「…つぶやいた。
その刹那…レナスの姿が、炎に包まれた。
「なっ……?!」
ラウディは、目を見開く。
しかしそれは、彼女の後方で、強烈な発火がもたらしたことでの、目の錯覚だった。
館の二階部分から、火が出ている。かなり激しい…燃え広がっているのではなく、すでに燃えさかっている。
明らかに、自然発生的なものではない。
赤々とした閃熱の舌が、壁と言わず窓言わず、そして人と言わず…極めて平等に、愛撫を加えていく。
その先に待っているのは、死の快楽だった。
「火、火だ!火が出たぞ!」
「早く消すんだっ…誰か、他に動ける者はいないのか!誰かぁぁっ!!」
動乱と炎が、騎士たちを包み込もうとしていた。あまりに突然の出火に、ラウディも平静ではいられない。
「き、貴様っ…!我が館に、な、何をした!」
「あなたの部屋に行くまでに…お館に、細工をしました。騎士さま全員のお相手をするのは、骨が折れると思いましたから」
極めて冷静なレナスの声とは裏腹に、火の手は、見る間に激しくなる。計算されたレナスの火計と、負傷して動けぬ騎士たちと…鎮火する要因は、限りなくゼロに近い。
ラウディが発した戦いの号令よって、自陣の守りすら忘れさせられていた騎士たち。
混乱、平静、昂奮…激動にさらされ疲弊した精神は、もはや、剣を握ることしかできなかったのだ。
人の心に、毒を盛る。暗殺術の極意のひとつが、炎の中で揺らめいていた。
「馬鹿な…!」
〈ラグナロク〉だけでなく、聖堂騎士団全体をも狙ってくるなど…予想も、しなかった。いや、たとえ臆病なまでに警戒していたとしても、その上を行かれただろう。理論や理屈ではない。反応で、危機や危険をくぐり抜けるように、彼女は、作られているのだ。
それは仕組み。それはシステム。
彼女は、きわめて自動的だった。
息も絶え絶えのラウディに、レナスは…容赦なく、斬りかかった。
「!」
とっさの反応で、刃を鎧の腕の部分で受ける。痛みより強いしびれが駆け抜けた。
「勝負は、まだついていません」
「……!」
言葉はなかった。呆れ、叫び出したいような怒りが精神を焼き焦がす。
もう少し彼が精神的に未熟な人間であったら、泣き出していてもおかしくなかった。それほどの、窮状だった。
攻撃は単発では終わらない。全体重をのせた致命打を、あらゆる角度から休み無く、隙もなく、連続で。
全て、急所を狙って。
「ぐ…!」
何とか捌いてはいるが、読んでいるわけではない。瞬時の反応と、歴戦の勘が、薄皮一枚で彼を
死の現実から守っているに過ぎない。そしてその向こうでは、少女の顔をした死神が、無表情に、一切の戦略も狙いも見抜けない鉄面皮で、剣を振るい続けている。
裏の裏は、表ではない。回り込めばそうするほど、深遠な闇の彼方へ…。暗殺術とは、その境地にある術。単純な力強さや速さではなく、深さで、相手を包み込み、永久の眠りへと誘う。夜という、暗殺者にとって理想のフィールドでの戦いは、ラウディに大きな苦境をもたらしていた。
(強い…!!)
爆発的な膂力と、芸術的な技術と…何より、溢れるほどの戦意。殺気。吹けば飛び、締めれば折れるような細く小さいこの体の一体どこに、そんなものが…考える間もなく、雨と降る剣撃の連打を振り払い続ける。だがここまで追いつめておきながら、レナスの表情は、やはり、無かった。あくまで平静に。勝利への焦りも油断もない。
だからこそ、手加減などあろうはずもない。
究極の意味での、正々堂々。騎士道精神にも似た、いや、それをすら凌駕した、殺しの礼儀。
背筋に流れた冷たい汗でそれを感じ、ラウディは奥歯をかみしめた。
「ぬぉっ!」
一瞬の隙を強引に作り出し、ラウディは〈ラグナロク〉を一閃した。獣の反応で飛び退き、間合いを置いたレナスに、ラウディは剣を向ける。
「見事…見事よ。その所作、神か獣か、それとも悪魔か。…だが、この〈ラグナロク〉だけは…決して、渡しはせんぞ!!」
ラウディは〈ラグナロク〉を最上段に構えると、体を震わせて咆吼し、そのまま全力で突進した。
相手の獲物は短剣…いかに技巧に優れようと、長剣であるこちらの有利は変わらない。
貫かれ、切り刻まれようと…貴様も、叩き潰す。
全身の筋肉がきしむ。呼吸を整え、まっすぐに前を向く。
少女の細腕など言うに及ばず、その体ごと、両断する。
レナスも、真正面に体を向ける。避けようとする素振りは、ない。
「おおおおおおおッ!!」
突進から、跳躍。全体重を乗せた一撃が、振り下ろされ…空気すら切り裂く鬼神のごとき斬撃。
その場に、赤い花が、散った。
時が、止まる。鈍い手応え……ラウディは唇をゆがめる。
……しかしそれは、勝利の笑みでは、なかった。
散ったのは…血ではなく、鮮やかにその場を照らした、火花だった。
数瞬遅れて、甲高い金属音が周囲の壁を打ち、はるか遠くへとこだましていった。
「……くっ!」
受け止めて、いる。
正面から。ラウディの一撃を。
「あなたは…理解していないようですね」
〈ラグナロク〉の刃を完璧に防御している〈アルキュゴス〉の、その向こうから、視線が突き刺さる。それは、冷たくもなく、また白熱しているでもなく…戦いの中にあって、あまりに平易だった。
「本当の〈聖剣〉の使い方を。意味を。その…力を」
徐々に、押し返されている。額に血管まで浮かべ、渾身の力で抗うラウディだったが、レナスは、血管どころか表情すら浮かべることもなく、確実に眼前の巨体を追いつめていく。
やがて、形勢は完全に逆転した。腰が折れ、そして、膝が、地に付く。
まるで、主にひざまずく信徒のように、ラウディはレナスを見上げた。
「…膝、つきました。私の、勝ちです」
つぶやき、レナスは唐突に剣を引いた。勢い余って倒れ込んだラウディの腹部、鎧のパーツの継ぎ目に、何の前触れもなく、左拳を突き刺す。
「ご…ぁ!」
息が詰まる。胃液が逆流する寸前、その無防備な側頭部を、容赦なく蹴り飛ばした。二回ほど横転して、炎に彩られた、夜闇になお鮮やかな花畑に突っ込んだ姿を見ても、レナスの表情は、変わらない。
「約束通り、〈聖剣〉は、もらい受けます」
言い放ち、レナスは〈アルキュゴス〉を、ラウディに…その手に力無く握られた、〈ラグナロク〉に向ける。
「…目覚めよ。〈あつめしもの〉」
厳かな宣言に誘われるかのように、〈アルキュゴス〉が、かすかに発光し始めた。
植物の葉に走る葉脈に似た紋様が浮かび、そこに赤々とした光が満ちる。
輝く短剣を、闇に染まった空にかざし、レナスは、言う。
「来たれ。新たな主、我がもとへ…召剣〈ラグナロク〉」
言葉が終わると同時に〈アルキュゴス〉は、短い刀身に光を集中させる。赤光はやがて粒子の束となり、虚空を切り裂いて〈ラグナロク〉にまとわりついた。
「…な…っ、小娘!貴様、何を?!」
「……」
レナスは答えない。
ただ、冷徹に、その儀式は進行していった。
「剣を、離せ!」
ラウディは本能的に危険を感じ、赤光に絡め取られた〈ラグナロク〉を痛む腕で力任せに引っ張るが、ぴくりとも
動かない。たとえ彼が全快の状態であっても、
結果は同じだ。物理的な反抗が通じる次元のものではないのだ。
そのときの彼に…運命の糸というものは、赤い色を、しているのだと。
説明できる人間は、残念ながら、存在しなかった。
やがて、光は〈ラグナロク〉全体を包み込み、その長大な刀身すべてを……
赤い粒子に、分解してしまった。
「なっ……」
文字通り霧散した愛剣。手から、腕から、抜け落ちていく。こぼれて、滑り落ちてゆく。
そして、それらはすべて、重力に逆らうようにして〈アルキュゴス〉の刀身に吸収されていく。
砂が水を吸う速度で、〈アルキュゴス〉は〈ラグナロク〉を、すべて、飲み干した。
視界が、思考が、赤い波に遮られて…次に気付いたとき、その…右手の、あまりに軽さに。
ラウディは、驚くことすらできなかった。拍子抜けしたように、レナスを、そして、その手の中に赤く脈動する短剣を、呆然と眺めている。
「召剣、完了」
それが、どういう意味であるのか…彼の脳は、もはや理解を拒絶した。
だがレナスは、何もかも意には介さない。手に入れたモノの、試運転。すべきことは、後はそれだけ。最後の仕上げに向け、少女は小さく息を吸った。
「我は欲する……血の赤、流れる刃。出でよ、〈ラグナロク〉」
刹那。〈アルキュゴス〉が、躍動した。さきほど集めた光を逆流させるように、その身から光の粒をあふれ、こぼれさせる。血の色をしたヴェールが闇に消えた、その奥には。
「ば…か、な」
小さな、少女の体に。その赤い大剣は、いささか不釣り合いにも見えた。たとえば天使が悪魔の鎌を持つような違和感と…だからこその、凶悪な美しさ。
二律背反を兼ね揃えた、異次元の美だった。
「良い剣…。聖剣〈ラグナロク〉、確かにもらい受けました」
右手に〈ラグナロク〉を携え、レナスは静かに宣言した。
「あ…あ、ああ…」
ラウディが、レナスに対して抱いた感情。それは、恐怖に他ならなかった。圧倒的な力の差を見せつけられ、剣も奪われ、館すら焼かれ…なすすべは、ない。
今日この日、このときまで、彼に〈ラグナロク〉を向けられて恐怖してきた人間たちと、全く同種の感情が、彼を締め付ける。

もう、だめだ。

殺される。

汗も出ない。声も出ない。ただ、恐れだけが無尽蔵にふくれあがり、心臓をつかみ上げる。
不意に、その場に鐘の音が響く。一日の終わりと、始まりとを同時に告げる、教会の鐘であった。
聖都にあるすべての聖堂が奏でる荘厳な単音は、規則正しく、重々しく、十二回繰り返される。

ひとつ……ふたつ、みっつ。

音を重ねるたびに、レナスが、近づいてくる。
赤い大剣を携えて。迷いなく、音もなく。

よっつ、いつつ、むっつ……

「くっ…来るなっ、来るなっ…」

ななつ、やっつ。ここのつ…

「あ、ああ……あああああああああ!!!」
鐘の音が聞こえたのは、そこまでだった。無様に咆吼し、ラウディはレナスに向け、突進した。
戦術も戦意もない。ただの反射行動。レナスは、ふっと息を吐くと、
「さようなら」
駆け抜けた。〈ラグナロク〉を一閃させ、ラウディのすぐ横を。
一拍遅れて、硬直したラウディの体から、赤いものが舞う。だが、血液特有の錆臭さはない。
斬ったのは、体ではない。その奥にある、魂だった。
生命の灯火の根元を、レナスは一刀のもとに切り伏せたのだ。物にあらざるモノを斬る…
それが〈聖剣〉。彼女の振るう、真の意味での〈聖剣〉だった。
断末魔すらなく、ラウディの体は崩れおれた。体中の筋肉が弛緩し、目は開いたまま、顔から地面に突っ伏す。
弱々しい呼吸は、いずれ途切れる。
だがその絶息は、レナスの耳には届かない。
やがて、〈ラグナロク〉は再び赤い粒子となり、光と共に霧散した。後に残ったのは、未だかすかな脈動を続ける〈アルキュゴス〉。
それを懐に収めると、レナスは歩き出した。
まずは、ひとつめ。そしてつぎは、ふたつめ。
聖務は、始まったばかりだ。旅立ちは、早いほうが良い。
ますます勢いを増す炎に赤々と照らされた純白の聖装束が、やがて見えなくなる頃、十二回目の鐘の音が、重く遠く、響いた。

次頁