すべてが動いた。
ざッ―――
騎士達は、足音も隠さず、堂々と迫りくる。
肌に痛いほどの、ありありとした殺気。プレッシャー。もはや日も沈み、雲の隙間から漏れた、微かな月光の照らす聖堂の中庭が、にわかに戦場の気配を帯び始めた頃。
レナスは、ひとつ、深く、息を付き、目を閉じた。胸に手を当て、動こうとしない。
自分の鼓動を、聞いているのだ。
やがて、騎士たちの足音が止まる。奇妙な静寂が浮かんでいた。
息が詰まる。時が止まったような…
「でやぁぁぁっ!!」
ついに、しじまを破って、騎士の一人が突進してくる。一歩一歩近づいてくる足音と、レナスの鼓動が、調子を一にし…やがて追い越した、その刹那。
聖装束が、闇に溶けた。
風切り音。そして、鈍い音。
「ぐッ…あっ?!」
拳が。その白く、小さな拳が。
深く、騎士の胸の中心にめり込んでいる。衝撃は鎧を貫通した。肋骨が圧砕され肺に突き刺さったか、騎士の一人は大量に喀血し、倒れ伏した。レナスは瞬時に後方に飛び、返り血の一滴も浴びることはなかった。
「こ…の!」
剣友の、あまりに唐突な最期を見せつけられ、激昂したもう一人の騎士がレナスに斬りかかる。が、その勇ましい足音が、突然、止まった。そのままふらふらと前進すると、すとん、と尻を落とす。ひゅう、という呼気を残し、彼は動かなくなった。
見れば、喉の部分がばっくりと裂け、鼓動と同じリズムで血が大量に噴き出している。傍らには、彼の血でべとりと濡れた、彼自身の剣が転がっていた。瞬時にして獲物を奪われ、切り裂かれたのだ。日頃磨き上げていた己の剣が、まさか自分の首でその切れ味を証明しようとは。剣士として皮肉な本懐を遂げたことだろう。
彼の亡骸を周囲の騎士たちが発見した時、すでにそこに少女の姿はない。
まるで、夜に隠れるように。そこにある空気と同化したように、気配を消失させていた。
「……くっ!気を付けろ!」
この数瞬のやりとりだけで、二人、潰された。
相手は強い。それも……とてつもなく。
騎士達の双肩に、重く鋭利な重圧がのしかかった。限りなく薄い気配を探る…奴は、どこだ。
後ろか?!気付いた時にはすでに、細く白い腕が、首筋に巻き付いていた。そのままの勢いで、視界が、何もかもが回転し、途絶した。首の神経をねじり切られ、細かく痙攣しながら、またも一人、倒れる。
館から出て、中庭に駆け込んだラウディは、驚愕のあまり、呻いた。
見えなかった。夜闇に紛れていたとはいえ、レナスの動きが、全く読めなかった。
侮っていたわけではない。でなければ、この手勢を率いるはずもない。
しかし…その大袈裟とも言えた予想すら裏切るほどの事態が、眼前で展開されていた。完璧だったはずの部隊としての統制に、少しずつ、ゆっくりと…だが確実に致命傷へと至るほころびが生まれ始める。
「な、なんなんだこいつ…ぐぁあっ!」
「落ち着け!た、隊列を崩すな!後ろに気をつけ…げぁっ!」
「や、やめろ!来るな、来るな、がっ!!…げぶっ…」
確かに、教会の使徒というものは、文武において秀でているものだが…レナスは、そう言った次元ですらない。
無様に混乱を始める己の部下たちを目の当たりにして、ラウディは、ある確信を得ていた。
あの動き、呼吸法、体さばき…間違い、ない。彼女は『教会式暗殺術』を、完璧に会得している。
それは、封ぜられし外式の闘法。古代、まだ世界が戦乱の最中にあった時代より、教会の絶大なる闇の戦力として君臨したとある暗殺部隊が、その脈々たる歴史の中で編み上げた、極めて実戦的な近接戦闘術。これを操る者の歩む後には、屍の山が築かれ、血涙の大河がそれを押し流すであろう――とは、聖典の中にも登場する有名な文言だ。
しかし、体得には幼少の頃よりの凄絶を極める修練と、何より類い希な才覚が必要とされたため、また時代が移り、戦乱そのものが大地から消え去ると、闇の部隊も消滅し、教会式暗殺術も、わずかな伝承と記録を残すのみとなっていた。とうの昔に失墜した、伝統武芸としか認識はなかったが…それが大いなる過ちであると、鼻につく部下の血の臭いで、彼は再認識した。
太古に流れ、築かれた屍山血河は…未だ聖都の下、主の御目も届かぬほどの闇の中に、確かに存在していたのだ。
そして今日、その伏魔殿は、一人の戦乙女を世に解き放った。
教会〈穏健派〉に育てられた十六年と言う時間が、レナスの体に深く、深く刻み込んだ、教会式暗殺術は…彼女から恐怖や迷いという、およそ戦いには必要のない感情を消去していた。完全に。
聖剣収集のために、そのためだけに生み出された、戦闘人形。戦闘芸術品であった。
その動作には、容赦はない。
その表情には、躊躇はない。
そしてその戦いには、一片の隙もない。
「来ないで」
神速の踏み込み。足下で煙を巻き上げて懐にもぐり込んだ後は、鳩尾に肘を叩き込んで終わり。
「止めて」
低い体勢からの蹴り。足下を刈られ倒れ込んだ男の顔面を踵で蹴り上げ、迫ってきたもう一人に叩きつける。
「無駄…だから」
哀れみではない。単なる忠告だ。
流れるような一連の戦いは、澄み渡った激流を思わせた。
力強く、しなやかで…だが、ひとたび飲み込まれたが最後、抗う間もなく……。
一人。また一人。膝をつき。顔面から倒れ込み。吹き飛んで壁に激突する。
歩くように。息をするように。敵をなぎ倒す。それが彼女。〈穏健派〉の秘蔵っ子。
騎士の誇りも、魂も、何もかも、一切が、彼女には通用しない。全く異質の脅威…。
そしてついに、その場に立つものは、ラウディと、レナスの、二人のみとなった。
「……終わり?」
言い放った少女の息は、全く乱れていない。白い額には汗の一筋もない。

『彼女、かなり強いですから。お気をつけて』

脳裏に、聞かなかったはずの言葉がよぎる。
一歩。ラウディの巨躯が、後じさった。
「見事な手前だ…。その技術、どこで覚えた?」
「私は、この聖都から出たことはありません」
正直すぎる解答。裏打ちされた予想。あの究極の暗殺術と、よもや対決する時が来ようとは…。
ラウディは〈ラグナロク〉を構える。そしてまっすぐにレナスを見つめ、言う。
「来い。私はまだ、倒れてはおらぬぞ」
声の震えを抑えることができたのは、ほとんど僥倖と言うべきだった。
恐れ。怒り。無論、無いわけではない。見渡す限り、多くの部下の血が流れた。
だが、それ以上の…武人として、強者と戦えるという鮮やかな昂奮が、それを凌駕していたのだ。
鋭利な緊張感。熟達した手練れ同士の戦いでしか見ることのできない、一見無意味にも思える、長いにらみ合い。
呼吸をすることさえ疎ましい、
引き延ばされた時間。先には動くな――ラウディの本能が告げる。
しかし沸騰した戦意は、冷静な戦略をあえて拒否した。
「!」
先に動いたのは、ラウディだった。
速い。その巨躯からは想像しがたい素早い踏み込みで、ラウディはレナスの間合いに侵入した。
レナスの、横への跳躍。視界の端でとらえ、その方向に〈ラグナロク〉をなぎ払う。
固い感触。だが、骨の砕けた鈍い音はしなかった。
レナスが、その聖装束のふところからいつの間にか取り出していた、短剣。それが、〈ラグナロク〉の大刃を受けとめたのだ。それは紛れもなく、彼女が旅立ちの祭に大司教から受け取った短剣に違いなかった。
少しくすんだような錆色をした、奇妙な形状の両刃の短剣。やけに扁平で、刃の部分は異常なほど厚い。刀身の根本はそのすぐ下のつばの部分に流れ込むように広がっており、扱うのに少し邪魔なほど左右にせり出していた。
何かを斬るという本来の使命とはほど遠い、様式美に満ちた祭剣のようなたたずまいであった。
「それが〈聖剣〉アルキュゴスか。なぜ今までの戦いで、出さなかった」
「必要、なかったから」
短く答え、突進。言葉すらリズムをはかる道具として用い、迫り来る。
斬り、突き、蹴りに拳。細かな連撃を主体とするレナスに対し、ラウディは〈ラグナロク〉の大刃にものを言わせ、豪快な剣さばきで応戦する。
「〈聖剣〉を持ちながら、用いる必要がないと…?言ってくれるな。ならば、用いざるを得なくするまでよ!」
怒気混じりの声。自ら発した闘気を払拭するかのように、〈ラグナロク〉を構え、突進してくる。
「おおっ!」
一撃。二撃。上下からの連撃。上からのそれを〈アルキュゴス〉で受け止めたレナスは、まだ力も抜けるか否かの一瞬のうちに、その場を離脱。追いかけるように空を切ったのは、二撃目の赤い刃。だが、そこでは終わりではない。三撃目はリーチの長い突き。密着されることを警戒し、レナスは身をよじって刃を避ける…その方向に、四撃目の横薙ぎが殺到する。なんとか受けたが、〈アルキュゴス〉が短剣でなかったら、間に合ったかどうかは定かでない。
五撃目は、その巨体自身が武器だった。レナスに〈ラグナロク〉を受け止めさせたまま全体重をかけ、そのまま、地面を蹴る。
文字通り、押し斬るつもりなのだ。
「…くっ」
無表情のままだが、レナスの口から息が漏れる。とっさに〈アルキュゴス〉の刃を斜めにずらし、重量を横方向に受け流す。すれ違いざまに一撃を加えようとしたが、ラウディの動きは止まっていなかった。レナスの横に素早く着地すると、〈アルキュゴス〉に向け、そのまま、大刃をなぎ払った。この世に二つとない〈聖剣〉同士が、高速で摩擦し、火花を散らした。
「…っ」
またも、声ならぬ声を上げ、レナスは身をかがめた。そのまま前転し、頭上を薙いでいった〈ラグナロク〉をかいくぐって、ラウディの懐にもぐり込む。
これで、大剣は振り回せない。
「甘い!」
だが、その対処法をラウディは知っていた。剣の柄を握り込むと、そのまま自分の懐めがけて引き寄せた。後方に気配を感じ、攻撃を中止したレナスの頭のすぐ上を、〈ラグナロク〉の、それだけでレナスの短剣を越えるほどの長さの握りの部分がかすめていった。
少し判断が遅ければ、頭を割られていただろう。
「ち…」
短く舌をうち、レナスは、ラウディの間合いから神速の所作で脱出していた。
武器が大きければ大きいだけ、脅威は増すが、同時に隙も増える。だがこの男は、その理論を強引に打破している。いや、それとも、戦場では隙のある者など生き残れない、と言う理論を忠実に体現しているだけ、であろうか。
重いだけでなく、速い。
矛盾をある程度克服したラウディの闘法。レナスは、驚きともつかない嘆息をひとつ。
「…強い。強いですね」
「お褒めの言葉、ありがたく頂戴する。だができれば、同時にその首も頂きたいのだがな」
なおも、戦意は揺るがない。強敵。素直に認め、レナスは、ちいさく、口を開く。
「…主よ。全ての力、解き放つこと…お許し下さい」


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