砂漠に、闇が訪れた。 砂が冷め、昼間の間に蓄えられた熱が気化し、より一層、夜の冷え冷えとした静寂を作り出している。 もっとも、繁華街に目をやれば、いまだに光も声も止もうとはしない。 商売祭を目前にして、この街はますます眠らなくなってゆく。もともと熱しやすい砂漠の民は、その雰囲気だけで酔うこともできた。 しかし、この静寂は、それとは明らかに別格のもの…。 城。商人たちのテントとは材質と趣を異にして、固く頑丈で大きい。 周囲には堀が造成され、ただでさえ貴重なはずの水が満たされている。 ここは、王城であった。この砂漠の国を統治する王の住まいにして、権力の象徴、中枢である。 守護の任を帯びた門番と衛兵は、眠そうな顔ひとつ見せず、前方の何もない虚空を見つめている。 かさり…。 音。城の横のしげみから。目を向けてみるが、外見上、妖しい気配はない。 その後吹き付けた緩やかな風で、がさりがさりと葉擦れの騒音が聴覚を満たす。 …ただの風か。 そう思ったか、衛兵は視線を外した。 その奥にある、二つの人影に気付くことなく。 一人の手引きにより、もう一人が案内されているようだ。微妙に歩調の違う足音が、小さく響く。 やがて、しげみを抜け、人影の正体が明らかになった。 「さて、ついたぞ。毎度の事ながら、わが城の門番は頼りがいがないのぅ…」 小さく息を付いたのは、ルシュナだった。そして、そのすぐ後方の、無表情の少女は、レナスに他ならない。 「…師匠。ここは」 「言わなくとも良い。とにかく、来るのじゃ」 城の壁に背を合わせると、ごそごそと、手で何かを探り…やがて掴んだのは、一本の紐だった。 見上げるほどの高さの城壁の、かなり上まで伸びているそれを、軽く引っ張ると…落下してくる。 からん、と軽い音を立てて、上空から飛来した縄ばしごは、壁にしなだれかかるように垂れ下がった。 「さて、行くかの。落ちないように気をつけるのじゃぞ」 二、三度、しっかりとはしごが固定されているか確かめると、ルシュナは慣れた身のこなしで登っていく。レナスも続く。 何回手足を動かしたか、数えるのがそろそろ億劫になり始めた頃、はしごは唐突にその末端を迎えた。 壁は石造りのテラスに姿を変え、ルシュナはそこに脚を引っかけて、着地した。 レナスに手を貸し、引っ張り上げると、そのままテラスから続く、城の室内へと足を運ぶ。 「やれやれ…。街と違って、相変わらず窮屈な雰囲気じゃの。ああ、適当に休んでよいぞ。何もないところじゃが…一応、私の、私室じゃ」 「…師匠?」 言葉の意味が、にわかに理解できず、レナスは首を傾げた。 師匠は、商人で。一座の、団長で。なのに…お城の中に、部屋が? 少しの間、何かを考えるように視線を少し上に固定して…何かを思いついたように、手を打つ。 「師匠は、王様だったのですね」 「…子供か、お主は。まあ、あながち間違ってはおらんが…。確かに、この城に王はいるわ。 しかし、それは私ではない。私は、その、娘」 くるりと向き直ったその動作に、今までは感じなかった、どことない気品が漂った。 「ここまで連れてきておいて、隠す必要もない。私は…この国の、王位継承権を持つ俗に、姫と呼ばれる座にある」 言葉尻は、若干だが、揺れていた。 事情を知らぬ他人に、その事実をうち明けるのは、これが最初だった。 嘘と疑われても詮無い、しかし冷徹な事実。 迷いを介入させないために、可能な限り簡潔に、直線的に伝えたつもりだったが衝撃とともに聞き手を打つのは、間違いない。 しかも…返事が、ない。おそるおそる、レナスを、仰ぎ見る… 「……?」 しかし、レナスは。相変わらず無表情で…しかも、首を傾げたままだった。 「ひめ…。師匠は、お姫様でもあるのですか。偉いですね」 あっけにとられ、沈黙。 同時に、少しでも迷い、動揺した自分が、何か笑えるほど馬鹿らしくなってくる。 この娘の前では、底面など気にすることもない。ルシュナは息を付くと、 「ああ、もうよい…お主には、この手の話は無駄なようじゃ…」 「……でも、師匠は、お姫様なのでしょう?それが、どうして…」 「それが、な」 目を軽く閉じ、腕を組み。ゆっくりと、テラスへの出口の横に、四角くくりぬかれた窓へ歩み寄る。 「この窓から、私は、下を見ておった。 毎日毎日退屈な日々じゃった。習い事やしきたりに縛られ、時を過ごしておった。 最初の頃は、姫という身分に生まれた自分の定めと自制していた。同時に幸運であることも自覚していた。 食うことにも難儀しておる者がおるなど、言うまでもないからの。 じゃが、ふと、むなしくなる瞬間というものが、ある。そんなとき、私は、この窓を見た。 町の様子を眺め続けて…そこで、喜々として商売に励む商人たちを見て育った。それで、いつからかの…はっきりとは覚えておらぬが、 そやつらが、たまらなく…羨ましくなったのは。昼間、見たとおり、商売とは決して楽なものではない。むしろ苦しい部類に入るじゃろ。 しかし、私には違った。奴らは、紛れもなく生きておった。例えそれが生活の糧を得るためにやむを得ないものだったとしても…輝いておったわ。 ろくに汗も流したことのなかった私は、その労働に、むしろあこがれを抱いた」 蕩々と語るルシュナの表情からは、その鮮烈な印象が容易に想像できた。 「素直に…してみたいと思った。同じ事を。それ以上のことを。 それに、条件は重なるものでな。この国では、妙な風習があっての…王族の女は、成人するまで、その素顔を誰にもさらしてはならぬという。 親兄弟はもちろん、国民の端々に至るまで…。何故かは聞くな。習った覚えはあるが、とうに忘れたわ」 自嘲気味に、皮肉を込めて、ルシュナはつぶやいた。 「ま、とにかく、私の顔は誰も知らぬ。商売が、できるわけじゃ。 しかし、成人してしまったら、顔を見せねばならぬ…そうなれば、二度と商売などかなわぬであろ。 店頭に立つことはおろか、仕入れにも、競り市にも参加できぬ…ああ、考えるだけで恐ろしいわ」 多少芝居がかった動作で頭を抱える。 「まあ…しょせんは子供の幼い抵抗よ。いずれはそうなる。必ずな。しかし気付けば、身体が動いていた…夢中で人間をかき集めた。 商売ができる土壌と環境を作った。そうしてできたのが、あの一座なのじゃ」 言葉を閉じると、ルシュナは、薄暗い部屋の中央に備えられたランプに灯をともす。 淡い光が、室内に満ち…レナスは、少し、後ずさるような動きを見せた。 にわかに警戒の色が混じった視線を受けるのは…ルシュナと全く同じ髪色、髪型をした、人影であった。調度品のような椅子に腰掛け、微動だにしない。 「…ああ。それは、気にせんでいい」 ルシュナは、椅子に腰掛けていた人影に歩み寄ると…片手で、それを持ち上げた。 一瞬だけ目を見張るレナスだったが、すぐに気付く。それは、人ではない。 光と視界にさらされ、その正体はより明らかになる。布と糸で作られた、着飾った人形。 「よくできておるじゃろ。これは…私。この数年の間、私であり続けた、もう一人の私と言ったところじゃ。昼間、私が商売に出ている間、ここに座り、姫であり続ける…。 顔を見られずに済むなどと言う条件がなければ、とうの昔に廃棄されておるな…」 優しく、抱きかかえるように人形の肩と脚を持つと、そのままベッドへと歩み、静かに、寝かせた。 「人生で、はじめて自分自身でした買い物がこれ。〈王国連合〉の商人からじゃったな。…ああ、その場でついでに人生初の値切りも体験したのじゃった」 人形の、髪を撫でる。目鼻の輪郭こそ刻まれているものの、眼球や鼻、口と言った細部は省略されている。 愛玩用と言うよりはむしろ、服などの着付けのために用いられるような趣。 いつまでも、騙し通すことは難しい。 自ら分身を作り出したルシュナが、最もそのことを痛覚していた。 昼間、店を訪れた男たちも、あまりに人間離れした姫の様子を不審に思っての行動だったのだろう。隠れたのは、その恐怖心からだった。顔は、知られていないと言うのに…。 人形から離れ、ルシュナは、レナスの方に向き直った。 「…手短に言う。お主に、私の代わりをして欲しい」 「代わり…?」 「そうじゃ。もう、祭りの日まで時間がない…今から人を雇おうにも暇がない。かといって一座の誰かをこの役に回せば、商売が立ちゆかぬ。 そもそも、私の正体が露呈してしまう…。 …顔を見せずとも良いのだ!ただ、黙ってここにいてくれさえすればよい…他には、何も望まぬ。 だから、頼む…引き受けては、くれぬか」 そもそも代理など画策する時点で常識からは、かけなはれているが…仮にも、出会ったばかりの人間に依頼するにしては、少々度が過ぎる。 だがそれほどまでに…無茶な理論すら押し通すほどの切迫感が、ルシュナの瞳を満たしていた。 商売とは、砂漠の民の誇り。彼女の言葉を、誰より彼女自身が確信している。 もとより矛盾した、児戯と割り切るならば…ルシュナは、あえて愚道に入る決意があった。 固い信念をたたえたルシュナの両の目を、正面から見つめて。レナスは、言う。 「…ひとつ、教えてください。 どうして、それほど大事なことを、私に話してくれたのですか?」 想像していたより、はるかに小さな問いだった。 しかし、そこにこそ、最も重要な要素がある。ルシュナは、意を決したように、 「私は、な。なかば、あきらめておったのよ。自分で言うのもおかしいが、理論がなっとらん。行動の起因は、勝手な感情に過ぎず…王族の禁も破っておる。 前代未聞じゃ。一座を組織し、少しずつ名声を得て、今に至っても…疑念は、晴れぬままじゃった。 でも、な…そこにお主が現れた。よく分からぬが、砂に埋もれたお主を見つけた時、身体に衝撃が走ったのよ。お主は、砂漠で寝ておった…死をも恐れず、呑気に寝ておった。 世には、このような者がおるのかと、肝を抜かれたような気分じゃった…同時に、笑えてきた。人とは、このような無茶をしでかしてなお、死なぬものなのじゃなと。 砂の中で眠る事に比べれば…私の悩みなど、まだ小さい」 やがて、振り切ったように、ルシュナは、はにかむような笑みを浮かべた。 「どうせ、何もできぬまま歴史に没するくらいなら…私も、一度は、馬鹿をしてみようと、思った。 こんな私は…やはり、馬鹿かの」 「……」 全てを聞き終えても、レナスは無言のままだった。 くるり、ときびすを返し、ベッドに歩み寄り…人形の手を取り、言う。 「…綺麗な服」 唖然とするルシュナに、もう一言。 「師匠の、代わりをしたら…これを、着てもよいのですか?」 鼓膜が振動、神経が伝達、脳に通達。 理解した刹那…ルシュナは、首を、千切れんばかりに激しく縦に振りたくっていた。 「あ…ああッ!よい、よいぞ!好きなだけ着て良いぞ!そしていくらでも着せてやろう!こっちへ来よ、服はそれだけではないぞ!」 喜々として部屋を駆け抜け、隅の方に設えられた、人が暮らせるほどの大きさの箱に飛びつく。 手前に開く構造の扉があり、その奥から現れたのは…色とりどり、柄さまざまの、きらびやかな 衣服たちだった。誕生日や祭りの日が訪れるたびに増えていったそれらは、姫君に奉じられたものとして言うまでもなく豪奢で、例えようもなく可愛らしい。 〈教会〉の領内では目にかかるはずもない、芸術の域に達したそれらに…図らずも、レナスの瞳が輝いた。 「さあ着よ、いざ着よ…あと、いくつかの作法やしきたりもあるでの、全て覚えてもらうぞ。やはりお主を選んで正解であったわ!しっかり頼んだぞ!」 生返事でうなずくレナスの視界には、もはや、眼前に広がる衣服たちしか映っていなかった。 |