「あ……?!」
ルシュナは、その想像だにしない光景を目の当たりにし、思わず口をふさいだ。
レナスが飛び移って以来、まるでこちらに合わせるかのような速度を維持していた、上空の黒い箱。放っておけぬと思い、出立の際掴んできた水筒の水を騎の頭や口元に振りかけてやりながら追いかけてきたのだが……
突如、黒い箱が、火を噴いて。
それからは、まるで爆ぜる肉のように焼け、焦げ、そして墜ちた。
最後の爆音は、力を使い果たしていた騎が、思わずへたり込んでしまうほどの轟音だった。
ルシュナも、伝わってきた突風と衝撃波に身を煽られ、今度こそ鞍から転げ落ちて、砂漠に頭から落下していた。
「あ、あたたた…。なんじゃ、これは……どういうことじゃ…?!…あ、そうじゃ……レナス!レナスは!」
もはや立ち上がれぬ騎をなだめ、ルシュナは自身の足で、波打つ砂の海を、遠目に見える、未だ燃えさかる黒い箱に向けて走り始めた。
もう一度、黒い箱が爆ぜるかも知れない。
あの少女も……同じ運命をたどったのかも知れない、だが…
何がどうあれ全て、自分が発端と言って良かった。
ならば、その始終を見届けなければ。
何より、自分との取引が、終結しないのだ。
狼狽のため何度も何度も転倒し、体中、砂だらけになりながら、立ち上る黒煙のその下を目指し、夢中で足を動かした。
「レナス…!無事か、レナス?!」
呼びかけに応える声はない。
「無事なら返事をせんか!聞こえるじゃろう?!レナァアァス!」
声はただ、砂に吸い込まれるだけだった。
ひとしきり叫び続けた。
足も止めず、燃えさかる、あの黒い箱のすぐ側まで近づく。
なおも、声を張り上げた。
不意に、風に混じった砂が喉に入り込み、ルシュナは膝をついて咳き込んだ。
「……それは、ないぞ…レナスよ」
そのまま、両手までも砂に着いてしまう。
「お主が、こんな事で死ぬはず無かろう……?砂漠で寝ておった呑気者が、まさか熱に焼かれるなど……私は認めぬ、認めぬ…!」
両の瞳から、粒がこぼれる。
格好が付かぬ……。
これでは、お主を犠牲にして、私が勝ちを得たようではないか!
背中を、押してもらったのだ……せめて、その恩くらい、返させよ……!
「レナァァァアアアアアス!!!」
未だ青黒い部分の残る、夜明けの空に向かって、ルシュナは叫んだ……
その影を。
爆炎が、人型に切り取った。
「?!」
涙も拭かず振り向いたその先に、新たな、巨大な炎が巻き起こっていた。
すぐ近く。あまりの熱に、目を見開いていられない。
まだ、燃えるものが残っていたのか……ならばまだ、炎は止まないだろう。
しかし、手で顔を覆いながら、ルシュナは、そこを離れようとしなかった。
己の身など、案中にはなかった。
ただ……この、絶望の赤が、憎くて。
あの少女の生還を、諦めかけている自分が、憎くて。
ルシュナは、もう一度、少女の名を叫んだ。
吸い込んだ息が、肺に熱い。
見れば、先ほどの爆発で、黒い箱の破片が、自分のすぐ側にまで降り注いで来ていた。
その、黒く焼け焦げた、もはや何であったのかも知れぬ何かに、ルシュナはすがるように這い寄り、両手で小さく囲った。まだ熱く、皮膚がちりちりと痛い。
「……レナ…ス」
消え入るような声……
かき消す意図でもあるかのように、また新たな爆音。
今度は大きい…地響きのような振動が、ルシュナの体をほんの少しだけ浮き上がらせ、砂煙を巻き起こす。
破片が、振ってくる……。
今度は、自分の頭上にも。
舞い落ち、時に大きなものは砂漠に突き刺さる。
夜空が欠けて、降ってくるかのような光景を、ルシュナは、茫然自失とした表情で見つめていた。
ここで待っていれば……いつか、
いつか……少女は、帰ってくるだろうか?
ルシュナは、動かなかった。
その、上空に。
大きな、おそらく黒い箱の壁面と思しき破片が、迫っている事に、気づいていたというのに。
足が動かない。
恐怖ではなかった……
脱力感。
望みのものを与えてくれた、少女に。
何一つ、礼の一言すら、捧げられなかった罪悪感。
全てが、ルシュナの瞳から光を奪い去っていた。
時間の流れがが遅く感じる。
破片は、すでに視界を黒く染めるほどに近づいていて……
目を閉じた。
目蓋の奥に映ったその少女は……やはり、無表情だった。

固い音が、鼓膜を、やけにゆっくりと打った。

急に、静かになった。
あれだけの轟音も、熱風も、全て、感覚から遮断されている。
これが、死か。
あの少女と同じ場所に行けるなら……
それも、悪くは……
「いけません、師匠」
覚醒は、唐突だった。
かっと開いたその瞳に。
自分の右肩の上から伸びる……青い、長槍が、見えた。
「師匠はまだ、生きなければなりません」
覆われている。半球状の、槍と同じ色をした、半透明の光の壁に。
そしてすぐ前方には、自分を直撃するはずだった黒く巨大な欠片が、爆発の影響とは思えないほどひしゃげ、転がっている。
生きて、居る。
黒く汚れた自分の両手を見下ろし…そして、恐る恐る、槍を喉元に当てるようにして、振り向くと。
「あ」
小さな声だった。
片膝をつき、腕をまっすぐに伸ばし……
レナスは。
槍を掲げ、
そこにいた。
「涙の、その残滓乾き果てるまで、その命を絶ってはいけ……」
「………!!」
言葉を遮る。
とびつくようにして…きつい抱擁。
もはや、声が出なかった。断続して漏れる嗚咽に、ルシュナは肩を震わせていた
「馬鹿者ッ…!!し、心配させおッ…私ッ……どれだけ……?!」
「……申し訳ありません」
「謝っ、すむ、問題ではなッ…馬鹿者ッ…!」
レナスの頭を両腕でかき抱き、ばしばしと何度も叩きながら、声を詰まらせながら…涙は、止まらなかった。
「生きて……ッ、おったの、だな…」
「問題ありません」
「相も変わらぬ強気じゃな……。しかし、あの炎からどうやって……あ…」
言いかけ、そのまま言葉尻は消えた。
光の壁だ。自分とレナスを覆う、傘のような壁。
触れてみれば、内側からは、まるで水のように指が通るというのに、外からの破片や衝撃は、その一切が、蒼き光の壁に弾かれ、阻まれ、砕かれて、砂に埋もれていく。
全てを防ぎ、全てを守る、聖なる鉄壁。
聖剣〈ダイナソア〉の真価とは、まさにそれであった。
「最初の衝撃もこれで防ぎましたが、風に煽られて、砂に埋まってしまいました」
「い、今まで…私が来るまで、か?」
「はい」
よく見れば、その髪は、細かな粒子を無数、まとっていた。
「レナス…まったく、お主という奴は…ほれ、払ってやる…と、服もボロボロではないか!ああ、そのドレス、気に入っておったのに…仕方ない、これでも羽織っておれ」
レナスの髪を払い、自分の守っていた布を着せ。
涙と、砂と、破片に混じった黒いススとで顔を汚しながらも、ルシュナは目をこすり…ようやく、安堵の笑顔を浮かべた。
そんな表情を前にしても…レナスは、感情の欠片もない鉄面皮で。
「それで…師匠」
「…なんじゃ?」
「申し訳ありませんが、この槍は、私がもらい受けました。悪しからずご了承ください」
「……な、なにぃ?!」
笑顔が一変…。
怒れる商人の形相に転身を遂げ、ルシュナは、レナスの胸元に詰め寄った。
「いぃいきなり、な、何を言うか?!そ、それは、私が、競り落としたのだぞ?!許せるか!私のものじゃ!返せ!」
「駄目です」
「かーえーせ!!」
「駄目です」
レナスの肩を掴み、何度も跳ねながら、上に掲げられた〈ダイナソア〉に手を伸ばす。
「返せと言ったら返すのじゃ!」
「駄目と言ったら、駄目です」
「だからのう……おわっ、ずるいぞ、その壁は?!中に入れろ!こら、そっぽを向くな…うおっ!は、破片が!まだ危ない!レナス、いいから壁をだな……?!」
そんなやりとりを、二人は、黒煙がやがて静まるまで、続けていた。


「…なあ、レナス」
「はい、師匠」
「その槍…返せ」
「駄目です」
何度目とも知れぬやりとりに、ルシュナは、小さく笑みをこぼした。
「…わかった、分かった。お主は、それをえらく欲しがっておったからのう。仕方ない……これまでの恩に免じて、一回だけ、折れてやるわ」
肩を大きく動かし、息を吐き出す。
二人は、ルシュナの騎にまたがり、街を目指してゆっくりと進んでいる。
もはや、砂漠に光も音もない。やや冷え、湿り気を含んだ夜明けの風が、ただ、爽快だった。
もうすぐ、日が昇る。そうなれば、この静かな砂の海は再び熱に炙られ、命を飲み込む大河と化す。
しかし、ルシュナの操る騎の足取りは、急ぐそぶりを全く感じさせなかった。
「…終わった」
ぼそりと、つぶやく。
「終わったの…最高の形で終わったわ。夢が叶った瞬間というものは、誰しもが必ず泣きながら歓喜するものだと思っていたが…泣けぬよ…泣けるはずもない」
小さく。
やがて大きく身を震わせながら。
「はは…ははは…!泣けぬよレナス!こみ上げてくるのは笑いだけじゃ…今し方、散々わめいたからかのう、可笑しくて、たまらぬわ…」
ついには腹を抱えて、ルシュナは、ひとしきり笑い続けた。
その笑い声を、レナスは後ろで、黙って聞いていた。
「……明日から、私は姫か」
そのため息だけは、やや重かった。
「これが、最後の余暇になろう…」
「レナス。代わりに…手綱を握ってくれんか…。少し、休みたい」
「はい」
後ろから伸びた白い手に、手綱を渡すと、ルシュナは、レナスの腕の中に身を埋める。
目を閉じて…目蓋の奥に、今までの思い出が流れ……れば、この上ない状況であったが。
今はただ、眠かった。
思い返す時間は、これからいくらでも、あふれかえるほど。
ならば、今は、それを抱いたまま……
思いも、記憶も、なにもかも……まどろみの中に連れて。
ルシュナが、レナスの胸元に頭を埋め、静かな寝息を立て始めるのは、それから間もなくであった。


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