「おい、操縦官!」
その、声を、聞くまでは。
甘美な瞬間を邪魔され、ベベルナは鼻息を漏らした。また気流か……はやく、こんな不毛の大地とは決別していまいたいというのに。
「…何か問題でも?」
「は、機の方向が、全く反対に……。これでは、あの街へと戻ってしまいます。操縦官、聞こえているのか?操縦官!」
「……」
ひどく、嫌な気配があった。
軍規において呼と応は基本中の基本であった。それを無視するような精鋭は、この中には居ないはずだった。
胸騒ぎ。自身で確認しようと、兵士の列をかき分け、前方へと向かう……
刹那だった。
兵士。
横の。
がくりと、肩を落とした……
その、手には。
「しまっ……」
それ以上の発声は死に繋がる。ベベルナが、口を塞ぎ壁に張り付くのと同時に…
兵士の一人が、戦闘服の胸元にぶら下がっていた、固形炸薬を、そのまま床に叩きつけたのだ。作戦用のため密度も高く、少しの衝撃にも反応して、爆発する……それが、四散したのだ。
船内は、一瞬にして熱と爆炎で満たされた。
「ば、馬鹿な?!貴様、何をやっている!」
「消火急げ!操縦官、機の体勢を維持しろ!」
「……」
「操縦官!返事をしろ!操縦官、体勢を!!」
返事は、無かった。
空気と反応して熱を生み出す炸薬の火力は凄まじく、底面のほとんどを炎が舐め付くす。
その他に搭載されていた加薬へと引火し、次々と小さな誘爆の連鎖を生んでいく。
しかも、ただでさえ激しかった気流が、まるで見計らったように機を激しく揺るがし始めた。
転倒し、そのまま昏倒する者まで現れ始めた。人が操る機の動きでは、ありえないことだ。
前方の操縦官に向かって何人もが叫ぶが、その任を担っていた兵士は……白目を剥いていた。
船内が立っていることすら困難なほどの混乱に見舞われる最中、発端の兵士は、数人の同僚に拘束されながらも、なおも握りしめた炸薬を大きく振りかぶっている。その瞳はやはり…気絶したように、白目を炎に焦がされていた。
「く…?!」
ベベルナは、壁に手をつき、どうにか体勢を維持していた。
素早く気配を察知する。〈ヴァルキリー〉は、まだ倒れたままだ。
ならば、何故このような……?
刹那、思考を寸断する、小爆発。機関部へ、完全に火が渡ったらしい。
このままでは、墜ちる。
操縦官への声は届かない。高度を確認するため、小窓のある位置まで移動しようと、少し進んだ位置の壁に手をつく……
その、掌に。
細く、しかし固い、何かが触れた。
糸……鋼糸か。表面は滑るほどに磨き込まれており、この炎の中でも照らし出されることなく壁面に埋没する遮光性を帯びていることは瞬時に判断できた。
その、終端は……壁を伝い天井を這い、あの兵士の、ちょうど延髄の箇所に消えていた。
そして、
その、先端は。
「………〈ヴァルキリー〉……!!」
裾の破り捨てられたドレスすら、その少女を彩る。
あれだけの重圧に苛まれたはずのその体にも、顔にも、小さな傷の一つも無かった。
指先に鋼糸を絡ませ、片膝を付いて…
レナスは、つぶやいた。
「おいで、〈アルキュゴス〉」
刹那、〈聖剣〉を格納してあった特殊仕様の箱が粉々に砕け…〈アルキュゴス〉が、風を切るように回転しながら、もう片方のレナスの手に飛び込んだ。
ゆらり。
糸を操る手を中空に浮かせたまま、レナスは立ち上がった。
「私は、主に身の全て、捧げた存在」
自身のすぐ側でも燃えさかる火炎に臆する様子も一切無く、ベベルナの、開かざる瞳をしっかりと見据えて。
「それ以外に、縛られることはありません」
「言わせて……おけばッ!!」
怒りの火花が、周囲の炎を凌駕する勢いで、ベベルナの理性を焼き焦がした。
目蓋を、かっと見開く……
それより素早く、レナスは〈アルキュゴス〉を懐に収め、代わりに…その両手、十指から、巣を張る蜘蛛のように、鋼糸を展開した。
一瞬だけ紅く煌めき、瞬時に闇に没した流線は、床、壁、天井を疾り抜け、混乱する兵士達の首筋に次々と突き立っていった。
手応えでそれを感ずると、指が、ピアノ弾きを思わせる動きで、揺らめいた。
消火、避難に追われていた兵士達が、一瞬だけ動きを止めて…突如、ベベルナに向けて身を投げ始めた。
「?!」
その瞳は、驚きによって初めて見開かれた。
レナスを拘束したような力を放つ間もなく、十数人の男達に組み敷かれ、声を出すことすらままならない。
侮って……いたのか、私は。
〈ヴァルキリー〉の…ロゼクトの操る、あの暗殺術を。
心当たりがあった。
人の神経回路に鋼糸を突き刺し、連絡を遮断することによって自我を奪い、逆にその行動を制御する術。
少女は、ただの、〈聖剣〉を収集できるだけの特殊能力者ではない。
それを、手に入れ……場合によっては、奪うための。
暗殺者であった。
「…あ、く……っ、ヴァ…ルキ……リー!」
どうにか絞り出せた声は、間抜けにも見える、兵士達の人の山の横を悠然と歩み抜ける、レナスに向けての怨嗟の声だった。
しかし、少女は一瞥もくれず、ただ指先をかすかに動かす。
ベベルナのごく近くで、新たな爆発が轟音を鳴らした。
一個ではない。連続して、何度も何度も……操られた兵士達が、その自身が装着した炸薬を叩き、割り始めたのだ。
背後で、爆薬が、人の体が、破裂していく。吹き飛んだ肉が天井や壁に衝突し、鈍い水音を奏でる。そんな物騒な音を聞きつつ、しかしやはり無表情で、レナスは、すでに〈アルキュゴス〉が突き破った箱の元に膝を下ろした。
夜の闇、そして炎の赤。
いくつもの色に染められながらも、その蒼き刀身の輝きは、いささかも鈍ることはない。
「やっと……会えた」
無表情。しかし、かすかに安堵したようなつぶやきを残し、
「我……求める。邪を弾く守り手……召剣〈ダイナソア〉」
取り出した〈アルキュゴス〉を、ゆっくりと近づけ、合わせる……
青光。
一瞬だけ、船内だけでなく、一体の砂漠をも蒼く染め上げる。
暮れかけた夜を追い落とすかのように、東の空から漏れてくる清冽な夜明けの青。
それに似た輝きが、レナスの、
「召剣、完了……」
と言うつぶやきを、聞き入れたか否かの、刹那。
操縦官までもを操られた黒い箱は、制御、姿勢、動力、その全てを失い、
先頭部から、砂漠に、突入した。


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