時間は、少しさかのぼる。
レナスが、まだ聖都の中をさまよっていた頃。
街の一角、南の小高い丘。限られた身分の者しか、その館を構えることの許されない特別区域。
そのなかでも、ひときわ大きく、豪奢なひとつの館に、一人の奇妙な来客があった。
「ラウディ様。ご来客です」
数回のノックの後、ドアを開け書斎に入ってきた執事は、うやうやしい一礼の後、こう告げた。
ラウディと呼ばれた男は、今まで目を通していた書物から視線を外した。
よく刈り込まれた短髪と、細面の左頬に大きく刻まれた剣傷。簡素な作りの貫頭衣を身につけてはいるが、その薄い布を押し上げる逞しい筋肉と、人間としての存在が放つ高貴さは隠せるものではなかった。その昔、力と貴とは同居しないと言った詩人がいたが、少なくともこの男はその限りではないようである。
「おかしいな。今日は、誰とも会合の約束など交わしておらぬはずだが」
「は…。急のお客様かと。黒い服をお召しになった、男性でございます。『赤き大剣の主人に会いたい』との言葉も仰せつかっております」
その言葉に、ラウディは、一瞬であるが表情をゆがめ、目を見開いた。
「……よい。通せ」
「は、しかし…」
「よいのだ。ここに案内しろ。あと、その客人が帰るまで、いかなる用件も取り次ぐな。私の部屋に近寄ってもならん。いいな」
「…御意に。すぐ、お通しいたします」
執事が立ち去り、しばらくすると、廊下に、ことさら大きな足音が響いた。彼が、来たのだ。
「どうもどうも。お邪魔しますよ、ラウディ卿」
ドアをわざと大きな音を立てて閉めた後、その男は、鼻に引っかかっているだけの眼鏡を、人差し指で持ち上げた。
「貴殿が、我が館に直々に来訪とはな。よほど聖都は平和と見える」
「だといいんですがね…どうやら、そうも行かないようで」
大げさに息を付いてみせると、男は手近にあった豪勢な作りの椅子に、大きな音を立てて腰を落とし、足を組んだ。
「それは、どういうことかな」
「〈穏健派〉のジジィどもが、ついに動き出しましてね。昼間、一匹の使徒を放ったんですよ」
「そのようなこと、年中行事では。珍しくもなかろう」
「そうですかね…そいつが〈アルキュゴス〉を持たされた、と言ってもですか?」
からかうような口調。本来なら湧き上がる感情は怒りなのだろうが、ラウディの表情は、むしろここにはない存在へと、驚きを感じているように見えた。
「それは…真実かな?」
「教会の使徒に嘘つきはいませんて。この目で目撃しましたよ。大司教様の祝福を受けて〈聖剣〉をその使徒が受け取る様をね」
大仰な動作で聖印を切ってみせ、男はさらに続ける。
「しかものその使徒は、〈穏健派〉が大事に大事に育てた、秘蔵っ子中の秘蔵っ子。実際、〈急進派〉のほうでも、最近までその存在を関知できなかったくらいですから…同じ教会の中にあってですよ?いかに特別扱いされてきた駒なのか、想像はつきませんかねぇ」
「……」
ラウディは無言で応答すると、腕を組み、目を閉じた。
現在、『教会』内部に浸透している、〈穏健派〉と〈急進派〉と言う二つの勢力の、対立構造。
その始まりは、教会始祖の歴史をひもとかねばならぬほどの根の深さで、今でも数ある学者がその諸説を戦わせているような段階なのだが、その二派閥が、少なくとも、近年においてはその関係を、記録の残る限りの過去に例のないほど悪化させている事実だけは伝え聞いている。ラウディ自身も、〈急進派〉に連なる聖堂騎士なのである。〈急進派〉が教会内部のほとんどの戦力を掌握しているという実情も、理解し、拒絶していない。
〈穏健派〉の人間とは不用意に接触するな、われわれ〈急進派〉に関するいかなる情報も提供するな…という不文律は心得ていた。
無論〈穏健派〉も同様にそのような箝口令を敷いていることは間違いない。何一つ相容れぬような二勢力だが、どちらの勢力も最後に口にするのは『我らこそこの世界に真の福音をもたらすにふさわしい』と言う文言。
そしてそのために必要と主張し、躍起になって探しているモノ。
それが、〈聖剣〉なのである。
それは、実在する武具。この聖都の外では伝説としてしか語られないが…いずれにせよ、伝説と称されるまでにその存在が謎に包まれている事は揺るがぬ事実である。
どこにあるのか。
いつ、どこで製作されたのか。
そして、何のためにあるのか。
一切が、闇の中だ。
貴重で、希少で、この聖都では政治的な意味合いすら帯びる。伝承通りの神秘的な力の有無にかかわらず、伝説そのものを物理的に有しているという事実…人々の信仰と信頼は、より容易に集まることだろう。そう言った側面からも、〈聖剣〉の重要度は語るまでもない。
そのひとつ、〈穏健派〉が確保していた聖剣〈アルキュゴス〉を託された使徒。一勢力としての切り札とも言えるそれを、あえて野に放つ。その存在が帯びた意味を理解できないラウディではなかった。
目を開き、息を付く。
「それで…この私に、どうしろ、と?」
「簡単なことですよ。目には目を、歯には歯を…〈聖剣〉には、〈聖剣〉をってことで」
黒服の男の、笑み。冷たくはない。ただ、心底、楽しそうだった。
「…解せぬ人よな。その使徒の命の保証は、できぬぞ」
「別に。煮るなり焼くなり、お好きなように。ただ、〈アルキュゴス〉を、この聖都から出したくない。それが、我らが盟主のご意向でしてね」
「……だが、理由もなく襲えば、こちらが咎人となる」
「そんなのどうとでもなるでしょうが…まあ、〈聖剣〉を無断で持ち出したとでも難癖つけて、連行すればいいんじゃないですかね?問題があっても、処理はこっちで何とかしますよ」
「そこまでして、聖都から出したくない使徒とは…相当の強者か。ちょうどいい。我が剣…〈ラグナロク〉も、獲物を欲していたところだ」
立ち上がり、ラウディは部屋の壁際まで歩むと、設置してあった本棚に手を伸ばす。指先が触れたのは、教会の
聖典。少しだけ、手前にずらすと…がちり、という固い音ととともに、本棚がゆっくりと横に移動し始めた。再び固い音を立てて止まった本棚の裏からは、塗装の施されていない、無地の状態の壁に囲われた、小さな部屋が出現
した。そこに金属のワイヤーでくくりつけられてあったのは、一振りの、赤い大剣だった。正面に立ち、ひとつ聖印を切ると、彼はそれをゆっくりと抜き取る。
「聖典の裏に隠し部屋とは、背徳感満点ですなぁ」
「言うな。この刃、主にお見せするにはあまりに赤く…禍々しい」
つぶやき、ラウディは、自身の手にあるその剣を、まじまじと見返した。
果てなき歴史の黒い渦の中から引き上げられた〈聖剣〉は〈アルキュゴス〉のみというわけではない。
ここに、もうひとつ。
赤き大剣……〈ラグナロク〉。
〈急進派〉が保有する〈聖剣〉のうちのひとつ。
教会の頂点、教皇府直属の聖堂騎士団団長、ラウディ・ハルズゲイム卿の愛剣である。
太く長く、直線的な外観は、ともすれば先鋭形の盾と見えるほど。事実そう言った用途も見込まれているのか、両刃の刃に挟まれた中心部分は平らに削られ、その上に、黒い硬質の物質が塗布されている。刀身と柄の接続部分の中心には、赤く充血した人間の目玉のような宝石が埋め込まれており、まるでこちらを睥睨しているかとすら思わせる。並の剣ではまとうべくもない異質のプレッシャーを帯びた、数百の戦場を駆け抜け、数千数万もの異教徒・邪教徒の血を吸った、真紅の刀身。その輝きは決して鈍ることなく、むしろ、人を斬るたび、その返り血を浴びるたびに…。大剣を巨大な鞘に収め、ラウディはそれを背中に負う。
「それで、その使徒は、どこに?是非その顔、見てみたい」
「さあ…まだ聖都の中にいることだけは確かですよ。尾行の間者から、東の方の武器屋に向かったって言う話は受け取ってますが。
…ああ、そうそう。一つ言い忘れました」
男は、右手の人差し指を立てて、一言。
「彼女……かなり、強いですから。お気をつけて」
からかうような語調のそれを、ラウディはあえて無視した。

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