夜の砂漠に出るなど、いつ以来であろうか。
〈ダイナソア〉を脇に抱えた間者を伴い、サーカーンは騎で疾駆していた。
雲の合間から漏れ降る月光は、淡く青く砂を照らす。今だけは、砂丘は波、砂漠は海であった。
馬上で思うことは、これからの身の振り方。
妄言に弄され、無様に散ったかつての主君に対する憐憫の色は、目深にかぶったターバンに押し隠された表情の、どこにもなかった。
存外、姫がすでに亡き者となっているというあの言葉、嘘ではないのかもしれない……サーカーンは、そう思っていた。そもそも姫の所在の不明を理由に王権を突き崩す策であったが、ああも無惨な結果によって首謀者が葬られては頓挫もやむを得ず、それに、あの、姫の玉座にあった少女が本当に〈教会〉の使徒であったのなら、王権と〈教会〉のつながりもあながち否定は出来ない。いずれにしろ……あの砂漠の国にとどまる理由は、一夜にして血の海に沈んだわけだ。
拠り所を失った彼は〈魔導連合〉領内に入るつもりでいた。確かに、砂漠の終端からそびえる険しい山脈を制するには多大な労力を要するであろうが、このまま砂漠に居座れば、抹殺に失敗した王権からの追跡を受けかねない。ジグルドとサーカーンの関係はすでに公然であったし、なにより事実〈聖剣〉を盗み出したのだ…下手をすれば唯一の生存事件関係者としてすべてを背負わされることにもなりかねない。今まで、無能であったとはいえ貴族の傘下にあり甘い汁を吸い尽くしてきた身分だ…今回のことも、その禊ぎとして考えれば、損な算段ではない。
あちらには、何人か取引のあった人間もいる。取り入るなり掌握するなり、とにかく再起するまでの借宿としては役だってくれるだろう。ましてや王室秘蔵品が手みやげともなれば…。
有用な結論がはじき出された後は、ただ疾走する騎から振り落とされぬよう、手綱を握りしめることのみに集中していた。
「……サーカーン様」
その、間者の、間の抜けたような声を聞くまでは。
「どうした。まだ山脈までは距離があろう」
「いえ…それが…」
声は、低くくぐもっていた。何かに苦悶するような…。
不審に思ったサーカーンが、間者の方を振り向いた、刹那。
異変は……唐突だった。
無拍子に、手綱を握っていた間者の左腕が、折れ曲がった。
石を砕いたような、若干甲高い音が、砂に反響して小さく響いた。
「………?!」
声はなかった。
続いて、騎の両腹に据えられていた足がもげ、飛んだ。砂袋を落とした時の鈍い音に似た響きをと赤い噴水をまきちらし、残し、砂漠に転がる物体が一つ、増えた。
「………が……?!」
一切の間は置かれなかった。腕が、腹が、腰が…子供に握りつぶされる羽虫を思わせながら、圧壊していく。血と臓物が風に流され、背景の夜空に流れ込むようにして後方に消えていく。
やがて、〈ダイナソア〉を持つ右腕が…不自然な数と方向に間接を増やした刹那、崩壊は過渡に達した。ちょうど鳩尾の部分に向けて、すべての血と肉と骨が集まり始めたのだ。穴に吸い込まれる水の動きで体は収縮し……ついには、抱えるほどの、丸い肉塊と化した。
数秒の間、中空にそれは漂っていたが、不意に糸が切れたように落下し、今まで腰を据えていた
騎の背中で、いやな水音をたてて一回だけ弾むと、とさりと砂に落ち……動くことはなかった。
そこで、ようやくサーカーンは騎を止めた。
夜風が、見開いた目に少し痛かった。
それでも、間者の乗っていた騎がそのまま砂丘の向こうへと走り去っていったのをしっかりと見送ると、ゆるゆると騎を反転させた。
横に転がる肉塊には目をくれず、先ほど間者が取り落とした〈ダイナソア〉へ、真っ先に駆け寄った。
何が……起こったのか。
それを思うより早く、サーカーンは砂に埋もれた〈ダイナソア〉をかき抱くようにして、再び騎にまたがった。
逃げねば……ならない。
嫌な予感はしていた。唯一の懸念が残っていた。
だが、処理する間はなかった……だからこそ、一目散に逃げたというのに。
「お待ちになって…サーカーン殿」
騎の尻に鞭を打とうと、腕を振った刹那であった。
体が、硬直した。
「……あなたが、なぜ、このようなところに」
「その御言葉、そのままお返ししますわ。ジグルド様の敬虔なる配下であったあなた様が、まさか主君を弔うこともなく、王室秘蔵の品とともに逃げ出されるなんて…」
振り返るまでもなかった。
ただ、あの冷たい汗……砂漠で流すはずのないそれが、後方からの視線に射られている背中にじっとりと浮かんでいるのが分かった。
最も追いつかれてはならぬ人間に、発見されたのだ。
サーカーンは、振り上げていた腕をゆっくりと下ろし、そのまま騎からも降りた。
ただまだ、振り返ることはない。計算が…終わっていない。
分かってはいた。この女の真の目的が、この槍にあったことは。
あの間者は、その逆鱗に触れたとして…握りつぶされたのだ。
ならば……取り入るべきは、ひとつ。
サーカーンは、緩やかな動きで振り返ると……夜露に濡れ若干堅い砂に片膝をつき、
「誤解を招くような行動を致したことは、平にお許し願いたい」
場違いなほどの流麗な口調でそう言い…ベベルナに向かい、〈ダイナソア〉を差し上げた。
「あの混乱の場にあって、貴女様の目的であるこの槍が亡失してはならぬと、独断で拾得、脱出した次第でございます。一旦、安全の確保できる場所まで移動後、改めてご連絡をと思っておりましたが…丁度よろしい、この場で献上いたします」
「……そう。ならばなぜ、私を無視してこんな所まで?いつでも助けて差し上げたのに…」
追及の言葉は、甘く…厳しい。
〈ダイナソア〉という切り札をも投げ出しての懐柔であったが、相手が相手だ。
この女は、遅かれ早かれ、自分を殺す。
サーカーンは、この絶望的状況を、逆に冷静に見ていた。
「それは…面目次第もござりませぬ。なにぶん危急的状況でしたゆえ……どうかご慈悲を」
数瞬の沈黙。
「…事態は理解できました。面を上げてください、サーカーン殿」
声音は、若干、柔らかいものだった。
まず……一段、乗り切った。サーカーンの心中に、暗い会心の笑みが浮かぶ。
「たしかに、あの状況下では安全な合流は不可能であったのかも知れませんね。賢明なご判断でしたわ」
言葉一つ紡ぐごとに、声は柔らかくなっていく。だが…どちらにしろこの女は、まだ自分を赦してはいない。何より間者が肉塊と化した時点で、彼女の結論などとうに出ているのだ。
だが今はそれでいい…。
許されたと思わせ、間者のように屠り、絶望させた後にでも握りつぶすつもりだろう。
好きにしろ……
……出来るものならば、な。
「優しきお言葉、痛み入りました……さ、どうぞ。この槍、お納めください…」
「ええ…。ありがたく、頂戴しますわ」
片膝をついたままのサーカーンに、ベベルナは平然と歩み寄った。差し出された〈ダイナソア〉を両手で支えるようにして持ち上げると、ひとつ、安堵したような息を漏らした。
「確かに、受け取りました」
「はは…。それでは、確認のほどをお願い申し上げます」
「……確認、と申されますと?」
「は…。一度は、詮無きこととはいえ疑われた身でございます。お許しを請う上でも、その槍、真にあの槍であるか否か、御身にてご確認をいただきたく存じます」
「…貴方が、望まれるのであれば」
………勝った。
内心で小躍りを舞いつつ、それを決して表情に出さぬのがサーカーンであった。
さあ、自分の目で見ろ……その槍を。
ベベルナは言われるがまま、〈ダイナソア〉をくるむ布を取り去るべく、何重にも巻き付けてあった
縄を解く……
その最後、縄が完全に解かれ、砂に落ちる――瞬間。
横へ跳んだのは、サーカーンだった。
固く閉じたまぶたの間に、その場に溢れた膨大な量の光が、わずかながら進入してくる。
やや遅れて、とっさに塞いだ両耳の鼓膜も破らんばかりの轟音が、近辺の地面を叩き、空に反響して広がった。衝撃に揺すられた細かな砂の粒子が舞い、露出した顔や手の甲をパラパラと打ち付ける。
熱と風を感じたのは、ほんの一瞬だった。
………爆発した。
狙い通りに。
数秒して、サーカーンは目を開けた。
もうもうとした煙と砂、そのさなかで空気と反応して燃えさかる炎。
それはちょうど……ベベルナが立っていた地点を爆心としていた。
「は……ははっ…」
顔を歪め、小さな笑い声。
あの、槍を包んだ布の中には、火薬が、詰め込まれていた。
もし何者かに追いつかれた場合、ああして恭順の意を見せかけ…始末するつもりでいたのだ。
「くくく……」
細かく方をふるわせ、立ち上がると、未だ爆炎衰えぬその場所へ、ふらふらと歩み寄る。
「その血肉、砂漠の精霊に捧げるがいい。もっとも、焼けこげてしまっては元も子もないがな…」
勝ち誇った表情を、赤々とした炎に照らされながら、サーカーンは口元をゆがめた。
この女もまた、自分の牙を……貴族の飼い犬の駄牙と、甘く見た。
油断した相手は、全て噛み砕いてきたのだ……この窮地にあっても、その公式は揺らがない。
なおも方を震わせながら、サーカーンは、全身をあぶる熱を気にもとめない様子で、炎の前に座り込み、一瞥をくれた。
……〈ダイナソア〉。爆風でどこかに吹き飛ばされたか。
あれがなければ、再起はままならない。火薬の量は、肝心の取引材料まで壊さないように微調整してあった。害虫だけを焼き潰す算段のはずだったが。
立ち上がり、周囲を見渡す。
先ほどまで鮮やかだった月光が、今は黒雲に覆われ地表に届かない。障害は取り去ったのだ、しばし待つか……そう決めると、サーカーンは、止めておいた騎の元にきびすを返す……
………その、つま先が。
無かった。
「な…?!」
踏み出そうと体重をかけたため、サーカーンは無様に転倒した。
そのまま転がり、尻を付くと……そこに何もない、右足の先を、充血した目で凝視した。
出血はない。それどころか、痛みも…断面にも、赤黒い肉の組織の一片すら確認できなかった。
黒い。ただの黒い丸が、平行に、断面に沿って貼り付けられたように、無表情にそこにあった。
「ば、馬鹿……な?!」
まるで、足の先だけが、どこかに掻き消えたかのような……
狼狽し、混乱した精神は、〈ダイナソア〉のことなど彼の記憶から全て追い出していた。ただ、腕でその身を引きずり、騎の元へとたどり着こうとする。
「興ざめね……」
その、酷薄な声を、聞かされるまでは。
「土壇場の策が、芸のない詐称とは。あなたほどの方ですもの、もっと流麗な策を期待したのですが……」
今はただ、サーカーンは恨めしかった。
この状況を、理解できてしまうほどの理性を残していたことと…
これから起こること、すべてを自分が受け入れねばならないと言うこと…
恐る恐る、振り返る。
そこには……
炎の衣をまとった、ベベルナがいた。
ぴしりとした軍服には、傷もしわの一つもなく……それどころか、その腕、足、肢体全体に、獣の毛皮でもまといつかせるように、赤々しい炎の筋を這わせていた。
「火薬の炎……無粋だけど、砂漠の夜空には案外映えるわね…」
その、炎を見つめる、目が。
閉じられたままだった目が、うっすらと開いていた。
「あ、……あ…あああ…!!」
もはやその舌は、軽妙な謳い文句を紡ぐことすら出来ない。
立ちあがり、走り去ることも出来ない。なんとか動く方の足をばたつかせ、後ずさろうと藻掻くが、
周囲の砂が巻き上がるのみで……一歩の距離ほども、その魔女から遠ざかることは出来なかった。
「無様ね……もう、黙りなさい。不愉快よ」
薄く開かれていた目蓋が、不気味なほど滑らかに、開く。
まといついていた炎が、掻き散らされて……
その、秘された瞳の色を確認する間もなく、腹部に、鉄槌の直撃と等しい衝撃が炸裂した。
喀血と唾液をまき散らし、砂漠に転々としたわだちを残しつつ、サーカーンは無様に吹き飛んだ。
口の中に入った砂が苦い。衝撃のあまり指すら動かせずうずくまる彼に、冷酷な言葉が叩きつけられる。
「商人にとっては、主君も……客人ですら、商品なのね。平時は祭り上げても、いざとなれば底値で切り捨てる。…悪い理論ではないけど、今はとても不愉快に聞こえる」
嘆息。やや深く、肩を落として。
「けど、最後に、あなたの言葉をお借りするわ」
ようやく、見えた。
その、瞳の色は。
果てのない、黒。
傷の断面と同じ……闇の色だった。
「商品価値のない物は…捨てるだけ」
駆け抜けたのは、風とは別の何かだった。
気付けば既に、ベベルナはサーカーンのやや後方にいた。
不思議な立ち位置だ。サーカーンの身体の手前からでも…なぜか、彼女の姿が見えた。
「が…あ…」
風穴、と呼ぶには、あまりに大きすぎる。
上半身のほとんどを吹き飛ばされ……いや、喰われた、その哀れな、既に商人とも呼べぬ男は、ひとつ、息を漏らすと、崩れて、落ちた。
最後は、軽い音だった。
その、もはや物言わぬ塊と化した男に一瞥もくれることなく、ベベルナは、足下に転がった〈ダイナソア〉を拾い上げた。青く焼き入れされた表面は、傷一つなく、かすかな月明かりを照らし返している。
「ふふ…〈聖剣〉ダイナソア。確かに、もらい受けたわ」
満足げなその言葉を、まるで聞き取ったかのように。ベベルナの影を、それより巨大な影が、上空から塗りつぶした。夜風とは違った気流が、ベベルナの髪をかすかに揺らす。
見上げれば、黒い箱がそこにいた。
『少佐。お迎えに上がりました』
胸元から、雑音混じりの声。黒い箱を操縦する兵士のものだ。
「ご苦労様。こちらも目的物を確保。任務完了、帰投しましょう」
『了解。梯子と兵を下ろします。ご搭乗ください』
声の後、上空の黒い箱から、数人の兵士が、投げ下ろされた縄ばしごを伝って降下してきた。
その兵士に〈ダイナソア〉を託すと、ベベルナは、小さく振り向き、
「残念だったわね…〈ヴァルキリー〉。腕力だけでは乗り切れない局面もあるの…。この槍は、授業料としていただいておくわ」
その、つぶやきだけを残し。
黒い箱は、濃紺の夜空に消えていった。


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