「…」
一瞬だけ、しかし鋭く走った頭痛に、彼女は、顔をわずかにゆがめた。
その後、ひとつだけ、深く息を付く。
「どうなされました…?枢機卿殿」
「いいえ、何でも…ありません。大司教様」
軽く首を振った拍子に、祭服の裾ほど間である長い髪が、緩く揺れた。
聖都の昼下がり。誰もが食事と祈りを済ませ、束の間の休息に身を預ける。
だがしかし、この二人の表情からは…それは、感じられない。
聖堂の中庭に張り出した、陽光注ぐテラス。枢機卿と大司教は、設えられた椅子に、深く腰掛けていた。
野鳥が何羽か、甲高い鳴き声を残して、『聖柩』の方角へと飛び去っていく。
それを、木の陰に隠れてしまうまで目で追って…枢機卿は、また、息を付く。
それを見て、大司教は、優しげだが、少し困ったような苦笑を浮かべた。
「レナスのことを、考えておいでですね」
「…はい」
少し恥ずかしげに眉を伏せ、枢機卿はうなずいた。
長く、豊かな髪。少しゆったりとした、ローブのような聖装束に身を包む、壮年の女性。
その瞳は、年を重ねた身体とは裏腹に、より透明さを増してゆく。
祈るほどに…澄む。〈教会〉にあり、およそ主を奉じるものとして、他のあらゆる者対する規範として名高い、聖女であった。
「〈特務部〉にも、できる限り足取りを追うようにと通達してはありますが…どこまでできるかは」
「案じても、届かぬ思いというものはあります。足の速い子でしたから…ずっとつかまえたままにしておくのは、難しいでしょうね。
でも、もし、あの子が…私たちはおろか、誰の目にも止まることのない、安穏で、平凡な生活に戻ることができるというなら、
それで、かまわないと…思いますの」
そう、できないように、教育したのは。自分たちなのだが。
言葉に嘘は、微塵も含まれてはいない。
むしろ、痛々しい真意のみが、棘のように突き出し、心を突く。
その、言い表せない心痛を、枢機卿はむしろ望んでいるような…大司教は、思わず言葉を失う。
「…失礼いたします」
声。突然発生した気配は、〈特務部〉間者からのものだった。定時報告の時間だ。
「ああ…ごくろう。彼女は…息災かね?」
「はい。聖務遂行に問題のある状況にはありません」
「いま、どこに?」
「遠く、南方。砂漠の国に」
「砂漠の国…あの、商いの国か。それはまた、妙な場所に迷い込んでしまったものだな…」
「は。この足取りから見ますに、〈魔導連合〉へ入る可能性が、高いかと」
「そうか…。もし、このまま〈魔導連合〉領内に入るようであっても、可能な限り追跡して欲しい。
必要な書類、資材などあればその都度報告してくれたまえ。対応する。いいかね?」
「御意に。では、後ほど」
聖印を切り、立ち去った間者の残した言葉を、大司教は、またも飛来した野鳥の鳴き声の裏に聞き返していた。
〈魔導連合〉…はるか、遠い国だ。あの子は、大丈夫だろうか?
確かに彼女は、強い。
そうなっていくほぼ全ての過程を、大司教はその自身の目で確かめてきた。
しかし、それでは、それだけでは。町中を、抜き身の刃を握りしめて歩くような、危うさが。
他を傷つけるだけなら、まだ、まだ…かまわないのだ。そのようにしか教えていないのだから。
しかし、それが原因で、彼女までも、傷つくことが、あったとしたら。
想像の域を出ず、それだけに歯止めもなく、大司教はまたも、大きく息を付く…
「楽しそうですね。商いの国なんて…」
その息が、逆流した。危うく息を詰まらせそうになりながら、大司教は、枢機卿を仰ぎ見た。
「あの子を待つ楽しみが、また増えましたわ。長い旅のあと…いったい、何をおみやげに持って返ってくるのかしら…?」
柔らかな笑み。
…強い人だ。大司教は、敬服したように、その、不相応に、言葉通りに楽しげな横顔を見つめた。
苦しみを、与えた事実があるのなら。
それと同じものを、いつまでも、抱きしめていよう。
笑顔と泣き顔は、表裏一体。どちらかを浮かべなければならないのなら、せめて…笑っていよう。
枢機卿の胸の内にあるものは、悲壮な覚悟であった。
だがそれは、待つ者にとって、当然背負うべきものであるのかも知れない。
主よ…未熟な私に、慈悲深き許しを。
大司教は、未だ笑みを絶やさず、静やかな風に髪を揺らす枢機卿に向け、小さく聖印を切った。

                         ◆

この街での、二度目の目覚めは、今まで体験したこともないほど、快適なものだった。
水のように身体を深く受け入れる、羽毛で満たされたベッド、シーツ。
純白の、雲のように柔らかいそれに、姫君…レナスは、身を委ねきっていた。
…気持ちいい。
体温で微かに暖まったベッドの中は、目覚めた直後の状況においてこれ以上ない、楽園である。
主の胸に抱かれた天使の表情で、レナスはまどろみの縁をさまよっていた。
開きかけた目が、そのまま、ゆっくりと、閉じる…
「…姫様、おはようございます。お目覚めの時間です」
…声。むくりと身を起こすと、半開きの寝ぼけ眼で、メイドを見やる。
その顔は、薄い純白のヴェールで覆われているため、メイドからその表情をうかがい知ることはできない。
起きているものかと思い、メイドは一歩踏み出す。
「お目覚めでございますか?」
返事はない。
のそりとした動きで、ベッドから降りる姫。
「……」
無言のまま…窓の方向に向き直ると、膝をつき、頭を垂れて…祈り始めた。
朝の礼拝である。聖都の中心、聖柩に眠るとされる主に向けて、昨日一日の無事を感謝し、今日一日の息災を祈る…
〈教会〉信徒にとっては、ごく当たり前の風景だが、未だ土着の精霊信仰の厚いこの地方において、その行いは奇異に映る。
ましてや、その国の姫君のそれとなれば……。
「あ、あの…姫様?」
「……」
反応はない。祈りが終わるまで、その身その心は、主の元にある。昨日、図らずもこれを怠ってしまった事もあり、
今日の祈りはそれへの懺悔の文言も含まれ、やや長めの時間を要した。
やがて、数種の文言と聖言を唱え終えたレナスは、音もなく立ち上がり、ようやく振り向く。
「おはようございます」
「あ…は、はい。おはようございます…」
言いよどむメイド。言いたいことは、いくつもあったが…それだけに、何から言えばいいのか、逆に分からなくなる。
しばし、姫の寝室を、朝鳥の鳴き声だけが満たした。
「……」
無言のメイドに、レナスはしばし疑問を含んだ視線を送っていたが…それにも飽きたのか、きびすを返した。
その先には…ベッドが。
「…ああっ姫様!寝てはいけません!もうお目覚めの時間ですぅ!」
まだわずかに温もりの残るベッドにレナスが顔を沈めるのと、メイドがあわてて駆け寄るのとは、ほぼ同時のことだった。

次頁