転がり込むようにして進入した黒い箱の中で素早く体制を整え、レナスは鋭く視線を走らせた。
闇の中でも、彼女の視界が狭まることはない。小さな食堂ほどの内部空間の両側には、人が腰掛けるのに十分な出っ張りが走っており、外壁と同じ色の黒い内壁には、見たこともないような武器が大量に並べかけられており…そして。
目の前を、いや、すぐ後ろにも……
人が、あふれていた。
色めき立つ兵士たち。手に手に武具を携え、瞬く間にレナスを取り囲んだ。
だが、その包囲を、まるで自覚していないようなその瞳は、言うまでもなく……〈ダイナソア〉を探し、細かく素早く動いていた。自分の周囲など、見てはいない。
「ゆっくりと手を挙げて、壁の方向を向け!無駄な抵抗はするな……」
「……」
反応はない。
手も挙げなければ、壁の方も向かず……また、抵抗もせず。
……見つけたのだ。求むるべきものを。
闇の奥にかすかに見える。狭く暗い箱の中にあってそれは、レナスには光り輝いてすら見える。
ゆらりと、一歩を踏み出す。
彼女を囲う人の檻の最外周に居る兵士が抱える、長槍。
見えているのは、それだけなのだ。
「う…動くなと言っているだろう!聞こえないか!」
またも、反応はない。
ゆらりとした歩みは、やがて彼女に最も近い、囲いの兵士の胸元にまで達した。
「う…ごく…な…!!」
兵士は、レナスの壇上での戦闘を目の当たりにしている。
あの手勢ですら、数分で完全に屠られたのだ。
打ち消したはずの恐怖が、その純然たる対象を目の前にして……突如、再燃した。
命令もないまま、腰のナイフを抜き放ち、その喉元に突き立て…
金属音、
同時に彼にしか聞こえない、腕の腱の裂ける音が鈍く伝った。
ナイフは、瞬刃によって弾かれ、壁にまっすぐにつき立っていた。それを持っていた腕は衝撃によって内部を引き裂かれ、だらんと力無くぶら下がっている。
……赤い、大剣。
あの時もそうだった。
黒い箱の内部を、赤く紅い光が満たしていた。
「……退いて、ください」
〈ラグナロク〉を振り抜いたままの体勢で、レナスは、言った。
人の囲いが、一斉に数歩下がる。ある者はおびえうずくまり、ある者は猛って武器を構え……
一触即発。張りつめた空気が、未だ閉じられぬ扉からの風をも弾くように固まろうとした…刹那。
「……そこまで」
声と、その姿は、空間の前方から来た。
「ベベルナ少佐……」
「そこまでよ。総員、警戒態勢のまま五歩下がりなさい。」
「な…少佐?!〈ヴァルキリー〉が…?!」
「この発令は、権限116に基づくものです。従わない場合は軍規により罰します」
「………り、了解しました。総員、下がれ…」
レナスを包囲していた兵士たちは、突然の不可解な命令に戸惑いながらも、指令通りに動き始めた。
下がる兵士達に代わって、少佐と呼ばれた女性が、闇の向こうから、音もなく進み出てきた。
「はじめまして、〈ヴァルキリー〉。私はベベルナ。貴女と同じく…〈聖剣〉を、欲する者よ」
差し出された、手。
しかしレナスは、不思議そうにその手と、ベベルナの顔を見比べると、首を小さく横に振った。
「敵と交わす握手はないって事?分かったわ……。でも驚いた。まさかここまで来るとはね。そんなに…これが大事?」
「はい」
簡潔きわまりない答え。動揺も策動もない。
もとより、議論をするために育てられていない…話し合いの余地は、無い。
交渉は、驚くほど早く決裂した。
「!」
暗殺者の呼吸は刹那。
ベベルナの死角から、〈ラグナロク〉がその首筋に殺到した。
闇から突き出た赤い尖塔は、そのままその柔肌を抵抗無く寸断する太刀筋を描いて……そのまま、空気だけを裂いた。
狭い室内の壁を〈ラグナロク〉の先端が掠め、火花が散る。
それが床に落ち、消えるより早く、レナスは気配を察知した。
大剣を振るった勢いを捨てず、そのまま反対側の壁に突き立てると、肘を伸ばし、爪先を何もない空間に向けて突き刺した。
……その、先端から拳の半分ほどの間をあけて、すらりと伸びる、白い鼻筋が見えた。
「あら…。見えたのね、私が。大した物だわ」
静かな声。
数瞬前まで立っていた場所から、ベベルナは音もなく移動していた。
「少佐殿!」
足が浮いた体勢を保持しているレナスを拘束できると思ったか、一人の兵士が床を蹴った。
その、二歩目の足音と。
「止まりなさい!」
兵士の額から、小さく赤い、血の筋が伝ったのとは、同時だった。
〈ラグナロク〉の刀身が、薄く、兵士の頭部にあてられている。制止の声が少しでも遅れたら、兵士は確実に…喰われていた。
「あ…あ……」
両目を中心に寄せ、冷や汗で流れた血が薄まる。一歩、二歩と下がると、兵士は無様に尻餅をついた。
「発令が聞こえなかったようね。あなたたちは、下がりなさい…」
苛立ちを押し隠すように、吐き捨てる。
そして、そのままの表情で、レナスに顔を向け、
「ねえ…あなたは、どうして〈聖剣〉を求めるの?」
「聖務だからです」
「聖務…?〈教会〉からの命令で?」
「命令ではありません。〈聖剣〉をすべて集めることで、主は私たちに大いなる福音をもたらして下さいます。聖務は使徒のつとめなのです」
「それは、立派ね……感服するわ。でもね、私たちも、〈聖剣〉を集めなければならないの。目的は同じよ。この世界に、平和と幸福を到来させるために……」
それは、返答を期待した問いかけではなかった。
「そのために……」
一息…
「そのために、ここで死になさい!!」
目蓋が、開いた。
それに、どのような意味があるか、レナスは知らなかったが……危険を感じ、〈ラグナロク〉を前面に構え、その後方に身を隠した。
轟。
風、衝撃……そのどれとも異なった、それは、波のようにレナスに押し寄せた。
初撃を、レナスは〈ラグナロク〉を床に突き立て、耐えた。
負荷に対する訓練など、飽きるほどに受けてきた。
少しでもこの波動が弱まったら、突進し…首を、撥ねる。
大剣の裏で力を蓄えつつ、レナスは息を潜めて、待った。
だが…だからこそ、見えなかった。
ベベルナのその瞳が、禍々しく、一瞬だけ煌めいたのは。
…それは、霧と言って、視覚的に差し支えなかった。ベベルナの瞳から、闇をなお塗りつぶす、黒色の霧が漏れ出て。波動に乗り、それは瞬時にしてレナスに、〈ラグナロク〉に到達し、包み込んだ。
レナスは、手元に流れ込んできた黒い霧を毒と警戒し、呼吸と視覚を遮断した。
だが……。
……まさに、瞬間であった。
眼前にあった、〈ラグナロク〉が。
一切の前触れ無く、赤い粒子となり、砕けた。
「!」
気配の消失に、瞳孔が開く。
無表情が……崩れかけた。
手の中に残ったのは、赤い残滓を弱々しく散らす、〈アルキュゴス〉だけであった。
時が動き出す。
盾を失った小さな体は、子供が投げつける石の勢いで、箱の壁面に背中から叩きつけられた。
「…!」
息が、絞り出される。
しかし臆することなく、レナスは足を曲げ、壁を蹴る……
ことが、できなかった。
体が、壁から、離れない。
むしろ、押し込まれていく。
まるで透明な布で全身を強く覆われたように。
いや、それは、この暗闇に埋没する、黒い色であったかも知れない。
それは、前方で、レナスを睨み付ける、ベベルナのその瞳と同じ色であったから。
「驚いた……?一度召剣した〈聖剣〉は、貴方の意志無しには消えないはず…。でも、それは大きな過ちよ」
口元をつり上げ、言い放つ。
対してレナスは、矜持である〈聖剣〉をかき消されたという事実に、微細ではあるが狼狽したように、一つ頬に汗を伝わせた。
その汗の粒も波動に押し流され、壁に当たって砕ける。
彼女が、体験し得たことのない、危機。
それに直面したレナスの、唯一の抵抗は……ただ、その指先を、小さく動かすことだけだった。
「何も出来ない気分はどう?雑兵をいくらか屠ってみたところで、事態は少しも変わらないのよ……。己の無力を、神に謝罪なさい…罪深き、使徒さん」
す…と、ベベルナは、この黒い箱を操っているとおぼしき兵士に手で合図を送る。視線を受けた兵士は小さくなずくと、前に向き直り、やや、機体を傾けた。
未だ遙かに広がる砂漠。しかし、このままの進路を維持すれば……やがて、〈王国連合〉上空に到達するだろう。……〈ヴァルキリー〉を、乗せたままに。
彼女の戦闘能力は、あらゆる理論を絶する。
殲滅対象としてこれほどやっかいな存在は、ベベルナの最大限の記憶にもないほどだ。
実力接収も、実力殲滅も不可能であれば……いっそ、取り込み、我が一部とする。
〈連合〉領内に入れば、教会〈穏健派〉からの干渉を一切遮断することが出来る。
領内で強固に囲い、始末するなり…洗脳を施して私兵にするのもいい。
この少女は、疑うことを知らない。それすら、ベベルナは見抜いている。
ただ純粋に〈聖剣〉をのみ求めるならば、そうさせておけばいい。
ただし……おのが手の内で。
意図して追いかけてきた彼女を引き離さなかったのは、この策を閃いたからでもある。
行く先を追われ、〈連合〉領内に秘密裏に進入されては、どのような被害が出るか予想もできない。
強い駒。つぶせぬなら、奪えばいい。
ベベルナとは、どこまでも狡猾な女性であった。
……大きく。
大きく、その闇色の瞳を見開きながら、ベベルナはレナスを見つめ、壁に張り付け続けた。
「あなたは、私の人形になるの。簡単な事よ…持ち主が、変わるだけなんだから……!!」
一層強烈な重圧が、レナスを正面から押しつぶした。
「か…はっ」
短い吐息一つ。
無垢なる使徒は、気を失うときまで無表情であったか。
首を折ったように、がくりと俯き、一切の気配も、指先だけののかすかな抵抗すら、レナスから一切が消え果てた。
「……あらあら、案外脆いのね。まだまだ痛めつけてあげたかったのに…まあ、いいわ」
名残惜しげに息をつくと、ベベルナはようやく……静かに、その目蓋を閉じた。
瞬時に重圧は消え去り、レナスは壁から引きはがされて、前のめりに倒れ込んだ。
髪をかき上げ、兵士達の方に向き直ると、
「〈ヴァリキリー〉の沈黙を肉眼で確認。〈聖剣〉の接収を急ぎなさい」
号令が発せられた後は、兵士達の動きは俊敏だった。
レナスから〈アルキュゴス〉を奪い、〈ダイナソア〉の納められた箱に収納する。
負傷した兵士の応急救護、乱れた機の姿勢の修正。
数分とたたず完了させ、兵士達は、定位置にずらりと並び、ベベルナに敬礼姿勢を取った。
「……ご苦労様。ただいまを持って発令を解除します。〈ヴァルキリー〉に、我々は勝利したわ」
言い放つ。
ここに、彼女の芸術は、完成を見たのだ。
若干高揚したような眼差しで、なおも動かぬレナスを睥睨する。
彼女の塗った、汚らわしい泥もまた……彩りの一つであったと言うことだ。
誇らしげに鼻を鳴らすと、
「進路を、〈連合〉方向に固定。帰投しましょう」
兵士達の力強い呼応。
王座に上り詰めた心地で、ベベルナは腰に手を当てた。
あの、無能な貴族の心情、今ならば理解できるかも知れない。
仇敵を打ち倒し、勝利と栄光を我が手にする。
無感情に作戦を達成するだけではない……この、勝利の甘さ。
欲するのは無理もないことかも知れない。それに……
これで……あの方に……褒めて、もらえる。
涼やかな表情が、誇らしく夜空に映えていた。


次頁