『(タイトル未定)』
第一章 幸村、満身創痍
(4)
目覚めると、一人の女がいた。
「あ、お目覚めに御座いますか」
見るからに侍女といった様子の少女だ。幸村よりも年下だろう。
「…?」
「片倉様より、御方様のお世話を仰せ付かりました。あやめと申します」
「…あ…か、かたじけない」
女の世話は女にさせるのが一番、ということだろうか。だが、引っ掛かることがある。
「…その、御方様…というのは、止めて下さらぬか。某は…」
「え? でも奥にいらっしゃるからには、伊達様の御方様となられるのでしょう?」
「お、奥!?」
ぎょっとして身を起こそうとするが、激痛に阻まれてしまう。
「…っ……」
「まあ、いけません! 薬師様から、まだ絶対安静と言い付かっております。何かおありでしたら、どうぞそのままで、このあやめに
お申し付け下さいまし」
まだ年少のようだがしっかりしている。言うべきところはぴしゃりと言う。この気性だからこそ小十郎は彼女に、訳有りである幸村の
世話を言い付けたのだろう。
…いや、感心している場合ではない。ここが、どこだと?
「あやめ殿、ここは」
「まああ、勿体無うございます。殿、などとお付けにならないで下さいまし。私が片倉様に叱られてしまいます」
「…あ…、で、では、あ…、あ…、………あやめ」
顔を赤くしてどもってしまう。思えば真田や武田の家邸でも、侍女と接するのは苦手だった。まして名を呼んだことなど、あったかどうか。
「はい。何でございましょう」
しかし、あやめは気を悪くする様子も無く、微笑を絶やさない。内心ほっとする。
「…そ、その…。ここが、奥だと、申されたか」
「はい、申しました。ここは奥州筆頭伊達政宗様がお治めになるお城のひとつ、長谷堂城。その離れ奥でございます」
ああ、と居た堪れない気持ちで目をぎゅっと瞑り、唇を一文字に引き結ぶ。まさかそんな所に寝かされていたとは。それでは誤解されても
仕方がないではないか。
だが、そんな幸村の反応を見たあやめは更に誤解したらしく、慌てて言葉を重ねる。
「ご安心下さいませ。ここへ入られたのは、御方様が初めてでございますよ。あ、勿論米沢城にも、まだどなたもおいでになりません」
「な…っ!?」
安心させるように微笑むあやめだが、言われた方は返って混乱が増すばかり。
「し、しかし、奥方様は!?」
「伊達様には未だ、御正室も御側室もおいでになりません。ここはずっと使われておりませんでした。奥へ招き入れられた姫君は、御方様が
最初のお一人目でございます。ですから、気兼ねなさることはありませんわ」
「…」
にこにこと語るあやめ。その驚くべき内容に、横になっている筈なのに頭がくらりと傾いだ。一国の主たる政宗が、十九という歳で未だ
妻帯していないというのも驚いたが、そんな状態で自分が奥に居るなど、居た堪れないどころの話ではない。このまま御方様扱いなど
されては大変だ。奥州を治める身である政宗が、どこの馬の骨とも分からぬ傷負いの女を奥へ運び込んだなどと、もしどこかへ漏れ伝わり
でもした日には、途端に醜聞となって流れてしまうだろう。…そもそも小十郎から彼女には、自分はどういう身の上だと話が通っているのだ?
あからさまに顔が困惑していたせいか、あやめが小さく苦笑した。
「御方様でいけないようでしたら、お幸様と、お名前で呼ばせて頂いてよろしゅう御座いますか?」
「お、おゆき………」
気を利かせてくれたのだろうか。それにしてもお幸とはそのままである。まあ、幸村の単純な気性を考えれば、凝った偽名を付けられた
ところで、すぐにボロが出るのが関の山なのだが。
「お幸様に何か事情がおありだということは、含み聞かされております。私は何もお尋ね致しませんし、こちらで見聞きしたことは絶対に
他言致しません。どうか、傷が癒える間だけでも、ごゆるりとお気を楽になさって下さいまし」
「………」
まったく、出来た侍女だ。
無論武田の侍女とて良い働きをする者達ばかりだが、無意識に避けてきた幸村にとっては、間近に見る有能な侍女は率直に言って物珍しい。
そこへ、足音が二つ近づいてきた。これは男のものだ。
「幸村、起きてるか。入るぜ」
起きているかと尋ねながら、返事を待たずに襖が開いた。あやめが慌てて頭を下げる。その姿を見た政宗が、不機嫌そうに眉を寄せた。
「おい…何だお前は。人払いを命じた筈だぞ」
「恐れながら、この小十郎が手配致しました。お幸様の身の回りのお世話を申し付けまして御座います」
不機嫌をそのままに、背後の小十郎を振り返る政宗。だが彼は涼しい顔。
「必要な処遇かと」
「………」
確かにそうだが納得はいかない、というような表情で、政宗はあやめに視線を戻した。
「…後で呼ぶ。下がってろ」
「は、はい」
更に深く頭を下げ、あやめは足早に部屋を辞した。
その足音が遠ざかっていくのを確かめてから、政宗は手にしていた盆を幸村の枕元に置き、座った。小十郎は今度は下座ではなく、主の
斜め後ろに控える。
「…気分はどうだ。どのくらい起きてた」
「………あ」
いかに怪我人とはいえ、この状況で政宗を相手に寝転んだまま話をするわけにはいかない。そう思い体を起こそうと身じろぐが、やはり
激痛が走る。
「Stop」
そう言いながら、布団の上から肩を押さえられる。言われた言葉の意味は分からなかったが、その仕草に止められ、体から力を抜く。
それでいい、とばかりに頷かれた。
「言っただろ。アンタにはさっさと傷を治してもらわなきゃ困るってな」
「…申し訳ござらぬ…」
「そう思うんなら余計な気遣いはナシだ。細かいことは気にすんな」
「し、しかしここは、…奥は、困りまする」
ここはしっかり主張しておかねばと、顔を真っ赤にしながら幸村は政宗を見上げる。さっきまで不機嫌そうだったのが嘘のように、
完全にこちらをからかって喜んでいる顔だ。
「そ、某は捕虜に御座りますれば、奥に留め置かれるのは困りまする」
「Han? 別にいいじゃねぇか。そんなに困るような事か?」
「な、な、何を暢気な…! あやめ殿…あ、いや、あやめも、最初は某を、その、お、御方様と呼んだのですぞ!!」
湯気が出そうなほど顔も耳も首も真っ赤にして憤慨する幸村。しかし、そんな幸村の様子さえ面白がっている政宗には何処吹く風。
「Hey Lady。そう興奮すんな。傷に障るぜ」
「政宗殿!! 片倉殿からも注進なさって下され!」
「…残念ながら、他に適切な場所がねぇ」
「片倉殿!!」
この点に関しては味方になってくれると期待した相手が、難しい顔をしたまま不同意を示し、幸村は慌てた。だが、小十郎は淡々と続ける。
「実際、『真田幸村』は捕虜としてこの長谷堂城の牢に繋がれている。お前は戦に巻き込まれ傷を負った所を政宗様の目に留まり、ここへ
運び込まれた『お幸』という女だ。そういう事になってんだ。これ以上話をややこしくさせるな」
「…牢に、繋がれて…? …まさか」
影武者。流石にそれを察することが出来ぬ程の世間知らずではないようだと、小十郎は頷く。
「自分の正体を明かしても構わないなら話は別だが、どうする」
「駄目だ」
きっぱりと言い切ったのは幸村ではなく、政宗のほうだった。
「…」
これには幸村も驚いた。しかしその反応が政宗には意外だったのか、眉間に皺を寄せる。
「何だ。知られちゃマズいんじゃねぇのか」
「あ、そ、それは…拙うござる」
「だったら文句はねぇだろ」
「は………。…あ、いや、しかし! …しかし、その…ですから…」
危うく丸め込まれるところだったと自分を叱咤する幸村だが、かといって他に何か良い案があるわけでもなく、結局語尾がしゅるしゅると
小さく萎んでいく。
ぷっ、と政宗が吹き出した。
「それだけ喋る元気があるなら、心配いらねぇな」
「………」
思わず言葉を飲んでしまう幸村。独眼竜に穏やかな目でそんな事を言われては、もう何も言えないではないか。
「小十郎。お前も下がってろ」
さらりと命じる政宗。小十郎は軽く頭を下げて恭順の意を示し、黙って立ち去って行った。
「あ…」
その姿を見送る幸村。彼は終始渋面で、それが気になった。
政宗が手合わせを快諾してくれた縁で、戦場以外でも関わる機会の多くなった人物だが、あまり快く思われている気配ではないことは、
幸村も薄々感じていた。ということはやはり、この状況も彼にとって喜ばしい事ではないのだろう。
申し訳無いような気持ちで、襖の向こうに消えた小十郎に視線を送りつづける。その視界を、ふと大きな手が塞いだ。それはそのまま、
幸村の額にぴたりと貼り付いてくる。
「っ……」
「…よし。熱ももうねぇな」
穏やかな声とひんやりした手の感触。思わず体を固くしてしまう。大きな手はすぐに離れて、幸村は密かにほっとした。
「そう警戒すんな。首獲る気はねぇっつってんだろうが。案外失礼な奴だなアンタ」
「! そ、そのようなつもりは…」
気取られていないと思ったのは完全に間違いだった。慌てて政宗のほうを向く幸村だが、すぐにむぅと膨れてしまう。言葉とは裏腹に、
彼はにやりと笑っていたのだ。
「…政宗殿はお人が悪うござる」
「Ha-Ha!」
思いきり声に出して笑われた。幸村は益々しかめっ面になっていく。
「某をからかって、そんなに面白いでござるか」
「ああ面白いね。アンタすぐ顔や態度に出るからな」
完全に子供扱いだ。幸村は拗ねた勢いで、ぷいと顔を背けた。それでもやはり、政宗はくつくつと笑っている。
「機嫌直せよ幸村。薬飲ませとけって薬師から言われてんだ。こっち向け」
「く、薬…」
ぐっと詰まり、そろりと枕元の盆を見る。その上には薬が入っているであろう茶碗と、起き上がれない幸村のために吸い口が乗っていた。
「…に、苦いのであろうか…」
「美味い薬ってのは聞いた事ねぇな」
肩を竦める政宗。確かに、と幸村もぐっと顎を引く。とはいえ、世話になった薬師殿が用意してくれたものだ。まさかいらないという
わけにもいかない。それに、そういえば喉が乾いた。薬を一気に飲んでしまって、後であやめに水を頼もう。
そう心を決めた幸村の表情の変化を愉しむ政宗。更に面白い悪戯を思い付いたという様子で、幸村のほうへ体を傾けてくる。
「…薬、甘くしてやろうか」
「そんな方法があるのでござるか?」
きょとんと目を瞬かせる幸村に、政宗は僅かに左目を細めた。
もしや蜂蜜でも混ぜるのだろうか、いやしかしそんな高価で貴重なものをわざわざ、と考えている幸村を余所に、政宗は茶碗を持ち上げる。
「息は鼻でしろよ」
「は?」
言うが早いが、ぐいと中身を全部口に含む。そのまま幸村の上体に覆い被さり、両手で頭を固定して、幸村の唇を押し開くように口付けた。
何が起こっているのかわかっていない幸村は、あまりにも近い政宗の顔に驚いて目を見開いた。政宗のほうは更に目を細め、幸村の顎を
掴んで噛み合わせを緩ませ、舌を捕えた。
ようやく接吻されているという状況を飲み込めた幸村が体をぎしっと竦ませ、どうしていいのかわからないとばかりに手をじたばたさせる。
だが、舌先に苦い液体を乗せてやった途端、びくりと震えて大人しくなった。ゆっくりと薬を幸村の舌へ移し、飲み込ませてやる。それを
根気強く繰り返した。最後の仕上げとばかりに舌を絡ませ、政宗の口内へと引き込む。
「っ!!」
びく、と震える幸村の体。咄嗟に手が政宗の着物を掴んだ。
乱暴に幸村の舌を操る政宗は、こちらの口内に残った苦味を全部持っていけとばかりに、舌の奥や裏、歯列まで彼女の舌先でなぞらせ、
それからやっと唇を離した。
はあっ、と熱い吐息が解放された幸村の唇から零れる。息が上がってしまったようだ。
「…なっ、な、なっっ」
「甘かったろ?」
にやりと笑う政宗に、幸村は顔面を爆発させた。
「あっ、あっあっ味など分かり申さぬ!! 政宗殿がかように破廉恥な方とは、甚だ存じませなんだっっっ!!」
くくっと喉で笑って、ぺろりと唇を舐める政宗。赤い舌が生々しく、艶かしく映って、そしてはっと政宗の着物を掴んだままだったことに気付く。
慌てて手を布団の中へ戻すと、そんな仕草も面白いとばかりにまた笑われ、前髪をくしゃりと掴まれた。いや、これは撫でられたのか。
「時々様子見にくるからな。いい子にしてろよHoney」
「いいえ!! さぞお忙しゅう御座いましょう!! 某には構わず、政に励んで下され!!」
「そんだけ腹から声が出りゃ上等だ」
愉快そうに声を上げて笑った政宗は上機嫌で立ち上がり、盆を持ち上げた。余裕綽々な様子が腹立たしくて辺りを見回したが、品良く
纏められ調度品のほとんどないこの部屋には、彼の背中に投げ付けてやれそうな物は何もない。結局頭から湯気を出しながら、にやりと
笑って襖を閉める政宗を睨みつけることしか出来なかった。
唇を噛んで、そこに苦味が残っていることに気付く。鮮明に残るのは、あまりにもいきなりすぎた、他人の粘膜と擦れ合う感触。
(…随分と慣れておられた)
それはそうだろうと思う。奥方がいないからといって、政宗の立場でこれまで女性経験がないということはないだろう。そう思った途端、
胸の中に靄が立ち込めた。
嫌だ。何が嫌なのかは分からない。ただ幸村は、強烈に何かが嫌だと思った。
それは無遠慮にからかってくる政宗に対してなのか、男にも女にもなりきれなくなってしまった自分のことなのか。
今はまだ分からない。それでもとにかく、嫌で嫌で仕方がなくて、早くお館様の元へ帰りたかった。そうすれば身の内に巣食った女の
気配など消え失せて男に戻れると、幸村は頑なに信じていた。
幸村が苦悶している頃、政宗は正反対に上機嫌だった。
口移しで薬を与えたのは全くの気紛れだったが、こちらの予想以上の反応だった。顔どころか耳や首まで真っ赤にして憤慨する様子は、
初心どころの話ではない。あの調子では、男女の営みに関して、手ほどきどころか知識としてさえ碌に教えられていないだろう。
はた、と足を止める。
「…ってことは………first kiss…か」
政宗にとっては今更キスなど手順の一つでしかないが、幸村にとっては違う。違ったのだ。
幸村が女と知って政宗がまず疑ったのは、彼女が信玄の寵姫なのではないかという事だった。しかしそれにしては色事の匂いがしない。
そもそもそういう事なら男装させて戦場に連れ出したりはしないだろう。いくら腕が立つといっても、愛妾を将に立てて一番掛けを許したり
はしない…と思う。常識的には。少々常識の通用しない熱血集団である武田軍だが、そこまで破天荒ではあるまい。
そして実際、幸村は寵姫などではなかった。あの反応からして間違い無い。
その確信を得られた事が、何故だか妙に政宗の機嫌を上向かせた。それどころか、あの純な幸村のファーストキスの相手は自分だと
反芻するだけで、気分がハイになってくる。
次はどんな悪戯を仕掛けてやろうか。玩具の新しい遊び方を発見した子供のように、政宗の左目は輝いていた。
戻って来た政宗のその様子に、控えていた右目が一瞬眉を顰めてしまう程度には、舞い上がっていたと言っていいだろう。
一瞬小十郎の胸を不安がよぎった。
遊んでいる内はまだいい。だが、万が一政宗が本気になってしまったら。
やはり幸村を匿うべきではなかった。いや、それ以前の段階で政宗に近付き過ぎる前に引き離すべきだった。そして同時に、心底思う。
今更悔やんでももう遅い。
たとえ天へと駆ける昇竜であろうとも、一度炎に全身を巻かれてしまっては、逃れることなどできないのだ。
UPの際の海原のツブヤキ…興味のある方は↓反転して下さい(大した事書いてません)
ハイお約束!! という感じで(笑)
しかしこんなにジタバタ動いて傷口開かないのかと書いた自分が心配しました。
…ああ、傷口開いて血が滲んで慌てる筆頭というのもレアで面白かったかもしれませんね…。しまった。
しまったといえば、戦国時代の蜂蜜ってどういう位置付けだったのか調べるの忘れてました。あんまり大量に取引されてるイメージとか、
お百姓さんや町人が普通に口にしているイメージはなかったんですが。
かといって高価で貴重というほどのものだったのか…そもそもこの時代にもう蜂蜜ってあったんだっけ? という基本的なところからして
調査不足。
これぞ海原クオリティ(だめじゃん)