砂漠の日照りは、今日も今日とて容赦ない。
砂塵を巻く風の音は鋭く高く、鼻腔の奥に混じった細かな砂の粒子は相変わらず粗い。
だが…それも今日は、どこか、穏やかに感じる。
己の望みを、全て叶えた爽快感も、無論、ある。
しかし、恐らく、それ以上の…寂寥が、ルシュナの表情を、やや暗く染め上げていた。
…王をはじめとした王族たちには、すでに事情を説明してある。
国民の中には、いまだにあの、王を救い、大立ち回りを演じた銀髪の少女を姫だと思っている者もいるらしいが、ほとんどは事態のあらましを理解し…商魂たくましい姫君を、心から歓迎した。
同時に、ルシュナ一座も、王室公認の商団として再出発した。
…と、言うよりは、せざるを得なかったのだ。
規定値の千倍。法外という文言すら天を仰ぐほどの金額は、ルシュナ一座の金庫をどうひっくり返し、隅々までつついたとしても…捻出できうるものではなかった。
商い人として、一度宣言した言い値を、反故にすることは許されない。
これからも商売を続け、全て完済せよ…とは、他ならぬ王の言葉であった。
様々な紆余曲折と、前代未聞の特例を経て…商い姫が、この国に、再び生まれたのだ。
「…どうしても、残ってはくれぬか」
歯切れの悪い口調は、華やかなフォーマルドレスに化粧の姫君には、少々似合わなかった。
本来なら『商売祭』の終結直後に行われるはずだった、姫の「成人の儀」が、つい先ほどまで行われていたのだ。補修された商売祭の会場で、ルシュナはついに文字通りヴェールを脱ぎ去り、その正体を国民に明かした。中には驚きに声を上げる商人も居たが。
思わぬ形の結末を迎えた今年の祭りだったが、その覇者が実は他でもない姫君であったことは国民に大きな驚きと関心を呼び、あれほどの内乱直後だというのに、国内や都市は何事もなかったように平静だった。国民の大きな信任を得た王権は、それに則り、内乱に通じていた全ての人間に対ししかるべき処分を下した。
全てが、問題なく、終わったのだ。
……分かっては、いる。
それは分かっている。
しかし、ルシュナの中には、たった一つだけ、問題が残っていた。だからこそ、こうしてまた城を抜け出し、本心を伝えずには、いられなかったのだ。
「頼む…もう、無理は言わぬ!危ない目にも、遭わせたりせぬ…約束する!お主とともにあれば、何であろうと、乗り越えられる…そんな気がする。じゃから…!」
言葉を懸命に探しながらも、ルシュナは、己の中に芽生えたひとつの結論を、上手く説明できずにいた。
…何にしろ、たった一人で、やり遂げたことではないのだ。
レナスはもちろん、一座の面々、仕入れに関連した他の商人たちまでも…さらには、自分が城を抜け出していることを知りながら、思うままに任せてれた、王や王妃までにも。
支えられてこその、今なのだ。
少なくとも、それを伝えられないまま別れてしまうことは…できない。
「…じゃから、その…」
しかし、思えば思うほど、探れば探るだけ、想いは空転していく。
口をつぐみ、うつむくルシュナ。レナスは、その葛藤をも見抜いたように小さく息を付くと、緩やかにかぶりを振った。
言葉はない。
だが、その意図は真っ直ぐにルシュナを打った。
ルシュナを真っ直ぐに見つめる少女の、まとう聖装束は。城でレナスが身につけた、どの衣装よりも、美しかった。
そこにあるものとして当然の風格を帯びている。計算による刹那の美ではなく、重く、聖なる何かを、繊維の端々にまで染みこませたそれこそ…レナスを、一個の芸術品として成立させている。
商いと、同じかも知れない。最高の逸品は、決してひとつところにとどまらない。
人から人へ、土地から土地へ。
レナスは、その、流れの上にあるのだろう。
曲がりなりにも、商売祭を制した、ひとりの商人として。それは、認めざるを得ない事実だった。
顔を上げる。その表情は、やや苦いものを含んではいたが…晴れやかだった。
「…わかった。商人の宿命として、泣く泣く手放そう…。いや、むしろ、喜ぶべきかも知れぬな。
楽しみが増えたわ。いつか、お主を、堂々と所有できるだけの商人に、なってみせる」
断言。その言葉に、レナスは、一瞬だけ、表情を、ゆるめる。
「はい。……それでは」
聖印を切り、丁寧な一礼。きびすを返し、歩み出す。
次第に小さくなる背中を、砂塵が覆い、包み、隠し…やがて、見えなくなる。
それを最期まで見届け、ルシュナは、小さく言った。
「もしかしたら、私は…生涯で、最高の商いをしたのかも知れんな…」

                                ◆

一方、街の、反対側で。
「…申し訳ありません、閣下」
砂漠の上に停泊している、黒く大きな箱。その中に設えられた椅子に座し、黒い小さな箱を耳元に当てているのは……ベベルナであった。
いつもと変わらぬ、伸びやかで艶やかな紺色の髪、シワ一つ無い軍服…閉じられた目。
しかし、〈聖剣〉を、またも奪われたことへの屈辱もあり、ベベルナの表情には、厳しいものがある。
「…任務完遂に、失敗しました。甘んじて懲罰房に入ります」
かすかに震える声に反応したのは、箱の向こうからの、鷹揚な男の声であった
『気にすることはない。なに、まだ〈聖剣〉はいくつもある。次に期待することにするよ』
「お言葉、痛み入ります」
『それに…あの槍は、〈聖剣〉だったのだろう?間違いなく、〈ヴァルキリー〉が召剣したのだろう?私は、そのことが嬉しいのだよ。〈彼女〉が、それをずばりと言い当てたのだ。素晴らしい精度。予想以上だ』
…〈彼女〉。
ベベルナの心に、薄くはあるが…確かな嫉妬の波紋が広がった。
だがそれを気取られまいと、つとめて平静な声で、ベベルナは、
「ええ…私も、そう思います。だからこそ、自責の念はぬぐえません」
『…もう、いい。とにかく、帰還したまえ。これ以上砂漠にいられては…日焼けが心配だ。月明かりに映える、君の白い肌…そんなことで失われるのは、大変に惜しい』
「了解、しました。ただいまより帰還します。それでは…はい…」
声も聞こえなくなると、ベベルナは、眼前の、この黒い箱を操る機能があると思しき席に座る男に発進の旨を伝える。
ほどなくして、地面が、離れていく。
もとから判別不能なほど細かな砂の粒が、さらに小さくなり、やがて完全に見えなくなる。
…奥歯をかみしめると、がり、と固い音がした。…砂だ。
苦い。何もかもが。
表情には出さず、だからこそ心の奥では、果てしなく深く、暗く。
〈彼女〉。あのお方の声で、脳裏に響き渡る。
ベベルナは、吐き捨てるように、
「……コピーのくせに」


第三話 終


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