第一話『ラグナロク』

…もし。
運命というものが、広く認知されているような意味で、実在するとしたら。
……もし。
運命というものが、その下に生まれた人間を、生涯にわたって束縛するとしたら。
………もし。
運命と、いうものが。
自分で、作るものでは、なかったとしたら。
「この子は…まさに、そうなのですね…主よ」
嵐の夜。雷鳴がこだまし、激しい風雨が招かれざる来客として、聖堂の窓を叩く。
銀の燭台の上で輝く数本の蝋燭に照らされるのは、まだ生まれたばかりの赤子を、その胸に深く抱いた女性の、沈痛な横顔だった。
「心配はいらないわ…。あなたは、神から、授かった子。それをお返しするだけなのですから」
自分に言い聞かせるような言葉。意味も、救いもない文言。口にするたび、心が冷えていく。
落ちる、重い沈黙。あまりに冷たい、事実という重力が、女性からあらゆる言葉を奪っていた。
言うべき言葉。告げるべき思い。この赤子に伝えたいことは、山ほどあるというのに。
静寂に包まれた聖堂で、赤子は、泣くでもなければ、笑うでもない。ただ、この先の自分の命運をすでに悟っているかのように、無表情に、暗い聖堂の天井を見上げていた。
そんなことはあり得ないと、分かってはいても…もしも、この子が、己の未来に気付き、絶望し、
冷め切った諦念に身を沈めているとしたら。
腕に抱いた赤子を、女性は、やつれた表情で見つめていた。
何度、この子を連れて、逃げようと思ったことか。しかし、それは、できなかった。
この子のように、重大な運命を背負っていたわけではない…
ただ、信仰という大樹のそばから離れられなくて。
…直接、日の光を浴びてしまうのが、恐くて…。
難しい言葉では語れないが、この子が悲しむとしたら、きっと、私のせいで。
この子が恨むとしたら、きっと、私のことで…。
視界が、にじむ。鼻の奥に鋭痛が走ったことに、女性は強い罪悪感を覚えた。涙が帯びる通俗的な謝罪の念は、おそらく、この子にとっては不快でしかない。たとえ、今、そうでなくとも、道理にかなわない情は、それに似たしこりを残す。
泣くことすら、できない。
自分に残された時間と選択肢のあまりの希少さに、女性は半ば絶望していた。
どうすることもできない時は、何もすることができない。当然の帰結によって、今この場を支配している沈黙は、ともすれば永遠に続くかと思うほどの濃密な闇の静寂だった。
しかし、その無音は、たやすく崩れ去る。聖堂の思い扉が、きしみを上げて、ゆっくりと開かれたのだ。扉を開き、入ってきたのは、頭の先からローブを被った、顔も知れぬ三人の来訪者であった。ひどく雨に濡れたその身を意にも介さず、湿った足音をたて、そのまま聖堂の中へと歩み入ってくる。
「…期、満ちれり」
「…機、熟せり」
「…時、来たり」
それは言葉ではなく、呪文だった。意志はあるが、感情はない。
歩みは止まることなく、そのまま、三人は、女性のすぐ手前まで来る。相変わらず顔も見えないが、彼らの全身をぬらす雨水のすえた匂いが、鋭利な感覚として切迫し、彼女の安易な現実逃避への道を閉ざす。
これは現実だ。事実だ。到来を確約された、運命の時だ。
逆らうことはできない。そして、逆らうことは、ない。
「…子を、こちらに」
最も、聞きたくなかった、言葉。だがそれは、やはり、呪文なのだ。返答は要求していない。
熱病患者に似た目をして、女性は、今の今まで、大事に抱えていた赤子を、震えた手つきで…
その三人に、手渡した。瞬時にして腕から失せた、重みと温もり…背筋を、恐怖に似た感情が貫いた。
「あ…ああっ…」
「生まれ出でし、運命の申し子」
「定められし、約束の申し子」
「求められし、生贄の申し子」
唱える。唱え続ける。そして、赤子を、それぞれの手で支え、高く、上方へと掲げる。
そこを狙ったように、聖堂のごく近くに、落雷があった。空気と鼓膜を裂くような爆音が、びりびりと肌を刺した。
だが、三人は、驚きも、揺らぎもせず。ただ、赤子を掲げ続ける。
窓の向こうには、白い爆炎のような稲光。まるで、電光が赤子を貫いているかのように見える。
幾度も、幾度も、光にさらされた赤子は、徐々に、その表情を消し…ついに、目を閉じた。
その様子を、フードの中に闇の向こうから確認した三人は、また、唱え始める。
「我ら、育てん」
「我ら、鍛えん」
「我ら…教えん」
同時につぶやくと、三人は、開いたままの扉に向けて、歩み出す。その、無機質な背中と…掲げられたままの、赤子の姿が、女性の目に入った。涙に歪んだ世界の向こうに、吸い込まれていく小さな体…瞬間、体が動いた。
言えなかった言葉が、ごく自然に、口をついて出る。
「きっと…きっと、忘れないで!主のもとにあっても!きっと、伝えて…!私の、私の娘はっ…!
世界一の幸せを手にしたと…!」
冷めた理性は吹き飛び、代わりに、暴発した母性のみが、意味なき言葉を紡ぎ続ける。
だが、すべてが遅すぎた。時勢を逃してやってきたこの感情は、我が子との、引き替え。
何をしても、どう思っても、無駄。もう、無駄。すべてが、無駄。
あらゆる感情が罪悪に思えた。だが、一言、あと一言だけ、主は彼女に言葉を許した。
「お願い…お願い!きっと、きっと……あなたに、幸せが訪れますように…!」
絶え絶えの声にも、三人の歩みは、止まらない。
赤子も、泣き声ひとつ立てない。
そして、聖堂の扉が、静かに閉ざされて……
無機質に響く雨音と雷鳴は、女性の嗚咽を覆い隠すように、ますます強まっていった。

                       ◆

………………十六年後。

ある晴れた、午後。
いたって平凡で、きわめて平和なその日、聖都の中心に位置する大教会は、珍しくその門戸を閉ざしていた。
ミサや礼拝を目的に集まった民衆の物珍しげな視線を一身に受けるのは、『大司教様の体調が思わしくないため、
今日の聖務は中止となりました』と記された立て看板であった。
…しかし。
体調不良のため床に伏せっているはずの大司教は、背後の荘厳なステンドグラスから注ぐあふれるほどの日光を受けて、立っていた。静まりかえった聖堂の、司教のみが立つことを許された、神を模した塑像の前の礼拝台に、いつもと同じ、いや、いつもならば身につけぬ聖装束を着込んで。その足下には、一人の、片方の膝をついて頭を垂れる、少女がいる。
「面を上げなさい、レナス」
「…はい」
レナスと呼ばれたその少女は、言われたとおりに顔を上げた。
司教を見上げるその表情は、どこか無機的で、それでいて無表情で、できの悪い人形のそれを彷彿とさせた。
しかし彼女の欠点はそれだけといえばそれまでで、腰ほどまである銀色の髪も、整いすぎるほどに整った顔立ちも、絶妙な曲線美を描く体も、それを包む青く縁取られた純白の聖装束も、設えられた
ように、美しい。
まるで、司教の背後にある神の塑像の生き写しのような…冷たい美貌だった。
「今日で、お前は何歳になりましたか」
「十と、六歳です。記憶が正しければ」
「その年齢が、何を意味するか、わかりますね」
「はい」
どこかぎこちない会話。下手な演劇のような、血の通わぬ言葉のやりとり。
だがそれは、この場にあっては合理…そもそも、この会話自体が儀式なのである。
民衆も、それが生む騒がしさも…俗世のすべてを閉め出したこの空間で行われる、儀式。
これは、レナスが生まれた、その日から…開演を約束された劇と言っても、過言ではない。
「…剣を」
大司教の言葉に促され、その横に控えていた、教会の紋章…青の十字架が刻まれたローブをまとい、顔を目深なフードで隠した男が、一振りの剣を取り出した。ずいぶんと小振りな、短剣と呼んでもいいそれを受け取ると、
大司教は、光にかざすようにして上に掲げた。
「我ら教会が、創始以来長き歴史にわたって守り通してきた、最後の聖剣…〈アルキュゴス〉。
これを、お前に託します」
「はい」
返事を受け、大司教はレナスのその細く小さい双肩に、〈アルキュゴス〉の刀身をそっと当てる。
同時に、二人は聖言を唱え始めた。


主よ
其は天にあり
其は地にあり
その御手をもて
その御心をもて
我らを救いたもう
其は永劫
其は永遠
その御魂をもて
その御身をもて
我らを守りたもう
主よ……


沈黙。二つの声が、やがて聖堂の空気に溶けて消えるまで、聖言は続いているのだ。
その祈りが。その思いが。どうか、いずこかにあらせられます主に届きますように…。
胸の前で十字の聖印を切ると、レナスは立ち上がった。
「大司教様。それでは、行って参ります」
「うむ…。お前の聖務は、この剣〈アルキュゴス〉に、すべての聖剣を集めること。それが達成された
そのときこそ、主は我々に真の福音をもたらしてくださる。レナス、お前に課された聖務は、重大ですよ」
「はい。この身に変えても、必ず」
何の疑念もなく、少女は言った。彼女にとって、大司教の言葉は絶対であり、事実であった。
そういうように、少女は教育されてきたのだ。
一礼し、きびすを返すレナス。小さな背中。大司教は、胸の詰まる思いで、声を上げた。
「…レナス」
「はい」
体ごとこちらを向いた少女に、かけてやりたい言葉は、山ほどあった。
「……気を、つけるのですよ」
しかし、空転した感情は、大司教にその一言しか許さなかった。
「ありがとうございます。では」
小さな足音を立てて、遠ざかっていく背中。その小さな使徒が聖堂から姿を消すと、大司教は人払いをし、ひとつ、大きく息をついた。
「これにて、儀式は終了だ。…出てきたまえ」
つぶやく。誰にでもない独白かと思われたその言葉に、思わぬ方向から返答があった。
「上出来上出来。さすがは大司教様、洞察力も演技力も違う」
言葉は、後方の神を模した塑像から…いや、その後ろに隠れるようにして背をもたれていた、男からだった。
もし、その言葉が。聖なる主のそれであったら、大司教はその懐刀で己の喉を突いていたことだろう。聖堂には明らかにそぐわぬ、黒色のロングコートを身にまとい、その黒髪は、前髪だけが不自然に長い。整った顔立ちの高い鼻の上には、用途を成さぬ小さなレンズの眼鏡が鎮座している。何より目に付くのは、その、張り付いたような、薄い笑みだった。外見、口調、何より雰囲気。この聖なる社にあって、その男の言葉も存在も、あまりに異質で、軽薄で…邪悪だった。牛乳に墨を落としたような違和感。嫌悪感。精神修練を積んだ大司教をしても、それはぬぐいがたいほど強いものだった。
振り返ることなく、大司教は口を開いた。
「演技とは心外だな。私は祝福を与えただけ…。それに、聖剣収集は、そもそも我らに課されし聖務の一つ。彼女も、その任に当たる、数ある使徒の一人となったにすぎない。下世話な詮索などせぬことだ」
吐き捨てるような言葉に、黒服の男は唇をゆがめる。
「おかしいなぁ。そんな有象無象のうちの一匹に、最後の聖剣〈アルキュゴス〉を託しますかね?フツー」
「…何が言いたい」
強まった語調は、追いつめられた小動物の悲鳴に似ていた。
「いいえ、別になにも。俺も同じく、一匹の使徒ですから。大司教サマのご意向には逆らえませんて。ただ…この一件、小さくないと思いますよ…」
「どういう、意味かね?」
努めて平静を装った大司教の心を見透かしたように、男はさらに静かな口調で、
「あなたがた〈穏健派〉にしちゃ、素早い対応だ…意外ですよ。たいしたもんだ。あのお方も、さぞかしお喜びになるでしょうよ。我が敵も、なかなかやる……ってね」
大司教は、男の浮かべた、薄い笑みに。恐怖を覚えた自分を、認めることができなかった。
「出ていけ…!貴様ら〈急進派〉が何を考えているかなど知りたくもないが…主は、汚れた者には、救いではなく罰をお与えになる。肝に銘じておくがいい」
「お言葉、ありがたく頂戴いたしますよ。それじゃまた、いずれ」
「再会など望まぬ…!」
思わず振り返ったその先には、もはやあの邪悪な気配はなかった。ただ、その汚れた残滓が聖像にまとわりついているような気がして、大司教は目をそらした。
不穏な空気、動き…。この聖堂だけでなく、この聖都も、いや…この大陸全土が、黒く暗い何かに覆われつつある。
嫌な予感は、どう晴らそうとしても叶わぬ、重いものだった。
「レナス…」
小さな声で呼んだその名に、ささやかな希望と…
「…哀れな子よ」
大きな憂いとを、込めた。

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