「…どういうことだ。姫が…現れただと?!」
激高した声は、当然の道理を、これ以上ない矛盾であるかのように糾弾していた。
まだ年若い青年。比較的整った顔立ちではあるが、今その表情は、渦巻くほどの怒りのせいで
見る影もない。腰のあたりで極端にふくらんだシルエットの衣服は、砂漠での生活には全く適さないと言っていいだろう…まるで〈王国連合〉の貴族のような出で立ちだ。
…もしくは本人も、そのつもりであるかも知れなかった。
「は、ははっ。未確認の情報ですが、一応、お耳に入れていただきたく…」
平伏しながら返答したのは、商人風の壮年の男だった。今は頭を下げているため誰にも届くことはないが…その視線は、冷たい切れ味を帯びている。もしそれが刃となったなら、今自身が二の手を付いている地面に、深く深く食い込んでいることだろう。
「貴様の話は、偽りだったと言うことか?城下の商人に身をやつしていると進言してきたのは、他ならぬ貴様ではないか…?!」
「…返す言葉もございません」
高圧的な言葉に、商人風の男は、ただ平身低頭し、耐えるしかなかった。
……かつてこの砂漠を席巻した、争いの砂嵐。
その発端も終結も、今となっては定かではないが、最後に砂漠を平定した部族がうち立てた権力が、現行の王権であり、この砂漠一帯を実効支配している。
戦乱に敗れた部族もまた、後に締結された和平協定によって、ある程度の地位を保証されてはいるものの、いまだ参政権を与えられるには至っていない。
この二人は、正にその側。中枢に近づけずにいる、外側の部族の者たちだった。
砂漠の王家は、かつて争いを繰り広げた相手に、簡単に心許すような為政者を一人として育ててはいない…時代が生み出した矛盾の溝に旧敵を押し込めたまま、封じているのだ。
だからこそ、そこから這い出ようとする者もまた、ある。
身を焦がす日照りが、砂を押し流す風が、止まないのと同様に。
憎むことを続ける人間は、後を絶たないのである。
「いかがいたしましょう、ジグルド様…」
「どうするも、なにも…これでは、何も始まらぬではないか…我が、華麗なる計画が!これも全て貴様の責任だぞ?!サーカーン!拾い上げてやった恩を、よもや忘れたとは言わせんぞ?!」
「め、滅相もございません…現在、間者の数を増やして調査を進めておりますゆえ、今しばらくお待ちを…」
ジグルドと呼ばれた青年は、危うく裏返りそうなほど甲高く、悲鳴にも似た叱責を、足下にひれ伏す商人…サーカーンの後頭部に投げつけ続けた。
その下での、サーカーンの苦渋の表情など、気付くはずもなく。
誰の静止もなければ、ジグルドの癇癪はとどまるところを知らない。覚悟を決めたサーカーン。
しかし、助け船は意外な方向から現れた。
「…お困りのようですね」
声は、テントの影から。サーカーンが振り向いた先の闇から、這い出るようにして現れたのは、軍服に身を包み…その両の目を、固く閉じた、紺色の髪の女性だった。
「これは…ベベルナ殿。今宵は、また一段と美しく…」
声音は、極めて落ち着いていた。今までの取り乱しようをなんと説明すればいいのか…サーカーンは、苦々しい感情を、寸手のところで封じ込めた。
しかし、ベベルナはそれを見抜いたか、わずかに顔をジグルドから逸らして、
「社交辞令もほどほどになされて?ここは舞踏場ではなくてよ」
一言で、ジグルドの軟弱な文言を一蹴し、ベベルナはサーカーンに向き直った。
「事情を、説明してくださいますか?」
顔を上げて立ち上がり、うなずくと、サーカーンは余すことなく、事細かに状況を説明した。
しばらく前から続く、姫の奇行。
そこから推測し、証拠までつかみかけた、姫が城を抜け出しているという疑惑。
しかし…。
言葉が止むと、ベベルナは、その右手を細い顎に当てた。
「…なるほど。それは、一大事ですわね。次第によっては、計画全体の再編が必要かも知れない」
腕を組み、しかし両の目はしっかりと閉じたまま、ベベルナは、
「姫の名を冠した、とある商店。そこに、本物の姫君がいる、と…あなた方は疑った。しかし、姫は現れ、その件の商店も未だ健在、と…笑えない冗談ね。確証は?」
「まだ、はっきりとは…。しかし、城に走らせた間者からの報告に寄れば、昨日までの姫の様子は
奇異の一言です。昼間じゅう、何もしゃべらず、動くことすらしないかと思えば、突然現れたりと…」
「その商店への調査は?」
「すでに、先日の昼間に。ですが、それらしき人影は発見できなかったようで…いくら顔が知れぬとはいえ、風体は偽れませんからな」
そこまで聞き、ベベルナは腕組みを解いた。
…食いついたか。
冷徹な策士の顔で、ちいさくつぶやく。
しかし二の句は継がず、ただ顔を上げ、言い放った。
「現状は把握できましたわ…けれど、うかつに動けば、それこそ計画倒れにもなりかねない。静観を推奨します。これは〈王国連合〉の意志と受け取って頂いて結構ですわ」
「馬鹿な!」
ジグルドが叫んだ。予想していた言葉だったが…ベベルナの眉が、ぴくりと動く。
「これは好機なのですぞ?!この汚れた国を浄化し、私の手による理想の施政を敷く!貴女にはそのためのご助力をお願いしたはずだが…?」
「忘れては、いません。ただ…この国が、欲しい。そのためなら私たちの力も借りる…そう申されたのは、あなたのはず。違くて?」
言いくるめられた形になり、ジグルドは、釈然としない表情のまま、それでも前髪をかき上げる程度の見栄は残したらしく、鼻を小さく鳴らして、
「…ふ、まあ、いい。私はただ信じましょう。貴女という砂漠に咲いた一輪の薔薇が、やがて私が歩む覇道を美しく彩り、その末に…」
文言を最後まで聞かず、ベベルナは、全く違った方向へと思索を巡らせ始めた。
あちらの計画はさておき…こちらの策は、順調だ。
……彼女は、とある密命を帯びて、数日前から、ここにいる。
あるひとつの報告が、その原因である。

『〈ヴァルキリー〉を、この砂漠一帯の地域でロスト。現在再検索中』

…しばらく、聞きたくない名前だった。
あの、森での事件。
いまだに、報告書すら作成できていないほどの、軍部にとっては大いなる衝撃だった。
その残り香すら消えぬこの時期。きな臭さをぬぐえない。
…それは、この砂漠にも、漂っている。
いる。間違いなく。〈ヴァルキリー〉は、砂漠に、未だ生きている。
姫の奇行の一件と、関わりがあるか否かは、この部族とは別に捜査を走らせているが、どちらにしろ、事実が発露されるのは時間の問題だろう。
彼女は、偽らない。小憎らしいことだが。
それに…いてもらわなくては、困るのだ。
「それでは、私は…別件にて、これで失礼いたしますわ。ごきげんよう」
言葉尻を引き連れるようにして、ベベルナはテントを出た。
砂漠を、しばらく歩む。微かに吹いた風が砂を巻き上げる。それがベベルナの軍靴に当たって、軽い音を立てた。
「……」
頃合いか。
懐から取り出したのは、黒い箱。距離を隔てた人間との会話機能を持っている。
口元に近づけ、息を吸い…
「こちら司令官。オペレーションを開始せよ。繰り返す、オペレーションを開始せよ…」

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