
![]()
| 武器屋を出た後、レナスは馬車に乗せられ、そのまま聖堂騎士団へと連行されていた。 聖都北の区画のほぼ半分…かなり広い敷地には運動場や宿舎などがあり、その周囲は高い壁で覆われている。はるか彼方の異国には、拘束された犯罪者を、更正のために閉じこめる施設があると言うが、外観はそれに似ているかも知れない。名実ともに、聖都防衛のための軍事要塞と言えるだろう。剣呑な場所である。 「……」 その広大な土地の中の、奥まった場所。すでに日も沈んだのか、薄暗い室内に、レナスは通されていた。…人によっては、閉じこめられていた、とも表現するかも知れないが。 部屋の中は極めて殺風景で、窓は鉄格子に覆われた小さなものがひとつだけ。内装は、見るからに古く、少し強く寄りかかれば壊れるのではないかというテーブルと椅子二つが、申し訳程度に設えられているのみ。レナスは、その片方に座り、向かい合うようにしてもう一つの椅子に座っているのは、巡礼服をその肥大した身にまとった、牧師と名乗る小男だった。 「さあ…己の罪を告白するのです。全ての汚れを清算するのです」 「私は。大司教さまから、〈聖剣〉を頂いたのです。断りなく持ち出したわけではありません」 「君は幻を見ているのだ…さあ、聖典第三章第二十六項を復唱しなさい」 先ほどから、ずっとこの調子だ。レナスがどう弁明しようと、相手は聞く耳を持たない。 しばしの沈黙の後、レナスはそれに従った。 「主よ。我と我らの愛すべき大地。我と我らの尊ぶべき空……」 聖典にある聖文を、よどみなく紡ぎ出す…レナスの唇。牧師は、聖典ではなく、そこに、注視していた。 息が、次第に荒くなり、せわしなく体が左右に振れ出す。 背筋を伸ばして、まるで模範のような礼儀正しさで、椅子にかけているレナス。 その頭頂から、整った顔、塑像のような黄金律を体現する身体。曲線美という言葉に完璧に符合 する脚。つま先。聖装束に包まれた、可憐な少女の肢体を、舐めるような、湿り気を帯びた視線で、牧師は見つめていた。…教会〈急進派〉が、なぜ〈穏健派〉からそうと呼ばれ、忌まれるのか、理由は数あるが、その内最も代表的な例が、この男であった。牧師の格好こそ装っているが…その実は、人に教える資格などない、一介の雇われ人…〈急進派〉に金で抱き込まれた、傭兵くずれに過ぎなかった。〈急進派〉の常套手段である。軍部を完全に掌握しているがゆえに、簡単にはそれを行使できない。だからこそ、己が勢力に不必要・障害となる存在を、この男のような者を金でおびき寄せ、始末する。万が一失敗しても、流れ者の言葉など誰が信じようか…悪しき慣習であった。 事実〈急進派〉はこの手法で過去、幾人もの権力者を消去し、そのポストに急進派閥の人間を送り込んできた。 現在の〈急進派〉優位の情勢も、それによって形成されたと言っても過言ではない。 無論、〈穏健派〉が一方的な被害者的正義と定義するのは大きな過ちとなる。旧態依然、秘密主義…数十年前まで行われていた異教弾圧・異端審問に最も力を注いでいたのは〈穏健派〉であった。最も、その事実は否定されているが、ともかく、一般の組織が抱えるような闇は、聖堂の中にまで侵入しているのだ。 だが、この男には、そんな諸事情は関係ない。〈教会〉に雇われた成り行き上、信仰を守っているように見せているに過ぎない。 だからこそ、汚れ役は、彼の役目なのだ。 『あの娘を殺せ。手法は一任する』 そんな物騒な言葉を、よりにもよってあの、聖堂騎士団団長の口から聞いたのは、数刻前のことだった。詳細は知らされていないが、それはもとよりこの商売に必要ないもの。依頼あれば実行。原因と結果の単純な因果関係に似た方程式だった。はじめは、毒でも含ませようと考えたが…しかし、その娘の姿を見た瞬間、考えが変わった。 見るからに純朴で…ただ聖典を読んで育ってきたような、汚れのない、白い百合のようなたたずまい。 純粋培養の生娘。 男の、汚れた部分がうずいた。 …どうせここで、終わるのだ。最後に、女の快楽を与えてやったとて、構うまい。 いい声で鳴かせてやる…。 一瞬だけ表情が欲望に歪んだことを自覚し、男は襟を正した。最後の瞬間まで、人のいい、笑顔を絶やさない、きわめて普通の牧師を演じなければならないのだ。 「主よ。我と我らの大いなる守護…」 レナスは、男の視線に気付かなかったか、あえて無視したか…無表情のまま、聖文を読み終える。その様子を見て、男は、ひとつだけうなずいた。 「これより、あなたの中に取りついた幻をうち消す儀式を執り行います…さあ、装束を脱ぎなさい。あなたが苦しまれては、主も悲しまれましょう」 レナスは、応じない。突然のことに混乱したか…牧師は内心焦り、猫なで声を出す。 「大丈夫だ…心配はいらない、私が、手伝おう…。装束は脱ぎ方を間違えると大変だ。さあ……」 牧師の手が、レナスの肩を掴んだ。普通の少女なら、ここで悲鳴のひとつでも上がるのだろうが、 レナスは、ここへ来ても、無表情だった。牧師にはそれが、無警戒と映ったのか、余計に、男の邪な欲望に油が注がれてしまう。 なおも手に力を込め、レナスに近づいてゆく。 「力を抜いて、楽になさい…多少痛くても、それは試練だ、耐えるのです」 自分勝手に高ぶっていく牧師を間近にして、レナスは、先ほどから…ぶつぶつと、何か言葉を口にしていた。もし、男に後少しの理性と知性が残されていたなら、それが数字であり、口にするたび、ひとつずつ減っていっていることに気付いただろう。 「…三」 「罪なき少女に取り憑く幻め…今、この、私が…」 「二…」 「主よ、ああ、お許し下さい。罪深き業をお許し下さい…」 「一」 昂奮に震えた手を、のばす。後少しで、少女の、身体に、触れる。 その、刹那。 鈍い音。期待していた柔らかな手応えは、一切なかった。 その代わり…男の、伸ばしていたはずの腕が…思わず吹き出すほど、間抜けな角度に、折れ曲がっていた。 「あ、ぎ……?!」 折れた骨。切れた筋。激痛が神経を駆け抜けるより早く、血の気が男の顔から引く。 信じられない光景だった。折れた腕。か弱い少女。腕が。少女が。少女が、腕を。 男の太い手首を、比べ者にならないほど細く、白い、少女の手が。 たったひとつの挙動と呼吸で、折り砕いたのだ。 「う、うで、で……あ、あ…ああああああああ!!! 溜まりにたまったような悲鳴が、狭い部屋にとどろく。 その声を聞きとがめた二人の騎士が、部屋に乱入してくる。それと同時に、引きつけでも起こした かのような奇妙な動きで、牧師はレナスから飛び退き、騎士の後ろに隠れた。 「何事か、牧師殿!」 「こ、この娘が乱心して…!あ、悪魔だ!悪魔がとりついている!斬れ!斬って捨てなさい!」 「その腕、どうされた?!まさか、貴様…!」 剣の柄に手をかける騎士。 「命惜しくば、手を挙げて後ろを向け!でなければ…!」 端的に、危機。これほどわかりやすい窮地もあるまい。だが、彼女は、応じない。 彼女の中には、優先順位というものすらない。命すら、序列の中には含まれていない。 ただ、〈聖剣〉をあつめよと言う、聖務。それしかない。 斬って捨てられては、それも不可能になる……それだけは、絶対にあってはならない。 レナスがそう判断した時、すでに、騎士の一人はすでに、床に倒れ伏していた。その首には、彼が帯刀していた短剣が突き立っている。 「え…」 発声できたのが、もう一人の騎士の最後の幸福であった。視界に、レナスの姿はもはや、ない。 そのすぐ後、耳のごく近くで、何かが潰れるような音を聞き、彼は失神した。 深く沈み込んだ態勢で騎士の死角に進入した後、レナスは回すような蹴りで騎士の顎を襲ったのだ。骨格の根本的な構造基礎から破砕され、白目をむいて倒れた彼の顔は、異様なほど縦長になっていた。 「あ…あ!」 床にしりもちを付き、牧師は、それでも這いずって逃げる。しかしすぐに壁にそれを阻まれた。 なぜ、なぜだ?なぜこんな、少女が!不意をついたとはいえ、二人もの騎士を…!! こんな動き、技…見たことがない。本職の者すら戦慄させるレナスの所作に、男は、単純に恐怖した。少しでも脅威から遠ざかろうとするが、靴底はむなしく床を滑る。 「や…や、止めなさい!使徒ともあろうものが、このような…!!」 顔中に脂汗を浮かべながらも、男は、レナスから死角に当たる、自分の背中のあたりを、無事な方の手でまさぐっていた。やがて見つける、固い手応え。 本来の目的のために帯刀していたナイフであった。まさか牧師が武装しているとは思うまい…。 なけなしの命綱を手にし、牧師は、低い声で言う。 「お、おっ…落ち着くのです…君は今、悪魔に取り憑かれている。ともに神に祈りましょう…」 ナイフの柄を、握りしめる。 「…はい…分かりました」 レナスは、牧師のすぐ手前まで来ると…その手を組み、聖印を切った。まだ、信じているらしい。 小躍りしたい心を必死に押さえ、牧師はなおも猫なで声で、 「そうです…目を閉じて…」 そろそろと、ナイフを前に持ってくる。少女は気付いていない…やれる。 「神に…祈りなさい!」 腕を振り、牧師は、無防備に見えるレナスの首筋に、ナイフを突き立てる――― よりはるかに早く、レナスは、牧師の首をつかんでいた。衝撃で、ナイフは手から落ちる。 驚異的な握力。酸素と血液がせき止められ、首の太さが数倍する。圧倒的な圧搾力の前に血管という血管が一斉に破裂、内出血を起こし、壊死した。それはやがて、頭部全体に広がってゆく。 「あなたのために、祈りました。安心して、主の元に召されてください」 「ご…」 奇妙な断末魔を残し、牧師は神に召された。青ざめた肉の塊を床に無造作に転がすと、レナスはテーブルの上に置いてあった鍵を取った。 …予定どおり。問題なし。レナスは、心中でつぶやいた。 彼女が密かに立てていた、予定。それは言うまでもなく、ここから抜け出すことであった。この部屋に押し込められてから今まで、彼女はただ聖言を繰り返していたわけではなかった。正確に時間を数え、天井から聞こえるわずかな足音から館の構造を把握する。そして、予定時刻。それがまさに、牧師の腕が逆さに曲げられた瞬間だったのだ。 逃走はすでに始まっている。急がねば。素早く、音も忍ばせず扉を開放し、廊下に出る。 「お、おい!貴様、そこで何をしている!」 途端に、数人の見張り騎士にその姿を見とがめられる。彼女は、拘束されているはず…同伴も無しに出てくるはずはない。目配せを交わした後、 騎士たちは次々に抜刀した。動けば斬る。次に出るはずの言葉は、それだった。しかし。 たっ、と、足音がした。 レナスは動いている。騎士たちの剣を、無言のプレッシャーを、一切無視して。 「貴様!」 騎士も、動いた。問答無用で、襲いかかってくる。 だが、大振り。動作が丸見え…刃が空を裂く音を間近に聞き、レナスは斬撃を避けると、がら空きになっていた騎士の足に己の足を引っかけ、顔面をつかみ、そのまま押し倒す。 「がっ…!」 固い床に後頭部をしたたかに打ち付け、昏倒した。しばらくは指一本動かないだろう。 だがとどめを刺すことはせず、レナスは華麗な動作で宙転、着地すると、なおも走り出す。 「追え!追うんだ!」 「おい、止まれ!止まるんだ!!」 後方からの声にも、レナスは聞く耳を持たない。 使徒と、聖堂騎士。同じ教会の中にあって、大きな意味では同胞ともとれる二者であったが、少なくともレナスには、迷いはない。 彼女は、教えられているのだ。 そうせよと。そうすべきだと。そうしなければならない、と。 彼女が何かを判断する時に参照する情報は、世間一般の常識などではない。 教えられたことに、符合するか、しないか。それだけ。単純にして明快。 だからこそ、レナスの行動は早い。 「お、おい。なんだ君は…うわあっ!」 「上に言ったぞ!警戒発令!賊が逃げたぞ!!」 包囲する暇を与えず、レナスは駆け続けた。上の階層に出ると、彼女の存在すら知らされていない者もいて、目の前にいるというのに、不思議な顔をしてそのまま後ろ姿を見送っている。 「奴を追え!何をしてる、脱獄者だ!」 その一言で、勘の鈍い者も走り出す。 そして、その一歩一歩が、確実に、混乱を増幅させていた。鎧をまとった大男たちが、たった一人の少女に、言いように惑わされ、かき回されている。 |
