第三話『ニーベルンゲン』

荒くはあるが頑丈な石畳。
少し背の高い家屋からゆるゆると伸びる白い煙。
声高に駆け回る子供達。
大きな通りと、そこに繋がる小さな通りの両側は、食料やら何やらを売る屋台がぽつぽつと点在し、各々の宣伝文句を軽快な口調で触れ回っていた。
ここは、街。
彼女が居た…〈聖都〉に、若干の違いはあるものの、似ていた。
靴底に響く、固い感触。
かすかな食物と、石けんのにおいが、その聖装束の少女の小さな鼻をひくひくと鳴らした。
すこし、風が吹いた。
涼やかな微風だ。日の光もやや優しく、目をしかめるほどではない。


砂漠を越え、険しい山脈を上り、頂上を過ぎた当たりで、周囲の様子が一変したのだ。
大気はかすかに湿り気をふくみ、柔らかい。そこかしこに青々とした緑が生い茂る。
あれほど貴重と言われていた水が、惜しげもなく陸を伝い、集落に、湖に、流れ込んでいる。
ここは……〈魔導連合〉。
緑と水豊かな、豊饒の土地であった。
山を下りきり、レナスはしばらく歩いた。
途中いくつかの集落に立ち寄った…というか、民家の前で突然眠りこけたりなど、いつもの旅の行程だった。
見慣れない聖装束の少女を、村人は最初好奇の目で見た。
山脈を越えた貿易も多少は発展していたが、風土の違いは否めず、聖装束など羽織っていると『神様などと言う不確かなモノを信じている変わり者』として見られることがほとんどなのだが、レナスはその種の視線を一切意に介しなかった。
彼女の向かう先にあるモノは一つ。
だからこそ、それ以外を懸念する必要はなかった。
だが…この、街の空気に触れた瞬間、その無表情が、かすかな好奇を覚えたようだった。
人の声、活気、しかし通りを行く猫の足音も聞こえそうな静謐さ。
街……彼女はこの感覚が、嫌いではなかった。
そんな少女を、街の人々も、歓待した……いや、できたはずであった。
すくなくとも……
その少女が。
下水道に通じる、道路に設置された鉄製のフタを開けて…
いきなり、通りの真ん中に姿を現したりしなければ。
「え…」
通りを行く人々の足が、一瞬だけ止まった。
一方レナスは、やはり気にした様子もなくフタを元の穴の位置に戻すと、すたすたと歩み始めた。
街の管理組織が、整備や点検のために下水道に出入りするのは珍しいことではないが…
聖装束姿の少女が、のそりと出てきて良い場所ではなかった。
「ちょ…おい。なんで、そんなところから女の子が…?」
「大丈夫かな?もしかして、どこかで下水に落ちたのか?」
何人かの人間が、遠巻きにレナスをみつめ、いぶかしげにささやきあう。
やがて一人の子供が、甲高い声でレナスに呼びかけようとしたところを、その母親に口を押さえられたところで……
「キャサリン、なにをしているの?」
その声に、レナスは、鋭く反応した。
「……お姉様」
「もう、ダメじゃないの。あれほど下水道なんかで遊んではいけないって言ったのに……。ほら、お家へ帰りましょう」
人なつこい笑顔。人垣の中から一歩進み出て、レナスに声をかけてきたのは、栗色の髪をした女性だった。
クリーム色のブラウスに、裾がわずかに広がった白色のスカート。赤く縁取りされたエプロンは若干、調味料や食材のかすなどで汚れていた。両手に抱えた、かご一杯のリンゴ一つ一つが、すぐ前の無表情を奇妙に丸く照らし返していた。
誰が見ても、人の良い、この町のどこかに住まう淑女と疑わないであろう。
「はい。気を付けます」
レナスは即答した。女性は笑顔のままひとつうなずくと、行くわよ、と促し、通りの奥に向けて歩み出した。レナスも、未だ背中に付着する好奇の視線を剥がそうともせず、続いていく。
通りを行き、三個目の路地を左に折れて。三叉路を直進し、小さな用水路を横に眺めながら、二人は無言で歩んでいく。やがて、細い、人のまばらな路地に面した家屋の前で女性は止まり、レナスに向き直りながら、無言のままドアを開ける。
疑いなく敷居をまたぐレナス。
女性も入出すると、……内側から二重に鍵をかけた。
屋内には、テーブルが一つ、椅子が二つ。
照明は窓から漏れる日光だけで、微細な埃が光の束に照らされて踊っていた。
奥の方には二回へと続く階段があったが、こことさして変わらない様子だろう。
レナスは、きびすを返し、女性の方に向き直る。
その視線を受けた女性は……地に膝を突き、頭を垂れていた。


次頁