信じがたい速度で、砂漠を走る少女がいた。 もしその近くを商隊が通りかかったなら、どこかの騎が暴走したのかと、全隊に点呼をかけるほどの速度で……砂を巻き上げ、駆け抜けていく。 姫の装束のまま、しかし走りにくかったのかスカートの裾の部分を千切り、レナスは、追いかけていた。 さきほどから、聖剣の気配が流動している。止まり、動き、一瞬だけ消えて……今はまた、高速度で遠ざかっていっている。急がなければ、届かない。 追い求める思いは、今疾走する彼女の体の数十歩先を行っているだろう。 しかし、砂に足を取られ、思うように進めない。〈教会式〉の走法でなければとうに転倒している ほどの速度での追走だが、遙か先を行く気配は、遠ざかりかけこそすれ、近づくことはない。 このままでは、追いつけない…レナスは、無表情のまま、軽く唇を噛んだ。 「…ぁぁぁス…!」 そのとき。 前方を飛ぶ黒い箱の気配を察知するため、集中していた聴覚に。 微かな空気の振動が届いた。風ではない。砂でもない… …声だ。 「ナぁぁぁぁ…ス!!」 接近してくる。後ろから…自分よりも早く。 「レナアァァァァアアアアアァァス!!」 毛むくじゃらの騎の上で揺さぶられながらも、手を大きく振り、疾走するその人影は。 「師匠…」 誰あろう。ルシュナであった。騎を止めず、砂を巻いてレナスの真横に張り付くと、目深に被っていた布を外し、十年来の旧友と再会したような笑みを浮かべた。 「……おお、やっと追いついたわ!ほれ、早く乗れ!」 言い、自分の後ろにもう一つ設えられた鞍をぱしぱしと叩く。 「私の知りうる限り、一番健脚な奴を連れてきた…必ず追いつくぞ!あの槍、奴らに渡すわけにはいかん!!」 「はい…でも、王様と王妃様は…」 「父上たちなら心配無用。あの程度でへこたれる手合いではないわ。それに…私は、約束を破らぬ。決してな…あとひとつ。私は確かに姫に戻ったが…あれは私が競り落とした品じゃ!姫であろうと何であろうと、最後まで責任を持つ!」 夜空の下、交わした約束。 あのときの半信半疑など、とうに消えていた。 今はただ、望むがままの物を与え、そして守ってくれたこの娘の、背中を押してやりたい。 いまださめぬ興奮に任せて、わき目もふらず駆けつけたのである。 「師匠…」 その無表情は、この局面においてもやはり、崩れることなどないのだが。 レナスは、ただひとつ、強く、うなずいた。勢いに任せ、ひらりと跳び、鞍に腰を収めると、腕をルシュナにしっかりと巻き付ける。 「…よし!ならば、しっかり捕まっておれよ!ほれ、走れ走れ!あとで溺れるほど水を飲ませてやるからな!!」 叫びつつ、鞭を一振り。 いななきを上げて、猛然と走り出す騎の上で揺られながらレナスが見つめるのは、前方に感ずる気配……〈ダイナソア〉だけであった。 ◆ 「少佐!後方に熱源反応…これは、騎か?しかし、信じがたい速度で、こちらを追跡してきます!」 黒い箱内部は、にわかに騒然とした。 振り切ったはずの、少女が。 まだ、後ろにいる。 ベベルナは、息をつき、額を軽く抑えると、 「…彼女よ。間違いないわ。歓待する理由はありません。構わず行きなさい」 「は、はい…しかし、気流が、不安定で…!」 眼前の兵士の言うとおり、先ほどから機の揺れは激しかった。外様確認のため、くりぬかれたようにのぞく小窓から見える砂漠が早く流れ行けば、それだけ揺さぶりは強くなっている。 「振り切ることも不可能なの?」 「〈ヴァルキリー〉との安全な相対距離の確保は可能ですが、有視界範囲内から離脱することは困難と思われます……このまま進行すれば、我々の帰投地点を関知されるおそれもあります。少佐、ご判断を願います」 言われ、ベベルナは、小さく下を向くと……誰にも気取られぬよう、かすかに目を見開いた。 〈ヴァルキリー〉と相対すると、予定外を多々強いられる。 現在の直接対面は当初の計画より三段階ほど早いが……〈聖剣〉の奪還を防ぐためには、やむをえない。 顔を上げたベベルナの目はすでに閉じ、変わりに、薄い唇がかすかに動いた。 「……減速を」 声の届く範囲にいた兵士の顔色が、闇の最中にありながら、さっと変わるのが見て取れた。 「微速まで落として。後方追跡オブジェクトの進行速度に合わせなさい。高度はこのままでいいわ」 すっと立ち上がる。 全員の視線が集まったのを確認して、 「部隊員に通達」 微笑を浮かべて、 「ゲストが来るわ。出迎えの準備を」 ◆ 「ははっ、見ろレナス!奴ら、足が鈍りおった!砂漠をなめてかかるからじゃ……この季節、鳥は北へと渡る。山脈からの強風で気流が逆巻き、翼を折られかねんからのう!」 片手でなびく髪、片手で手綱を押さえながら、ルシュナは嬉々として叫んだ。 その言葉通り、猛追によって視界にとらえた黒い箱は、先ほどまでの身を揺さぶられながらの強引な逃避行を止め、ルシュナ達の頭上近くにまで後退してきていた。 「しかし、追いついたまではいいが、どうやってあれを落とす気じゃな?急ぐあまり、ろくな武器も持ってこられなんだが……もしや、あの赤い大剣で斬り飛ばす気か?!」 「いえ」 小さな声だったが、風にかき消されることはなかった。 「あの箱に、乗り込みます」 「な、なんじゃと?あそこまで跳ぶというのか?!」 「はい。以前にも経験があります。この場合でも、応用は可能です」 「はは…!お主、やはり豪快じゃのう!して、どの辺で乗り移る気じゃ?」 「……師匠。左へ」 「む?左…あちらには砂丘があって、追いかけるには適切とは言えんぞ?」 「はい。ですが……あそこには、風があります」 「なる……ほどな!そういうことか!ならば、奴らもあの砂丘の上を通過するはずじゃ!よし、任せろ!その代わり、騎もそろそろ限界に近い。好機は一度限りじゃ!よいな?!」 「はい。お願いします」 返事代わりに、ルシュナは騎を急速に左へと転進させた。 前方に、やや小高い砂丘がそびえて見え始める。そのふもとに騎がさしかかり、黒い箱もそこに四角い影を落とした……そこを見計らい、ルシュナは、騎の尻に、鞭を思い切り振り下ろした。 驚いたようにいななき、騎は猛然と走り出した。降り落とされんばかりの衝撃に耐えながら、ルシュナは何とか声を絞り出した。 「レナス……私の、肩を貸す!一番高いところから……跳べ!」 「はい。失礼します」 「ほれッ、駆け上れ!これが最後の一仕事じゃ!」 手綱を引き絞り、騎をさらに走らせる。激しい上下にルシュナは軽いめまいを覚えたが、今ここで気をやるわけにはいかない。歯を食いしばり、その隙間から苦しげに息を漏らした。 はっきりしない視界。砂丘の傾斜に身を引かれ、まるで空へと飛び出すかのような錯覚をルシュナに見せた。 ……やがて、砂丘の頂点に達したとき。 「今じゃ!……跳べ!」 後方から……砂丘のふもとから吹き上げてきた突風が。 鞭を入れられ、飛び上がった騎と……そこからさらに跳躍したレナスの背を、強引に押し出した。 地面を走る風は、坂があればそのままそこを伝って上昇し、吹き上げる。 飛ぶ物も、跳ぶ者も……それを利用するに間違いないのだ。 濃紺の夜空を、人型と箱形の影が切り取り……そして、交錯し。 レナスは、黒い箱の壁面にある、取っ手のような部分をつかみ、姿勢を固定することに成功した。 やや下では、なんとか騎を着地させながら、それでも騎上から転げ落ちそうになり、奇声を上げるルシュナの姿があった。 大事無いことを確認すると、レナスは、壁面を器用に伝いながら……すぐ横にある、入り口と思しき、黒い扉型の穴に、身を投じた。 |