「おはよう、ルシュナ」
声をかけられ…それが、自分へのものだと気付くのに、数秒を費やした。
きちんと、声のした方向に身体ごと向き直り、一礼。
「おはようございます」
丁寧だった。礼儀の整った、朝の挨拶と言えるだろう。
しかし…それが、朝食の席に着いている、親子の間で交わされたものだとしたら。
「……」
少し気まずそうに、姫から視線を外す、壮年の男。少々白髪が交じり始めているようだが、元来銀髪のためか目立ってはいない。
首元に輝く、三日月の形をした黄金の装飾具は、この国の正当なる統治者…王位を持つもののみがその身に飾ることを許された、支配の紋章だった。
「最近…お前の様子がおかしいと、聞いておってな。心配してしたのだが…」
「…あなた」
どこか遠回しな表現に終始する王を押しのけ、その横に座していた王妃が、ほんの少しだが身を乗り出した。
王と同じく…おそらく王族直系の遺伝なのだろう、豊かな銀髪。それを頭の上でまとめ、きらびやかな装飾の施されたティアラを頂いている。
普段であれば慈愛の笑みを絶やさぬその表情であるが、今は、やや厳しく苦い…詰問官の顔で、問いを発した。
「ルシュナ。率直に聞きます。まさか、わたくしたちに無断で…街に、降りたりはしていませんね?」
核心を突いた言葉だった。
レナスのような突飛な行動は無いとはいえ、今まで姫の代わりは、人形がつとめていたのだ。不審に思われている…ルシュナの予想は、やはり、悪い形で的を射ていた。
しかし、レナスは。
「…ご存じだったのですね」
とまどいもしなければ…否定も、しなかった。
「私は、代わりをしているだけです。本当の姫様は今頃、街で商いをしていると思います」
レナスは、嘘を知らなかった。
聖典をひもといても、そのあまねく全ての文言の中に、嘘はない。
ただそれだけを信念とする彼女には、他を偽るという概念そのものが欠落しているのだ。
ためらいなく言い放ったのは、紛れもない真実…恐らくこの場で、最も口にしてはならない事実。
王や王妃はもちろん、給仕のメイド、執事までもが、一瞬だけ、凍り付く。
…その最中も、レナスの食事の手は休まらなかったが。
やがて、凍河のごとき沈黙は、王の乾いた笑い声によって破られた。
「…は、はっはっは!何を言い出すのかと思えば…それは、おとぎ話であろう?太古、我が国の基礎を築いたとされる、気高き商い姫ルシュナ。昼な昼な城を抜け出し、財を成して、戦乱で傷ついた街を再興する、と。…まあ、そのような気才を持って欲しいと、同じ名を付けたのは、他ならぬこのわしじゃがな」
「そう、このごろ少し無口だと心配していたのだけれど…ご本を読んでいただけなのですね?
ああ、母上は安心しました」
背を反り、磊落な笑い声を上げる王。
胸をなで下ろし、再び柔和な笑顔を取り戻す王妃。
…納得、してくれたようだ。良かった。
夫妻の笑い声がこだまする中、レナスは黙々と手と口を動かし続けていた。


食事のあとは、朝の湯浴みが待っていた。
もうもうとした湯気で満たされた、広い浴室内。
脱衣所で、衣服はおろか顔を覆っていたヴェールさえ取り払われてしまったレナスは、かわりに
白い布一枚を身体に巻き付けて、人間が自由に泳ぎ回れるほどの広さと深さの、湯で満たされ浴槽の縁に腰掛けていた。
「姫様。失礼いたします」
近づいてきたのは、レナスとほとんど同じ格好をしたメイドだった。
唯一違うのは、今までレナスが付けていたようなヴェールが、今はメイドの顔を覆っていると言うこと。
顔を見せてはならない。見てはならない。
掟は厳格…特に身の回りの世話をも担う者ともなれば、その徹底ぶりは歴史すら感じさせる。
無言のままのレナスの背後に寄ると、浴槽から桶で湯をくみ、断った後に、ゆっくりと、レナスの頭に向け、桶を傾けていく。
つややかで伸びやかな銀髪が水分を含み、メイドの手にしなだれかかった。
その、輝く直線を、見定めるように。メイドはその動作を何回か繰り返した。
やがて、頭皮にまで湯が浸透したかと思わせる頃、メイドは、口を開いた。
「あなた…姫様では、ありませんね?」
「はい」
思いも寄らぬ即答に、メイドは、驚きを封じられてしまった。代わりに、微笑する。
「…だと、思いました。私は、ルシュナ様が赤子の時からお御髪のお世話をしていますから。
枝毛の一本だって見逃さないのに…色が同じでも、髪質が違われては、気付かずにはいられません」
「………」
メイドの、髪を洗う手は、止まらない。
普段通り、姫の御髪を、優しくいたわるように。
本物のそれでは、ないとしても。
「街での姫様は、いかがですか?」
「…商いをしています。大きな声で、たくさんの人たちと」
「そうですか…よかった。なんだか、楽しそうですね」
くすり、と、笑む声が聞こえた。同時に、髪を洗う手も止む。
湯を桶にくみ、そこに布を浸しながら、
「王様も、王妃様も…とうに、気付いておいでですよ。勘ぐるようなお言葉も、あなたを試そうとなさってのこと…気分を害されていたら、僭越ですけど私が成り代わってお詫びしますね。
でも、まさか否定もしないなんて…さすがに先ほどは、肝を冷やされたようですけど。
…どうして、成人するまで顔を見せないなどというしきたりがあると思います?…その間に、裏で身を立てるくらいのことはしてみせろと言うことです。ひと癖も、ふた癖もある商人を統べなければならない王室のものとして、自発的に試練を背負わねばならぬと、王も仰せで、その先代の王も、そのまた先代の王も、そうお伝えなさっていたそうです。特にルシュナ様は婦女子、お一人子でいらっしゃるから…でもこれで、ようやく、名実ともに成人としてお迎えできます」
「…成人?」
メイドは、振り返ろうとしたレナスの頭を優しく押さえた。
「動かないでください、髪が乱れますから…。
姫様は、今年成人なさるの。商売祭の一番最後に、その祝儀が行われて…はじめて、全ての人にその顔を見せる。王ご夫妻も、とても楽しみにしておいでです…今の状況だと、どうなるかは
分かりませんけど、親心とはそういうものなのでしょうね」
「…そうだったのですか」
「ええ。…あ、今言ったこと、姫様には内緒にしておいてくださいね?双方…秘密は、共有してこそ。ですよ」
そこまで言い、桶に一杯の湯でレナスの髪の泡を洗い流す。
そのあと、目を閉じていたレナスの顔に、静かに、濡らしておいた布を当て、代わりに新たな乾いた布を取り出し、頭に巻いた。
「でも、不思議ですね。私には、姫様が、あなたに代わりを頼んだこと…おかしくは、思えないんです。違和感が無いというか…あなたもまた、ここにいて当然の人のように思えて…もしかして、あなたもどこかのお国のお姫様なのかしら…?」
濡れた布を、顔から外す。ぷは、と息を付くレナスの首筋を拭きながら、
「とにかく、そういうことですから…このお城にいる間は、あなたがルシュナ様です。ですから、姫として恥ずかしくない立ち振る舞いをお願いしますね?」
「はい。努力します」
「あ…ダメです。家臣に敬語など使っては。いつもの姫様のようなお言葉で」
言われ、レナスはしばらく思案する。師匠の言葉。つぶさに思い返し、精一杯真似てみた。
「はい…じゃ」
…沈黙。
「わかりました…じゃのう」
再び、沈黙。
メイドの額に流れたひとすじの汗は、湯気に当てられたものだけとは、言えないようである。
「…なんというか、あまり、しゃべらない方が、良さそうですね」
宣告され、レナスは微かにしゅんとした面もちで、つぶやいた。
「申し訳、ありません…じゃ」


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