砂漠の民のものではなかろう?ならばまず、この街…この国の成り立ちについて、教えねばな。 ……そうじゃな、おぬしの土地では、物事の上下を決める時、どうしている?」 「物事の上下は…すでに、主がお決めになっています。今から、私たちが操作するものではありません」 「ははッ…面白い娘じゃの。ますます気に入ったわ。ま、そのような律が当初から存在すれば良いのじゃがな…生憎と、ここにはなかった。 昔は、争いが絶えなくての。水を巡り、覇権を巡り。先の大戦の折りなどは、いくつかの勢力の代理戦争のような状態にまで陥った時期もある。 結果、砂漠の民自身が、その大地を、さらなる荒廃に追いやる結果となった…恥ずべき事じゃが、子供たちにも全てを教えてある。 負の歴史を繰り返さないためにな」 一息。 「…そんな様々な事情もあって、この街では、争いごとは御法度じゃ。軍備もなければ、自警団もない。衛兵がせいぜいじゃ…じゃから、売っておる 武器はほとんどがなまくらじゃ。だまされるなよ?…だがしかし、ある程度の秩序の確保は必要。そのためには、階級社会を維持することが不可欠。 そのための、商売なのじゃよ…。商うことで、多くの富を得、豪奢な宝物を得る。その度合いにより、どの程度の権限を持つかが決まる。売れば売るほど、偉くなる。 直接的に、商売と生活が関わっている。誰が定めたのかは覚えておらぬが…良くできた仕組みじゃ。おかげで、ここ百年は、誰一人として禁を破った者はおらん。 水の独占を防ぎ、砂漠の秩序を保つために、な。 商いとは、砂漠の民の誇り。ある意味威信をかけた決闘よ。じゃからこそ、民はそれにのめり込むのかも知れぬな……」 語り終え、ルシュナはひとつ、息を付いた。そしていったん、足を止めた。 「ほれ、ついたぞ。最終目的地…私の、店じゃ」 指さす、その先に。ひとつのテントがあった。 複雑な縄と布の組み合わせで、王冠のような形にふくらんだ布の社は、日光を照り返して輝く金やら銀やらの装飾品で飾り付けられている。 周囲は、通りと同じ…嫌、それを凌ぐほどの人で満たされている。その数々の視線を受けるのは、テントの最上段に堂々と備え付けられた、 看板。記された名は『ルシュナ一座』だった。 人波を掻き分け、テントに近づいていく、ルシュナ。その背中と、上の看板を交互に見比べながら、レナスも付いていく。 「皆、早いな」 広く開かれた入り口から、テントに入る。 独特の匂いが、レナスの鼻を突いた。 布を貫通して漏れる微かな光と、ともされた灯に照らされるいくつもの、数々の、商品たち。 それらを手際よく陳列していた幾人が、来訪に気付き、ルシュナに向き直り、声を上げた。 「おはようございます、団長!」 「うむ。早くからご苦労。何か、問題はないかの?」 「特にありません!」 「マンドラゴラの仕入れ具合はどうなっておる?予定数を確保できそうかの?」 「はい。今、イリスとマッシュが市に走ってます。ゴルゴダの実とエルメスの毛皮は、ついさっき倉庫に届きましたから、いつでも陳列できます!」 「そうか…よし」 満足そうに頷き、腕を組む。鼻を軽く鳴らし、口元をかすかにゆがめたら…準備は、完了。 「では、今日も、始めるかの…?」 静かな号令に、一同は、威勢良く声を張り上げた。 店が、動き出す。なだれ込んでくる客…テントの外を取り囲んでいたのは、開店待ちの人々だったのだろう。 その流れを、ルシュナは満足げな表情で睥睨しつつ、 「さて、私も行ってくるぞ。レナス、お主は…そうじゃな、どこか邪魔にならぬところでじっとしておれ。喉が渇いたら、裏口に水瓶があるでの。 あと、決して一人で外を出歩くなよ!人の売り買いも、この街では、無いとは言い切れんからな」 最後の言葉の意味は、いまいちよく分からなかったが…レナスは小さくうなずき、テントの奥の方へと、小さな歩幅で走っていった。 その背中が視界から消えるやいなや、ルシュナは叫んだ。 「よいか?商売とは、一に仕入れ値、二に売値!巧みに差額を生み、そしていかに清く賢く逞しく財を築くか!ここにかかっておる!」 「客と単なる利害関係で終わってはならん!悪い噂は雷よりも素早い!手を抜いた接客は許されんぞ!」 「なんじゃっ、その腰の引け雑巾捌きは?!ものを磨くとは、己をも磨くと言うことじゃ!」 「よくぞいらした!ルシュナ一座は、今日も日がな一日大安売りじゃ!何も買わぬと、逆に損じゃぞ!」 生き生きとした、若き商人の働きざま。レナスは倉庫への入り口のそばにできた、小さな暗がりにちょこんと座して、見ていた。 身のこなし、様々な物事への対応…時折張り上げる声。全て的確だ。 商売というものについて、レナスは全くの素人だが…気勢を逃さない人間の挙動は、いつ見ても流麗で、確実だ。 商人の中に格付けがあるか否かは知らないが…もし存在すれば、ルシュナは、その中でも屈指の強者として数えられることは間違いないだろう。 それを裏付けるように、客の流れはいまだに止もうとはしない。 そしてそれを処理し続ける、一座の面々。 多人数による協力と連鎖が生み出す流れの輪廻は、作業の域を抜け出で、それ自体が一個の品であるかのような完成度を帯びていた。 「よくぞいらし…っ?!」 客足は、まだまだ尽きない。 なおも声を上げた、その、刹那。 ルシュナの顔が、前触れ無く、凍り付いた。 その、硬直した表情の向けられた先には…は通りを歩む商人や客たちとは、明らかに一線を画した雰囲気と身なりの、背の高い男二人組が。 物品を見ているようで…また、別のことを、観察しているような視線を、一座のテントの中に向けている。 最初は、遠慮がちに…やがて次第に容赦なく。最後は確信的に何かを疑うような目をして。 「…ま、まずいっ…」 嫌な予感。判断と行動は、速いほうがいい。 ルシュナは、店の奥のほうに陳列してある、大きな壺の陰に、脱兎のごとく駆け込んだ。 「?」 突然の行いが理解できず、きょとんとした表情で、ルシュナの居る方向を見つめるレナスに、 (ば、馬鹿ッ。こっちを見るでない!) 小さな声は、聞き取りにくかった。レナスは呼ばれたものと思い、すたすたと大股でルシュナの隠れている壺のもとに歩み寄ると、すぐそばに座り込んだ。 …その背中は、店の外からも、丸見えだが。 (な、何をしておるッ!早く隠れぬか!ほらッ) 腕を引っ張られ、無表情のまま、淡い闇の中に引きずり込まれる。 「………」 店内を満たす喧噪から切り離されたような、息の詰まる沈黙が、壺の裏の陰の中に凝縮されていた。 レナスの口と腕を両手で押さえ、ルシュナは、呼吸すら禁じたかのように身体を硬直させている。 やがて…店の前をうろついていた、身なりのいい男たちは、諦めたように互いに顔を見合わせると、立ち去っていった。 その歩みが巻いた砂埃が完全に消えた頃…ルシュナはようやくレナスを解放した。 「ぶはぁッ…は、はあ…何とか、切り抜けたか。しかし、こうも監視を厳しくしよるとは…さすがに感づかれたかのう」 影から抜け出て、それでも警戒は解かず、ルシュナは先ほどまで男たちがいた空間を凝視していた。 …が、じきに、背中に突き刺さる疑問の視線に気付き、振り返る。 「あ、ああ…す、すまん。つい、取り乱してしまったわ」 咳払いひとつ、装束に付着した砂を払い、ルシュナは、しばらく思案したように目を閉じると、 「…夜まで、待て。そうすれば、全て話せる」 絞り出すような言葉にレナスは、無表情のまま、こくりとうなずいた。 |