そして、館の最上階にある、団長執務室にまで、その喧噪は届いていた。
「…何事だ、この騒ぎは」
うめいたのは、ラウディだった。屈強な男たちの乱れた歩に、堅牢な作りのこの館でさえ、細かな揺れを防げないでいる。おかげで、彼が今ペンを走らせている書類の上の文字も迷走している。
ほとんど判読不能な文字の羅列は、もし館が平静であったならば、『我、穏健派の使徒を捕縛。至急、引き取って頂きたい。手足に枷をはめ、地下深き牢に入れ、二度とこの清浄の地を踏ませぬことを確約願いたい』という、儀礼の尽くされた文面になるはずであった。
「……」
(その使徒の命、保証はできぬぞ)
自ら発した言葉が、今は、どこか空虚で…恐ろしい。
あの、少女。あの場ですぐに斬り伏せてもよかった。だが、体が、動かなかったのだ。
彼の筋肉を凍らせたのは、おそらく、その場で最も働くべきでなかった感覚…危機感、まさにそれであった。
初めて剣に触れた少年の頃、あの刃のひらめきが、まだ少し恐かった…それと、同種と言ってよい怜悧な禁忌感が、彼を、聖剣〈ラグナロク〉の持ち主をして、沈黙させた。
そしてそれは、今もぬぐえたわけではない。小さく、だが固く、心に残っている。
この書面は、いわば、逃げ。己の手に負えぬかも知れぬ…自尊心を上回る恐怖感。それを、〈急進派〉中枢部へ転嫁するための、言い訳に過ぎなかった。
ラウディの外面は、あくまで通常通り。だが内は違う。この揺れは、なにか、嫌な予感がする。
考えれば考えるほど、結論は、ある一方向へと流される。危機の時ほど頭は冴えると言うが、その理論は、この場では、正しかった。
「この揺れ…尋常ではないぞ。何があったというのだ」
「も、申し訳ございません。ただいま、確認して参ります。今しばらく、お待ちを…」
萎縮したように頭を下げる、近衛の騎士。そのままドアに駆け寄るが、突然扉が開き、入ってきた人影と出会い頭にぶつかりそうになる。
しかし、そこにいたのは、騎士ではなかった。見たこともない、少女。拍子抜けしたように、彼はドアに歩み寄り、声を荒げる。
「な、何だ、君は。ここは騎士団長の執務室だぞ?一般の者が気安く――」
「避けろ!」
声は届いたが、反応はできなかった。
少女が振るった裏拳は、騎士の鼻面をたやすく粉砕した。勢い余って横に吹き飛び、大量の武芸書が納められた本棚に激突する。落下してきた書の一撃で、彼は完全に気絶した。
少女…レナスは、そこには一瞥もくれない。ただ、前を、ラウディを見ている。
「また、会いましたね」
言葉以上の意味のない、呑気な言葉だった。
「…よく、来たな。歓迎するよ。私も、会いたかった」
答えはない。ただ、す、とレナスは指を指す。
ラウディの頬をかすめた、その透明な点線の先には後方の壁にかけられた、大剣があった。
「初めて見た時、気付きました。それは〈聖剣〉。聖剣〈ラグナロク〉」
「さすが〈穏健派〉の秘密戦力。その匂い、嗅ぎ分けるか。わざわざ見せつけ、おびき寄せた甲斐があったな」
「…どうして、それを?」
「すべての問いの答えは、私を屈服させた後に語るとしよう…」
言って、ラウディは、おもむろに立ち上がった。
予感とは、当たるものなのだな。
運の良さか、悪さか、そのいずれかが反応して、今、この巡り合わせが実現した。
ならば……仕方、ない。ラウディは、覚悟を、決めた。それができる男だった。
にらみ合ったまま後退し、〈ラグナロク〉に手をかけ――刹那、レナスが飛びかかった。ラウディは何とか柄を掴むが、レナスは鞘に収まった刀身部分にしがみつく。
「く…おおっ!!」
言いしれぬ危機感に精神を撫でられ、ラウディは、鞘に収まったままの〈ラグナロク〉を、渾身の力を込めて、床に向けて振るった。
「!」
叩きつけられる寸前、レナスは跳躍し、刀身から離脱する。その慣性を伴ったまま、近くにあった窓を突き破り、外へと躍り出た。
窓枠に手をかけることもできたが、あえて重力に逆らおうとはせず、そのまま楕円のような軌道を描いて、レナスは、騎士たちの修練に用いられる、広い平地の中庭に着地した。まるで獣の身のこなし…並の人間の動作ではない。ラウディは、粉々に破れた窓からそれを見下ろしながら、額に流れた汗をぬぐった。と同時に、窓辺に駆け寄ると、声を張り上げる。
「皆の者!落ち着け!!!」
遠くまで通る力声。凄まじい迫力に、混乱していた騎士団が、時を止めたような静寂に包まれる。
「何を惑っている!敵は目の前!!それで剣を取らぬは、騎士として恥!屈辱!違うか!!」
すべての部下たちに、ラウディは説いていた。騎士の誇りを、精神を、忘れたのか、と。
「その者を斬れ!侵入者だ!逃がせばその恥、聖都中の笑い草となろうぞ!!それでも戦いを放棄するならば、剣を捨ててこの場を去れ!!刃ある者しか、闘いは許されぬのだ!!」
場が場なら、拍手が起こってもおかしくはなかった。力説は、混乱していた騎士たちに、瞬時にして燃えるような闘志をもたらす。そして、誰一人として手放すことのなかった、磨き抜かれた剣の切っ先を、一人の賊に向けさせた。聖堂騎士の頂にあるラウディの言葉は、王の咆吼に等しい。猛る騎士たちの魂という荒馬を乗りこなす術を、この男は知っていた。途端に増える、気配と足音。それに混じって、かすかに金属同士がこすれ会う甲高い音も耳に入る。中庭の中央にいるレナスを囲むように円陣を組み、油断なく獲物を構えるのは、ラウディの正式な配下、〈急進派〉に属する聖堂騎士の中でも、選りすぐられた近衛騎士たちだった。
いずれも歴戦をくぐり抜けてきた猛者…その所作には、油断はない。
「…これは、主よりの試練、と考えてもらおう。貴様が本当に、真の福音をもたらすにふさわしい使徒であるか否か、試させてもらうぞ」
ラウディの言葉が終わったとき、騎士達はすでにレナスの包囲を完了していた。鉄壁の布陣とも言える人の壁の中心にあって、
レナスは小さく、口を開いた。
「…もし」
一呼吸。
「もし、この試練、うち破ることができたら…」
足を広げ、少し腰を落とす。腕は下ろすでもなく、上げるでもなく、正中線を守るように保持する。
明らかな戦闘態勢を取り、少女は、言い放った。
「その〈聖剣〉、私がもらい受けます」
人の波をやすやすと貫通し、その視線は〈ラグナロク〉に鋭く突き立っていた。
「よかろう。強き剣は、より強き者のもとにあるべきだ。約束しよう。だが、ひとたび我らに挑めば、その命、保証はできん。剣を引くならば、今だぞ」
良く通る声であった。聞こえぬはずはない。しかしレナスは、すでに構えを取っている。
もはや、戦いは避けられない。避けようともしていない。ラウディは、小さく息を吸い、
「…始めようか」


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