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| 「止まれ」 その声に、レナスの足は止まった。 「…いいか。貴様には、質問と逃亡の権利はない。これより、一切の不審な行動を禁止する。要求は、ただひとつ。〈聖剣〉を、こちらに渡せ。これは命令だ。応じなければ、この子供は無論…村の人間の命まで、危険にさらすことになるぞ」 なおも続いている、危機。 …だが、レナスは、表情を崩さない。 いや。崩さないのではない…崩せない。 今までのことも、目の前の情景ですら…彼女にとっては、狼狽するほどのことでも、ない。 「お断りします。これは、誰にも渡してはならないと教えられました」 声音は、平静だった。言葉は、ただの報告だった。それ以上の、意味はなかった。 「何を…言っている?貴様に拒絶の権利はないと言ったはずだ」 そしてまた、返答はない。唐突に、地面に膝を突くと、胸の前で、小さく聖印を切る。 そのまま唱え始めたのは、聖典第十章第一項に記載された聖言。 …死にゆく者に捧げる、鎮魂詩だった。 その場にいる誰もが、動けない。 不条理な違和感。異様な沈黙。それらすべてが、彼らの手を、脚を、意識を、固く拘束していた。 序言、本言、結言。十二節に及ぶ詩を、よどみなく、流れるように…心を込めて、唱え続ける。 やがて、詩は終わる。ゆっくりと目を開け、レナスは、言った。 「詩は、終わりました」 音もなく立ち上がり、告げる。 「命は大事なものだと教わりました。けど…〈聖剣〉は渡せません。あなたがどうしても剣を引いてくださらないなら…悲しいけれど、仕方ありません」 無表情のまま、それでも眉を伏せて…レナスは、嘆いていた。 子供の目が、さらなる恐怖の色へと染まる。レナスの言葉の、その真意に、薄々ながら、気づきはじめたのだ。 嫌な予感…まさか…そんな… 「レ…ナス、お姉ちゃん……」 みるみる歪み始める子供の顔を見とがめたのか、レナスは、なおも変わらぬ声で。 「心配しないで。主はあなたの魂を受け入れてくださる…。安心して、召されてね」 誰もが…目を見開いた。 この状況で、人命の尊さなどを説ける立場にない隊長だったが、それでも、衝動を抑えるには多少の苦労を要した。 常識を超越した信条。それが信仰。理解できる次元では、なかった。 人質も、恫喝も、通用しない。 己を苦況に追い込む要素を、最初から排除している…無いものと見ている。 それより重視すべき、何かを持っている。 これが、〈教会〉の使徒か…。実によく、教育されている。 〈王国同盟〉じゅうを探しても、これほど高純度の兵隊には、滅多に出会えない。 捕まっている子供にだけ、隊長の歯噛みが聞こえたかも知れない。追い込んだはず。圧倒的に優位なはず。数においても、状況においても。 しかし…この、圧迫感は、何だというのだ。 踏みしめる地面が、突然砂になったら…誰もが杞憂と笑うだろうが、それと同じ次元の危機感が、兵士たちの第六感を痛いほどに刺激した。なにか、ある。理解しがたい、何かが…あの無表情の向こうに、ある。 「脅しなら…無駄だぞ」 最後通牒のつもりだった。相手にとっても…自分にとっても。 レナスは、懐から〈アルキュゴス〉を取り出し…言った。 「我は求める…血の赤、流れる刃。出でよ〈ラグナロク〉」 その情景は、まるで、演劇のようだった。 短剣から流れ出す赤い奔流が、やがて同じ色をした大剣を形作る。それを軽々と振り、構える。 今、この場の移り変わりを、最後まで記した台本があったとすれば…恐らく…レナスは、脅しなど 微塵も意識にない。 そして、手にした剣を振るう。 敵を倒す。 敵を倒す。 敵を倒す… …どんな名役者でも、脚本に逆らうことはできない。それは、命運と言ってもいい。 根拠はない。ただ…動かずには、いられなかった。 幕が開けば…動き出さない役者は、存在しないから。 「こ…このぉぉぉ!」 はじまりは、若い兵士だった。戦いの序曲は、いつも荒々しい。 ゆらり、と踏み出すレナス。 刹那の交錯。赤い何かが、素早く動いた。 己の身体に走った強い衝撃…兵士の意識と視界は、時間の流れから取り残されたように、ゆっくりと進行していく。 粘液質の異世界で、彼は、ひとつのことを発見した。 おかしいな…俺の腹から…剣が、生えてる。 兵士の身体は、〈ラグナロク〉に突き刺さったまま、宙に浮かされていた。傷口から流れ出る血は、そのまま輝く魂の結晶となり、大刃の内へと吸い込まれていく。飲み込まれていく。 「…綺麗な赤」 「あ…あ…ぁ…!!」 兵士の身体が、内側から収縮するように、縮んでいく。 拍動のリズムに合わせ…命が、消えていく。 全てを吸い尽くされたあと、人の形をした残骸は、何気なく振るわれた大刃から、乾燥した音を立てて抜け落ちた。 地面に叩きつけられた衝撃で、砂の塊のように、地面に散らばって…風に、流される。 「…嘘、だろう…」 部隊の内の誰かが、全員の意見を代弁した。 今の今まで生きてた人間が…瞬時に干涸らび、消し飛んだのだ。 だが、この極めて現実的な非現実は、彼らの意向などとは関係なく、進行している。それが、恐怖を呼ぶ。 …半信半疑だった。 任務を達成した後、笑うつもりだった。上層部の愚かしさを、自分たちの徒労を。 〈聖剣〉など、あるはずがない…上の老人たちは、ついに幻覚を見たか、と。 そのはずだった。そうなるはずだった。が。 〈聖剣〉は、実在した。それを振るう者もまた、存在した。 幻覚を見ているのが、もし自分たちだったとしたら…それはむしろ、幸福と言えるのだろう。 「教えてください。どうしてあなたは〈聖剣〉を奪おうとするのですか?」 「お…教える必要は、ない!さっさと渡せ!こいつがどうなってもいいのか?!」 「…」 答えなかった。ただ、その聖装束の裾が、少しだけ揺らめいて。 実体化したかと思うほどの剣圧が、正面から吹き付ける。 寸手のタイミングで、兵士は村人を突き飛ばし、逆方向に逃げていた。 その中心を、大刃が…容赦なく切り裂いていく。風圧が、わずかに露出した頭髪を揺らす。 …いま。確実に…斬るつもりだった。 兵士だけでなく、村人も。もろともに…迷い無く。 振り返った先に、少女はいる。表情に変わりはない。 …祈りは捧げた。身体は滅びても、魂は救われる。だから。 極めて簡潔な思考だった。それを…虚言でなく、忠実に履行していた。 「く…あぁっ!」 恐れのあまり闇雲に振り回した棍棒は、いつの間にか、彼の手首ごと消失していた。 だが驚く暇もない。次の瞬間には、すでに身体を斜めに割られている。両断された肉と肉の間を、〈ラグナロク〉から魂の残滓をなびかせ、レナスは駆け抜けた。 そして、そのすぐ前にいたもう一人の兵士に…問う。 「教えてください。どうして、私を襲うのですか?」 「来るな、こ、来ないでくれ…!!」 震える手で、弓矢を構える。〈王国連合〉の技術で改造を施されたそれは、弓を引くのも自動的で、一度に数本の矢を連射できる。 そばにいた兵士たちも同じように、迫り来るレナスに向けて、細い刃を次々に撃ち放った。 空気を裂き、やがて皮膚を裂こうかと飛来してくるそれを、レナスは…直前まで、凝視していた。 不思議だったのだ。 さっきの空飛ぶ箱といい、この弓矢といい…どうなっているのだろう。不思議。 もっと、詳しく知る必要がある。思った直後に、行動だった。 横にしていた〈ラグナロク〉を地面に突き立てるような勢いで前面に構え、そのまま、突進する。 大刃はそのまま、盾の役目を果たした。〈ラグナロク〉に阻まれ、甲高い金属音と散る火花。折れて砕けた矢をはるか後方に置き去り、レナスは射手のすぐ手元に、一瞬にして密着した。 「……」 弓矢のすぐそば、ほっそりと高いその鼻が接するかと言うところまで顔を近づけ、見る。 兵士は、間合いを詰められたら、そこで終わり。何もできない。 「う…わぁ!」 腰に差してあった短剣を引き抜き、構え…る以前に、刹那の間をおいて、盾は剣となる。 赤い残像が、数条のひらめきとなって、射手すべての身体を突き抜けていた。斬られた順に倒れ伏し、だらりと四肢を地面に投げ出す姿は、生ける屍そのもの…もはや、動かない。 「教えてください…どうして」 横から斬りかかってきた、兵士の剣と、首とを一太刀で薙ぎ払って。なおも、レナスは。 「どうして…ですか?」 答えはない。ただ、兵士も、村人も、誰も。完全に、凍り付いていた。 誰であろうと、どこにいようと…安全など、ない。問いに対する答えが、ない。 だから…なすすべが、ない。 レナスが、この一方的な殺戮を楽しんでなどいないことは、その無表情を見れば瞭然であった。 分からないことがある。問う。しかし、返ってくるのは答えではなく、悲鳴と刃。 そのどちらも、浴びるのは好ましくないと教えられた…からだが動く。そして敵は、動かなくなる。 その繰り返し。矛盾を指摘できる者はこの場になく…だから、救いもまた、なかった。 「た、助けて…!」 重圧に耐えきれなかった兵士が、戦場に背を向け、逃げ出した。無様で乱れた足音が、レナスの耳に届いた刹那… いや、それよりも早く。 「待って」 「ぐ…げぁあっ!」 神速の詰めから逃げる術はない。後ろから首根っこを掴まれ、そのまま、持ち上げられる。宙に浮いたつま先は、 いくら空を掻こうとも、身体を前に進めることはない。 「教えてください。どうして逃げるのですか?」 振り返れない。恐怖で。 答えられない。戦慄で。 ろくな言葉を紡げぬまま、時間切れは冷徹に訪れた。 他の誰のものでもない…己の肉と骨がひしゃげ、砕けゆく音を、これほど間近で聞いたのは、これが最初…そして、最後だった。 異様な方向へとうつろな視線を向けてしまった彼を、軽々と投げ捨てて。レナスは問う。 「教えてください。なぜ悲鳴を上げるのですか?」 目の前に、怪物がいた。 「ば…かな」 聖堂騎士団をたったひとりで壊滅し、 「まさか…」 〈王国連合〉最新鋭の戦闘艇を撃墜し、 「あり…えん」 最強と言っていいこの部隊を、いいように屠る。 〈教会〉の使徒?冗談を言われては困る。 この少女からこそ、濃密な戦闘機械の匂いが立ちこめていた。 「て…撤退だ!総員撤退!各個散逃して、集合地点で合流だ…!」 隊長としての…最後の号令は、敗走の合図だった。 子供の身体を放り出し、全速力でレナスの横を通過して、森の闇に隠れかけた瞬間…背中に、刺さった。鍛え抜かれたはずの肉体は、防刃効果のある戦闘服を簡単に貫通した〈ラグナロク〉の刃とともに、近くにあった樹木に激突し、縫いつけられた。 「げが…ぁ!」 正面から幹に激突し、肺からすべての空気が絞り出される。鼻が折れたか、鋭い痛みと血は止まらず、意識を失うこともできない。 朦朧かつ鮮明な視界に、聖装束が揺らめいた。 「ば…けもの、め…」 「教えてください。私から〈聖剣〉を奪って、どうするつもりなのですか?」 「さあ…な…。神様にでも祈って…聞いてみな…」 間をおかず、隊長の身体はすべての命を吸い尽くされて、干涸らびた。〈ラグナロク〉を引き抜いた拍子に散らばってしまった、かつて肉体であった乾いた色の粉末は、木の幹の部分に降り注いで、定着した。…これで、いい。 肉体は地に帰り、魂は主の元に帰る。〈教会〉の典範に沿った、弔いの法。 レナスは、すべての兵士を、彼女なりに…弔っていたのだ。 魂を切り裂き残滓をすするだけでなく、すべてを吸い込む。〈ラグナロク〉の能力の新たな発露だった。戦うたび、強くなる。 望むと望まざるとに関わらず…問いの答えから、ますます遠ざかるにもかかわらず。 聖印を切り、祈りを捧げる。そして、立ち上がる。 木々の奥へ、散り散りに遠ざかる足音は、なおもレナスの耳から、逃れられない。 そして、逃がさない。まだ、答えをもらっていない。 枝を踏み砕いた音すら追い越し、駆け抜け…また、問う。 「教えてください。なぜ…なにも…教えてくれないのですか?」 そしてまた、〈ラグナロク〉が魂を吸う、音無き音が、黒くそして赤く閉ざされた森に響き渡る。 …レナスの『質問』は、やがて、答える相手がいなくなるまで、続いた。 「どうして…どうして…?」 |
