「…ただいま、戻りました。仰せの通り、デカブツのカンオケを埋めてきましたよ」
その部屋に入ってきたのは、あの黒服の男だった。
天井が高い。名のある彫刻家たちの手によって彫り抜かれた建築芸術の粋がそこに集められていた。
主が、まわりを取り巻く幾人もの天使たちと、微笑みながら、歌いながら、世界を創世していったとされる、『はじまりの絵』。その真下で、白く厚い絨毯の上に立ち、ゆっくりと振り向いたのは、ひとりの少女だった。
「おかえり、ロゼクト…彼女が、聖都を出たようだね。〈アルキュゴス〉の気配が消えたよ」
「はあ、まあ。その通りです。お目覚めの第一報がめでたくない奴ばっかりで、申し訳ないっすけど」
恐縮した風な、黒服の男…ロゼクトの言葉に、少女は眠そうな顔ながら、ひとつ微笑みを浮かべた。
この、少女は。
一度目を閉じたら、数日は目覚めない。
少女は、一日中…数日中…時にはひとつの季節すら、聖柩と呼ばれるこの白い宮殿で過ごす。
今は簡素な、純白の司祭服をまとっているが、普段ならば…祭壇にのぼる時ならば、幾重にも身体を覆う聖装束を着付けているはず。抜けるように白い肌、光の当たり方によっては銀色に見える、色素の抜けた長く白い髪。
一般の民草では、年の初めと、終わりと…主の生誕日とされる春の豊饒祭の日しか、その姿を目にすることさえできない。
神の言葉の代弁者。主に最も近い存在。
教皇――少女は、そう呼ばれる。
「いいよ。仕方ない。彼女を正面から止めようとして、この程度の損害で済んだんだ。むしろ、得をしたと考えているよ」
「はあ…。しかし、教皇サマも人使い荒いっすねぇ。俺の本職は使徒なのに…司祭のまねごとまでやらせるんだもんなあ」
「使徒には、その権限もある。それに、彼を弔うのは、君の役目と思ってね」
「…それって、遠回しなお叱りの言葉っすか?」
「好きに解釈していいよ」
「はい、了解…以後、軽々しい行動は慎みますよ。でもま…実際には死んでないっすから」
「そうだったね。彼の様子は、どうかな」
「問題なし…っすね。容態は平常通り。回収した時から、良くも悪くもなってないです」
彼らの言葉は、正式に発表された情報とは異なっており…隠された真実に、符合していた。
あの事件には…たった一人だけ、生存者がいる。
建造物の大半と、数えるのも億劫になるほどの騎士たちを焼き尽くした炎が収まった後、騎士団の支配権を握る〈急進派〉は調査団を組織し、惨憺たる状況の焼け跡に入った。大勢を占めた悲観論を裏打ちするように、敷地内は死の匂いで満ちていた。周囲を数区画にわたって閉鎖せざるを得ないほどの惨事。自力で脱出した者以外で、生存者など…誰もが思った、調査最終日だった。
今まで、瓦礫と煙に隠れていた、中庭の真ん中に、甲冑で武装したまま、倒れ伏していた男がいたのだ。あの火災の渦中にあったにもかかわらず、目立った外傷はほとんど無かった。
希望の灯がともった。かに見えた。しかし、男は、ある意味では…すでに、事切れていた。
目も、口も開いたまま、四肢は完璧に弛緩し、どのような呼びかけにも答えようとはしない。
腹部と、側頭部にひどい打撲の跡が見受けられたが、命に別状あるほどの損傷ではない。
はずだった。しかし、その男は、今なお目覚めていない。
回復の兆しも、死の予感もない。後も先もない、平行線をたどる生命。
ただ、常人の半分ほどの早さで呼吸し、拍動する。ただそれだけの、肉塊と化しているのだ。
「〈ラグナロク〉で、魂を斬り裂かれた証拠だ。身体は生きたまま、心が滅びる」
「まあいずれにしろ、再起不能ってことですな。公式にはイったってことになってるし」
「まだ分からないよ。蘇生の方法は、今探らせている」
「お優しいことで。でも、一回イっちまったらしばらく復活しないってのが常ですぜ。それを待つより…もっと強くてカワイイ手駒、欲しくないッスか?」
相変わらず、楽しそうな声音。
「…彼女を、追いたいのかい?」
「そりゃ、ま。あんだけの強さ見せつけられちゃ、男としては黙ってられないっすね」
「…駄目だよ」
笑顔で、少女は言い放った。
「君は、しばらく聖都で謹慎。後任が見つかるまで、聖堂騎士団の臨時団長を命じます」
「げえっ…マジ、っすか?」
「まじ、だよ」
またも、笑顔。
有無を言わせない…という種類のものではない。ただ、何を言っても、結局は、従ってしまう。
どこかで見たような無表情を、そのまま笑顔にすり替えたような、不思議な説得力に、ロゼクトはしぶしぶながら、首を縦に振っていた。
「ありがとう、ロゼクト。そう言ってくれると思って、すでに君専用の鎧甲を発注してあるんだ」
「は、はあ…恐縮です」
それでも、少し不服そうに顔をしかめ…いやいやながら、想像してみる。
青十字の刻まれた甲冑に身を包み。事あるごとに聖言を口にし。品行方正な、騎士たちの最大の規範となる自分の姿。
悪い冗談だ…。この大陸のどこかには、清潔にされすぎると死んでしまう生物がいるという噂があるが…彼には、その話が、真実に思えてならなかった。
「…うう、気色悪っ」
「そう言わないで。しっかり頼んだからね」
教皇の言葉は、発せられた時点ですでに決定事項。
反する意見など紡ぐだけ無駄…ロゼクトは、小さく肩を落とした。
図らずも大役を背負ってしまった、はるか遠くのとある男の心情を表すように、聖都を覆う、巨大な雨雲。
しかし、その原因となった少女は、その下には、いなかった。

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