遙かな晴天。
ただひたすら、川面のように青く広い平面が、やがて山の向こうに消えるまで続いている。
それを、感慨のない無表情で見上げているのは、聖装束を身にまとった、銀髪の少女だった。
幌馬車の荷台の一番後方に腰掛け、ときおり路面の小石をはねて揺れる車体に身を任せきっている。
その上方への視線を、少し下にずらせば、草と木の柵に仕切られた、蛇のようにうねる街道が見えただろう。
もとは軍道として整備され、かつては聖都から、はるか〈魔導連合〉領地内まで続いていたという。
小鳥のさえずり。獣の鳴き声。近くを川が流れているのか『釣れた釣れた』と甲高い声で騒ぐ子供の声。もうじき、目的地に着く。
「レナス?起きたかしら?」
馬車の前方、レナスの後方から飛んできた、優しげな声。振り返るとそこには、馬車の手綱を握った、妙齢の女性が、にこやかな笑顔をこちらに向けていた。結い上げた髪。首元に、ペンダントのようにかかっているのは着脱式の眼鏡だった。袖と裾の広がった、フリルの付いた服をまとっており、ほっそりとした右腕に巻き付いた、黄色の皮革製の腕章は、〈教会〉より認められた、教師職にある証である。
街道沿いにある集落や村、町を、円を描くようにして定期的に周回し立ち寄っては、〈教会〉の教えと、一般学問を教えてまわる。
他勢力との戦乱が集結してより今日まで〈教会〉が政策として実施している教育活動の一環を、この女性は担っているのだ。
「子供の声、聞こえたでしょう。村が近いわね…まだ日も高いし、着いたらすぐ、始めましょうか」
「はい。システィーナ先生」
静かな声音。それを聞くたびに、思い出す。
……数日前、システィーナは、奇妙な出会いを体験した。
いつものように街道をこの馬車で走っていた。上空にうっすらと発生し始めた雨雲は、細かな霧雨を降らせ始めていて、馬車の荷台にかけられた幌の屋根の部分を少しだけ湿らせている。
風の方向からして、いずれは聖都にも降り注ぐことになるだろう…何の気無しに、その方向を向いた時。彼女は、見つけた。
…とぼとぼと、たった一人で、防雨の備えもなく。鮮やかな銀髪も、純白の聖装束も、ただ濡れゆくがままに、〈魔導連合〉の方向…システィーナと同じ方向へと、歩んでくる、少女がいたのだ。
この近くに住居があるわけでもないようだが、その割に、あまりに軽装だ。手に何も荷物を持っていない。野盗にでも襲われたのだろうか…いや、放っておけば、遅からずその憂き目に遭うだろう。思い立った時、彼女はすで、馬の手綱を引いていた。
…驚くことに、その少女は、たった一本の短剣しか持ち合わせていなかった。路銀も、寝袋も…およそ旅に不可欠と思われるものを、何一つとして携帯していない。
そして…最も必要と思われる、知識すら。
レナスと名乗るその少女は、とにかく、何も知らなかった。
この大陸の社会情勢や地理関係に関して、全く知識がないわけではなかったが、その情報源は、すべて聖典からのものだった。清く、正しく、美しく。言葉を覚えたばかりのの幼児にも理解できるような語り口と内容でつづられたそれは、少なくとも、一人旅の頼りとするには値しなかった。
そんなレナスを思いやって、システィーナは、自分の運営するこの移動教室に助手という形で彼女を迎え入れ、多くのことを学びなさい、とだけ告げた。
それが、ここ数日のできごとだった。
やがて馬車は、村の入り口に到着する。人間二人分ほどの高さのある壁に囲まれた小さな集落で、街道と枝分かれした小さな支道の終着点にもなっている。
たったひとつの入り口である門を、守るようにして立っていた青年が、こちらに気付いたようだ。
目を細めてしばし考えた後、声を上げる。
「お…先生、システィーナ先生!おーい、みんな!先生がいらしたぞ!子供たちを集めてくれ!さ、先生、どうぞ!中へ!」
「はい。今、刈り入れの時期でしたよね…お邪魔ではありませんか?」
「とんでもねぇ。ウチのガキどもときたら、騒ぐのが仕事みたいなもんで…よろしくお願いします」
導かれるまま、村の広場に、馬車は止まる。
荷台から、黒板と椅子と、教科書を取り出し。
声をかけられ、集まってきた子供たちを迎えて。
青空教室の、始まりである。
「せんせー、こんにちは!」
「はい、こんにちは。みんな、しばらくぶりね。宿題は、きちんとやってあるかしら?」
システィーナの笑顔に、子供たちは、同じく満面の笑みと、力一杯の挙手で答えた。
「よしよし。みんないい子ね。さて、この前は気候学をやったのよね…じゃあ、今日は地理学をやります。それじゃみんな!黒板に注目!」
少々大袈裟な動作で黒板を叩くと、システィーナは、傍らにあった資料箱から一枚の地図を取り出し、張りつけた。
少し古ぼけ、埃に汚れたそれを指さし、声を上げる。
「はい、みんな、ここ、ここを見る!
今、この大陸には三つの勢力…そうね、わかりやすく言えば、三つの大きな国があるの。
この、北にあるのが〈教会〉。みんなの村も、この中にあるのよ。それから西へ広がるのが〈王国連盟〉、東に構えるのは〈魔導連合〉。もともとあった小さな国が、それぞれの文化的共通点に基づいて融合を果たして、今の形に落ち着いたということね」
流れるような説明。おそらく、何度となく教えてきたごくごく基本的な内容なのだろう。一方レナスは、子供たちの傍らに座り、隣と同じように、しきりに首を縦に動かしていた。
「では、どうしてその小国たちが結びつくことになったかというと…昔、この大陸で、大きな戦争があったからなの。それに関する資料はほとんど焼失してしまっていて、原因から経過、結果に関する詳しいことは分からないのだけど…争いは大きく、かつ、長い間続いたわ。その結果、疲弊した国同士がもたれ合うように合併していったというのが通説ね…」
語尾を少し伸ばしながら、システィーナは地図を黒板から引きはがし、代わりに、横に長い歴史年表を張りつけた。
「それで、やがて戦いは終わったのだけれど、三つの勢力に分かれた国々は、すぐには仲直りはできなかったの。みんなもそうよね?ケンカしてすぐに、ごめんなさいとは言いにくいわよね。それと同じように、今まで仲間だった国に、すぐにさよなら、と言うわけにも行かなかったの。それぞれどの国も、戦乱で疲れ切っていたから。いろんな理由があって、勢力図はすぐには塗り変わらなかった。それぞれに分かれ、くっついたままだった。これが、おのおのの勢力間の、文化的な断絶を生んだのね。
小国たちは、戦後の処理と、新たな国家…勢力として、大きなひとつの国の体をなすという作業を強いられたわ。他に目を向ける余裕がなかった。そして、ほとんどそのままの状態のまま、今に至っているというわけなの。昔は、別の勢力との接触の禁止、なんていう制度もあったわ。今はではなくなりつつあるけど、文化的な格差は未だに埋まってはいない。それぞれの勢力が独自にとげた文化的発展というものに関する知識がないの。だからたとえば、あの山の向こう…〈王国連合〉には、私たちの理解できないような技術があるらしいの。空を飛ぶ船とか、鉄の馬車とか…信じられる?」
「すごーい…」
「先生!〈まどーれんご〉には?!すごいのがあるの?!」
「もちろん、あるわ!〈魔導連合〉にも同じように、魔導という未知の術が存在するの。念じるだけで、物が動いたり、炎を起こしたり…便利だわ、きっと」
システィーナの口調が、熱を帯び始める。結論に近づいた学者の声で、彼女は言う。
「この世界には、まだまだ、みんなの知らない…いろんなモノが存在していると言うことを、この時間に覚えてね。未知のものに果てなく、汚れない好奇心を。それが学問の基本よ」
「はぁーい!」
勢いのいい返事は、そのまま外の世界への憧憬の強さでもある。好き勝手な『外の世界』についての議論を始めた子供たち。
そんな中、一人の少年が、レナスの元に来て、
「…おねぇちゃんも、なにか教えて。おねえちゃんも、先生なんでしょ?」
「私…私は、違うわ」
「でも、先生といっしょにいるんだもん。先生でしょ?」
子供の素直きわまる詰問に、レナスは言葉を探しあぐねていた。
そんな様子に、システィーナが助け船を出す。
「ちょうどいいわ。レナス。私は、馬たちの世話があるから…その間、この子たちをお願いできるかしら」
「でも、私は」
「平気よ。だいじょうぶ。そうね…あなたの一番得意なことを、教えてあげてくれない?」
「得意なこと…」
そう言われて…彼女の頭の中に、ひとつの分野が浮かんだ。これなら、得意だ。大丈夫。
「分かりました。やってみます」
「ありがとう。じゃ、お願いね」
笑顔でうなずき、歩み去ったシスティーナの背を見送ると、レナスはひとつ咳払い。
好奇心に爛々と輝いた目の子供たちに向かって、至って平静に、講義を開始した。
「…では、私からは…非力な子供にでも可能な、効率的な首の締め方を教えます」
「わーい!」
「いい?人間の首は、頸椎と神経、頸動脈に食道など、多くの管が集まっていて、意外なほど強固な構造をしているの。折ろうとするのは得策とは言えないわ。
だから、ここを、こう…ねじ切るように」
「けいどうみゃくー!」
「喉仏を押しつぶすときには、迷ってはだめ。少しでもポイントを外せば、突き出た骨に指をやられるの」
「やられるー!」
「暗殺とは一瞬。タイミングの勝負。スキを見せたほうが負け。戦いの時は、絶対に気を抜いてはだめよ」
「はーい!」
「では、実際にやってみましょう。全員で戦うの。生き残った一人だけが、一流の暗殺者になれるのよ」
レナスの号令一下、『一流の暗殺者』を決定する戦いが始まった。
…実際には、互いののど元をさすりあうだけのじゃれ合いに過ぎないのだが、レナスはそれを満足げな表情で見つめ、何度もうなずいていた。

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