城の一室、光がこぼれる平和な昼間。
レナスは、顔を覆うヴェールも付けず、眼前のメイドの言葉を…ほとんど、聞き流していた。
「……と、いうわけで。姫様の代理をなさるのですから、テーブルマナーから舞踏会での礼儀まで…あらゆる作法を覚えていただきます。よろしいですね?」
「………」
「…もし?聞いていますか?もし?!」
返事はない。目前の銀髪の少女からは。
「………」
ただ、開け放たれたクローゼットの内部を、半ば夢に浮かされたような、しかし変わらぬ無表情で
見つめ続けている。
目に飛び込んでくる色彩は、どれもこれも…夢の中に登場するような。その中の人物たちが身につけ、舞い踊っているような…。レナスの視線は、もはや釘付けだった。
「お召しものの指導は、後ほどいたしますから…」
「………」
「お洋服は、逃げませんから!」
「………」
ふぅ、と、一息。
「分かりました、分かりました…まずは、お洋服のお着付けからお教えいたします。好きなものを
選んでください」
「………!!」
刹那。駆け出す子犬のように、クローゼットに飛び込むレナスの姿が、もう一つ息を付いた指導係のメイドの目に映った。
もぞもぞ、ごそごそ…かき混ぜ、ひっくり返し、引っ張り出す音が、しばしの間、部屋に響く。
やがて、両腕、いや、全身に、きらびやかな衣装を抱えて、レナスは戻ってきた。
だがふとした拍子に体勢を崩し、小さく床にしりもちを付いてしまった。
「ああっ、大丈夫ですか?もう…そんなに持つからです」
眉をつり下げながら駆け寄り、満載された衣服を、レナスの細い両腕から持ち去り、手近なテーブルにどさりと置いて。
「さて…。これだけお衣装があっても、着られるのは一着だけです。だから選んでくださいと言ったのに」
「……」
言われ、レナスは、かすかに、眉間にしわを寄せた。
「……みんな、一緒がいいです」
「駄目です。無理です。どこにそんな着ぶくれた姫君がいますか?……そこで自分を指ささない!いいですか?姫君など、高貴なご身分の方がその身にまとわれるお衣装というものは、ただ
乱散したパーツを並べ立てたものではないのです。フォルムはシックに、シルエットはシャープに…そして総合的にエレガントに。薔薇のたたずまいと白百合の香りを同居させうるセンスと勘が要求され、だから…と、そこ!勝手に着ない!ああっ、しわを直すのがどれだけ大変か、知っての狼藉ですかっ?!」
すでに、衣装のひとつに頭から突っ込んで行っていたレナスを慌てて静止し、メイドは涙声すら絞り出して訴えた。
「あ、あなたは!私の、私たち着付け係の誇りを、否定しますか?!選ばない・着させない・しわを付ける…やってはいけない三条項を、そんなしたり顔で満たしますか?!」
ひとしきりまくし立て、さしものレナスも、だいたい何が言いたいのかを察したようだ。
聖印を切り、
「申し訳ありません」
「わ…分かってくれれば、よいのです」
双方とも我に返り、数瞬の沈黙。
「…で、では、ひとまず、髪を整えましょう…何か不満があれば、言ってくださいね?」
うなずくレナスの頭を小さく押さえ、メイドは作業に没頭し始めた。
「綺麗な髪…んー、この照り具合、長さだと…やっぱりまとめ方は…」
その長く豊かな銀髪を、特殊な金具と流麗な手さばきでまとめ上げていく。伊達に誇りを語るわけではないようだ。
数度の櫛の動きだけで、腰までの銀髪をまとめ上げてしまう。
……期せずして、思い出す。
こうして、誰かに髪を結ってもらうのは…聖都にいたとき以来だ。
鍛錬や沐浴のあと…あのひとは、このように…優しく、手際よく…。
ちょうどこの部屋のように、日の光が差し込む、聖堂の一室で。
『レナス。綺麗な髪ね…』
そう言ってもらえるのが…心地よかった。はっきりとは言えないが、それに似た感情だった。
あのひと…
お姉さま…。
「……よし!できましたよ…」
は。と、目が開いた瞬間。
眼前。そこに、ルシュナがいた。
「…師匠…?」
まじまじと見る…いや、これは、自分の顔。
「…どうですか?何か、ご指摘ご不満などあります?」
目の前にあるのが、レナスの身長と同じくらいの姿見の鏡だということに、彼女はしばしの間、気付かなかった。
「これ、私…でも…お姫様。お姫様みたいです」
「そうでしょうそうでしょう…!素材が良かったのも幸いしましたけどね」
メイドの誇らしげな言葉もそこそこに聞き流し、レナスは、鏡に見入っていた。
いつのまにかドレスまで着付けられている…。
数日前、クローゼットに眠っていたあの、ドレス。
普通の少女であれば、飛び回ってはしゃぎまわるほどの衝動が、レナスの脳内を駆けめぐっては消えていく…だがそれがどんな種類の感情なのか、またどう処理すればよいのか分からず、ただ目を丸くしている。
そうして、鏡にかじりつくこと数分。
不意に、ドアが開く。
入ってきた、二人の人物を見るなり、メイドは機敏な動作で頭を下げた。
「これは…王様、王妃様!」
「…すまんな。面倒をかける」
「とんでもございません」
一礼するメイドに改めて礼を言うと、王は、王妃を伴って、レナスの側に歩み寄った。
「…王様」
「そうではない。今は、お前の父だ」
「…はい。お父様」
「うむ。しかし…見事じゃの。なんというか、こう…しばらく見なかった、清楚な姫の典型を拝んだ心持ちじゃ」
「あなた。それでは、ルシュナがまるで姫君ではないように聞こえますわ?」
口元に手を添えながらの含み笑いで王妃からの指摘を受け、王はすこし狼狽したように、
「そ、そういう意味ではなくて、じゃな…ほれ、これもまた、よい。そういうことじゃよ…。まあ、こう思うにも、思うことあってじゃ」
レナスに方に向き直り、王は、遠い目で口を開いた。
ルシュナはな…昔から、ああでな。まぁ、姫だからと言うて、花のようにだんまりに育たれても、それはそれで、親として寂しい…しかし、馬のように走り回られても、また心配なのじゃよ。
若い頃は、信じられんかった。子をもうけるなど…。王室の者として生まれた以上避けられぬが…未熟な時分じゃ、受け入れられぬことには、はっきりとした拒絶を示してしまう。そうやって、幾度も先代の王を困らせた…。じゃがな…いざこの手に、生まれたばかりのルシュナを抱いた瞬間…わしは己を疑ったよ。気恥ずかしいほどに、愛しいと思った。この子のためならば、例えどのような痛みにも苦しみにも…ものの数ではない。だからこそ、この子の邪魔を、決してしてはならぬと…思った。単純なものでな」
「…あら。ずいぶんと遅いご自覚ですね?わたくしは、お腹の中にいたときから、そう思っていましてよ?」
「そ、そうか?いやはや。男とは鈍感なものなのじゃよ」
高等日に手をやり、照れ笑いを浮かべる王…しかしその表情は、不意の、ドアをノックする音により、瞬時にかき消えた。
ノックの後に入ってきた執事は、うやうやしく一礼をすると、
「皆々様、そろそろ…お時間にござります。馬車の用意、整いましてございます」
「うむ。分かった…」
きびすを返し、入り口に向かう王。
付いていこうとして、慣れないドレスの裾を踏み、レナスは、側にいた王妃に向かって倒れ込んでしまった。
柔らかく受け止め…ゆっくりと立たせて。
「大丈夫かしら?」
「はい。申し訳…ありませんでした」
「いいのよ…ふふ。気を付けて、行きましょうか。ルシュナ」
「…はい。お母様」
うなずき、数歩。
唐突に、レナスは立ち止まる。
「…どこへ、行くのですか?」
問いに、くすり、と、王妃は笑みを漏らした。
「ええ…ちょっと。娘の晴れの舞台の始まりを、ね」


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