+-mix「プロローグ」【ニ年前】-+

プロローグ〜キョン&イツキ
【ニ年前】・前・









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 過去がなくても生きていける。でも、あなたのいない未来なんて考えられません。

 怖いくらい真剣な声が、頭の中を何度もリフレインする。
 僅かに高い位置にある目を見上げると、その見上げる角度を悔しがる余裕もないほど、真摯な瞳に囚われてしまった。
 整った顔が、余裕のない熱を帯びて、自分に向けられている。かっ、とこちらの頬まで熱くなる。顔を上げてしまったのは失敗だった、 大失敗だった。ぶんっと音がするんじゃないかと思うくらいの勢いで首を振って、無理矢理顔を逸らす。
 じわり。彼の気配が近づく。元々近くにあった気配が更に。
 何か言わなければと思うのに、強張ってしまって口が動かない。逆に彼の薄い唇が開いた。思わずぎゅっと目を瞑る。
 言うな。もう言うな何も言うなこれ以上何も。
 念じただけで通じるはずもなく、あいつの声が。
 声が。


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「キョン!! キョンキョンキョンキョンキョ〜〜〜〜〜ン!!!」
「うわあっ!?」
 ガタガタドッスン、と音を立てて派手にすっ転んでしまった。
 状況を把握できずに目を白黒させていると、「やれやれやっと戻ってきたか」と子供のようなタルタル独特の可愛らしい声が降ってくる。
 見上げると、仕事場の自分のデスクの上に一人のタルタルが仁王立ちしていた。今耳元で叫んだのは彼だ。知らない顔ではない、 それどころか直属の上司にあたる人物。
「どうした? 今日は亡霊みたいな顔で来るなり、ボヘーッと座り込んで」
「あ…」
 そうだ。
 ここはウィンダス、口の院の事務室だ。

 口の院とは、要するにウィンダスの魔法戦士軍のことである。魔法大国ウィンダスの魔道軍が誇る世界最高峰の魔法修練道場があり、 うっかり足を踏み入れると精霊魔法の餌食になることがある、意外と危険な職場だ。だが、耳の院―――これは魔道学校のことである ―――に妹を進学・入寮させているキョンにとって、石に齧りついてでも離れ難い大事な職なのである。危険が伴う政府直属機関だけ あって、給金がとてもとても良い。
 それに口の院の事務仕事は、この書類あっちの院に持ってって、ギルドからこれこれこれを買って来て、天の塔行ってちょっと神子様 から神託貰ってきて、等々、意外とお使い系の雑務が多い。そのため、ヒュームであるキョンの足を買われ重宝されている。使いっぱしり と言ってしまえばそれまでだが、なにしろウィンダスは広い。タルタルとヒュームのコンパスの差は案外重要なポイントでもあり、他にも エルヴァーンが二人、似たような仕事に従事している。
 ウィンダス口の院勤務ということは、すなわちウィンダス軍の一員という扱いであるため、事務員とはいえ書類上の扱いは「軍人」 ということになる。だが、勿論軍に関わる仕事どころか戦闘訓練や魔法修練を行うことはない。水晶大戦で主だった魔道戦士達が戦死して しまった為、口の院は組織の建て直しと若手育成に必死なのだ。魔法に関してど素人であり、妹と違って素養もないと太鼓判を押された キョンに、実戦や実践を期待されることなど、天地がひっくり返っても有り得ない。そんなわけで、キョンは安心して日々フットワーク 軽くお使い仕事に励んでいたわけだが。
 今日に限っては、フットワークどころか足が消えて幽霊になったんじゃないか、と疑われるほど、ボケーッとしてしまった。

 仁王立ちをしていた事務長はやれやれと肩を竦め、ぴょこんとヒューム用の机からタルタル用の机に降り、そこから椅子に降りて、 やっと床に着地した。
「ま、今日はそんなに忙しくないからいいけどな。有休だいぶ溜まってるだろ。使ってもいいぞ」
「えっ、いえ…」
「いいじゃない。折角だからイツキ君と旅行でも行ってきたら? 普段見ない景色見たら、何か思い出すこともあるかもよ?」
 同僚であるエルヴァーンの女性がクスクス笑う。だが、出された名前にぎくりと小さく肩が震えてしまった。キョンはその震えを 振り払うように、ブンブンと顔を左右に振る。
「そんな、無計画にほいほい出掛けるわけにはいかないですよ。冒険者じゃあるまいし」
「カタいなぁ、キョン君てば」
「ま、それならそれでいい。目覚まし代わりに、演習場にいるハルヒさんにこの書類渡して来い」
「げっ!」
 一気に目が覚めた。
 演習場に前院長ハルヒがいる、そしてそこへ行ってこい、とな。
 ざっと顔を巡らせると、誰もが皆「ああ助かった」という顔を一瞬だけ見せ、キョンと視線を合わせないようにそそくさと仕事に 戻ってしまった。
「ちょ、なんでそうなるんですか!」
「いいじゃないか、お前ハルヒさんのお気に入りなんだし」
「単に俺が下っ端だからって都合よく使いっ走りにされているだけです!」
「そういうのをお気に入りって言うんじゃないのか? それできるだけ早く頼むよ、正午までには間に合わせるように」
「って、あと十五分ないじゃないですか!」
 要するに今すぐ行って来いってことじゃないか、とガクリと顔をうなだれてしまうキョン。事務長はキョンの手に書類を握らせると、 ぴっと右手を上げた。
「確かに頼んだよ!」
 そのまま、てててと歩いて自分のデスクに戻り、羽根ペンをインク壷に突っ込んだ。後は何やら書き物仕事に没頭するのみである。
「…やれやれ」
 溜息混じりに呟いて、事務室を出た。時間が迫っているというのもあるが、面倒事はさくっと済ませてしまうに限る。

 事務室と演習場とは少々距離がある。渡り廊下をてくてく歩きながら、この距離ってタルタルにはちょっと長いんじゃないだろうか、 と余計な心配をした。しかし、確かにタルタルは体が小さい分他の種族に比べて足が短いけれど、その分ちょこちょこと跳ねるように 早足に歩く。そういう意味でプラスマイナスゼロか。いやいや、本当にプラスマイナスゼロならコンパスの差という理由でヒュームや エルヴァーンが重宝されている理由がなくなるじゃないか。もしやコンパスではなく抱えられる荷物量の差のほうが重要なのだろうか。
 と、あまり意味のないことを取りとめなく考える。意味のない思考は意識して止めない。それにしてもウィンダスは広いだろとか、 昨今広く冒険者に国を開くためエルヴァーンやガルカのサイズに合わせた出入り口や通路を用意しなければならなくなって大変だった だろうなぁとか、ああでもミスラと共存してきたんだから元々そういうのはあったのかなとか。
 どうでもいいことを、次々に。我に返らないように。
 我に返ったら蘇ってしまう。あの声が。
 だからキョンは、その思考が途切れないようにと、そればかりに注意がいっていた。
 通い慣れた演習場、そのヒューム用の扉を見つけてコンコンとノック。そのままの流れで扉を開ける。
「失礼しまーす」
「あっ、バカ!!!」
 は?
 と顔を上げた瞬間、目も眩むような閃光に包まれて。
「―――――っ」
 扉を開ける時は、必ず内側からの応答を待て。絶対に外から開けるな。
 礼儀以前の演習場の鉄則をスコーンと頭から飛ばしてしまったことを悔いてももう遅い。
 何かの魔力に包まれた。それは分かる。キョンにも分かるほど、その魔力は密度が濃く、そして強力だった。もしや、これが「古代」 とか呼ばれている魔法だろうか。だとしたら死ぬ。間違いなく死ぬ。こっちは魔道士でも冒険者でもない只の一般人なのだから、そんな とんでもない魔法を喰らって耐えられるわけがない。
(うわ、マジかよ。こんな終わりってありなのか。間抜けすぎだろ。くそっ、だったらちゃんと返事してやるんだった)
 あいつに。
 咄嗟に瞑った瞼、その内側すら閃光に焼かれる。真っ白に染め上げられた世界に、あのむかつくほど整った美貌を持つ青年が浮かぶ。
(イツキ)
 それが本当にお前の名前なのかどうかさえ確かめられないまま、こんなにあっけなく俺は逝くのか。
(わかってるよな、貯金はタンスの一番上の抽斗の奥だぞ。それと俺の部屋にある壷の底。お前の営業用スマイルと家事能力があれば すぐ働き口は見つかるだろうから、それまではそれで凌げ。悪いが妹を頼む。ああ、それに労災保険が降りるはずだから、手続をちゃんと―――)
 こんな切羽詰ったときでさえ、こんなことがぐるぐると駆け巡る。本当に伝えたいことは他にあるのに。

 真っ白な世界。が、唐突に帳が落ちたように真っ暗になり、そしてキョンは意識を手放した。


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 あいつを「拾った」日のことなら、よく覚えている。
 気候の穏やかなウィンダスにしては珍しく、滝のような大雨の日。真昼の筈なのにどす黒い雲に空一面を覆われ、雨で視界を奪われて いることもあって下手をすれば夜よりも闇に近い暗さだった。これで風と雷がセットになっていればまさに嵐だったんだろうけど、幸い そこまで凶悪なコンボにはならなかった。
 この大雨は神子の一人ミクル様によって予言されていて、だからどの家も事前に屋根を補強したり仕事の休みを取ったり、家畜を 避難させたりしていた。また、のんびり気質のタルタルと細かいことに拘らないミスラの国だからか、一日くらい仕事休みにしたって いいだろ、と政府直属機関である各院も臨時休業。こんな日に外を走り回るのは冒険者くらいかと思ったら、店や施設が軒並み休みになる という情報を聞きつけてか、冒険者達の姿もなかった。
 何故俺がそんな超の付く土砂降りの中を歩いているのかというと、「ミクルちゃんが国中に注意勧告するほどの大雨なんて、次いつ 来るかわからないわ!」と大興奮なさった偉大なる前院長様に呼び出され、あれこれ雑事を申し付けられたから、という至極真っ当かつ 理不尽極まりない理由からである。やれやれ。
 しかもその内容といったら、十分間で降る雨水の量を計測しろだの、雨水の成分を調べろだの、集めた雨水にそっちの試薬を一滴ずつ 混ぜろだの、意味があるのかないのかさっぱりわけのわからん事ばかり。まあいつもの事といえばいつもの事なので大人しく従っていた わけだが、こんなものは序の口だった。

「これだけの大雨なら水エレが沸いてもおかしくないわ。ウィンダス中をくまなく走り回って探して来なさい」

 …この大雨の中をですか。ていうか水のエレメントになんか遭遇したら一般人の俺って即死確実なんですが。
 決して口には出していないが顔に出ていたのか、前院長様は呆れて「エレメントは基本、こっちが手を出さなければ大人しいもんなの。 ちょっかい出さずに出現ポイントだけチェックしてくればいいわ。あ、証拠のSS(スクリーンショット)撮って来てね」と言って写真機を 投げておよこしになりやがったわけで。
 傘を突き破りそうな勢いの雨の中、街に沸くわけねーだろとブツブツ言いながらウィンダス港を回って、森の区に出た。俺って律儀だね、 自画自賛。
 誰もいない闇のウィンダス。
 ほんの数歩先も見えないような視界に、ふと見なれないものが飛び込んできた。

 それが、あいつだった。

 森の区の中央にある噴水、その縁に腰掛けて、ただ呆然と雨に打たれていた。中堅の冒険者達が身に付けているのと同じ装備、腰には剣。 だから俺は、最初この雨のことを知らずにやってきた冒険者が途方に暮れているのかと思ったんだ。
「おい、こんなとこでぼーっとしてると風邪ひくぞ。モグハウスに戻れよ」
 だから、軽い気持ちでひょいと顔を覗き込んで声をかけた。
 それでやっと異変に気付いた。
 あいつは目の焦点が合ってなかった。それどころか、意志の力すら感じられない。
 そのくせとんでもなく澄んだ綺麗な目で、しかもよくよく見れば超美形。イケメンというよりも美形。恐ろしく整った顔をしていたのだ。 うっかり同性の俺が目を奪われてしまうほど。
 不躾にじーっと見入ってしまったけれど、それでもあいつは何の反応も示さなかった。
「………おい、大丈夫か。聞こえてるか? 俺が何言ってるか分かるか?」
 はっと気付いて、肩を揺さ振ってみる。やはり全くのノーリアクション。
 面倒を抱え込むのはイヤだ。…それでも、彼を見なかったことにして放置してしまえるような人でなしには、なれなかったわけで。
「ハルヒさんすいません、路頭に迷ってるヒュームを保護したんで、一旦家に戻りたいんですけど」
 写真機と一緒に押し付けられた通信機(冒険者達が使っている端末にも同じ機能があるらしい)に恐る恐るそう告げる。さすがに そんなの放っておいて仕事に戻れとは言わないだろうけど、面白そうだから連れて来いとか言われたらどうしよう。
 だが俺の心配は杞憂だった。通信機からは『そう。わかったわ』といやにあっさりした言葉がすぐに返されてきた。
『考えてみれば、街にエレメントが沸いたりするわけないのよね。そんな事があったら、モンスターや獣人も入って来れる理屈になっちゃうわ』
「はあ」
 だったらはなっから調べになんか出すなよこの大雨の中! と言い返してやりたかったが、そんな恐ろしいことはとてもじゃないが 出来ない。それに、ハルヒさんが俺を外にやったから、彼を見つけることができたことも事実だ。
『今日はもうこっちに戻らなくていいわよ。写真機と通信機は明日返してちょうだい』
「はい、わかりました」
 従順に返事をして通信を切り、改めて彼を見る。しゃがんで目の高さを合わせるけれど、やっぱり目の焦点は合わないまま。
「おい、しっかりしろよ」
 とんとんと肩を叩き、軽くゆする。濡れそぼった髪から滴がぼたぼたと落ちて、彼はやっと、ぴく、と小さな反応を示した。
 触れられている肩の方向へ僅かに顔を傾け、それから腕を辿るようにゆるゆると俺の顔に目を向けた。自然、目が合う。
 やっと焦点の戻った目と、間近で見詰め合う。
 それでもやはり、言葉はない。
 吸い込まれそうな眼。その引力に抗って、俺は根気強く共通語で話しかける。
「大丈夫か? ここがどこだか分かるか?」
「―――――……」
「俺の言ってることわかるか? …もしかして、耳、聞こえないとか?」
 或いはヒュームの使う言語しか分からないのだろうか。水晶大戦時のアルタナ連合軍結成を機にクォン・ミンダルシア両大陸に浸透した 共通語だけれど、まだ一部には種族独特の言語しか分からない人もいる。彼もそうなのだろうか。
(どうする…俺物心ついたらもうこっちだったから、バストゥーク語なんて話せんぞ)
 キョンはヒュームだが、物心ついた時からウィンダスに住んでいた生粋のウィンダスっ子だ。その頃にはもう子供の教育は自国語プラス 共通語だったから、日常会話として使える言語はウィンダス語と共通語。書類を扱う仕事をしている関係上、他のニ国の言語については 読み書きなら多少できる。だがそれも名簿ありきの宛名書きに困らない程度であって、ヒアリングやらリスニングやらのほうはからっきしだ。
(まさかエルヴァーンの古語なんてとんでもないレア言語しか分からない、とか言わないでくれよ)
 普通に考えて、閉鎖的なエルヴァーン達の古語なんてヒュームはまず使えるわけがないのだが、それでもそんな事を考えてしまうくらい、 この時の俺は途方に暮れてしまっていた。
 ともかく、何か喋ってくれないことには、彼の素性どころか会話を成立させるための言語に何を選べばいいのかも分からない。
「……………?」
「え?」
 激しい雨音の間隙を縫うように、不意に。
「………トゥエ、ラ………レーネ……?」
 綺麗な顔は無表情なまま動かない。だが、ほんの僅かに首を傾げられ、そして意味不明な単語を呟かれた。何語だ一体。
 俺は今度こそ天を仰ぎたくなってしまった。なんてこった。俺の知るあらゆる言葉が通じないことは確定してしまった。他に分かった ことと言えば、とりあえず語尾にハテナがついてたらしいなとか、こいつ声も綺麗だなとか、そんなこと。
(って、何考えてんだ俺は!!)
 藁をも縋る勢いで通信機に視線を落とす。ハルヒ博士はとんでも上司には違いないが、魔力と知識もまたとんでもクラスである。困った 人を困らせたまま面白がるようなことも、ない、と思いたい。困っているのが俺ではなく彼自身だと納得すれば助けてくれるだろう。多分。
 だが。
 …結局俺は通信機に触れず、どうにか彼を自分の家に連れて帰った。



「とりあえず、風呂に入って体暖めてこい」
「………」
「風呂! ふ・ろ、だ。分かるか?」
 勢い良くバスタブに湯を注ぐ光景を見せながら、彼の顔を覗き込む。どうにか動き出してくれたので表情も戻るかと思ったが、相変わらず 表情筋は動かない。ただ、目が少し、困惑しているというか、途方に暮れている。…ような気がする。
 まあ、言葉も通じない初対面の男に家に連れ込まれたら、そりゃ困惑もするか。けど嫌なら嫌と意志表示するくらいには意志の力も 戻ったようだし、家までは軽く指を握って先導してきただけなんだから、振り払って逃げることも簡単だったはずだ。
 多分、困惑してるのは、見知らぬ他人の家だからという部分じゃない。
「いいから、ゆっくり肩までつかって、…」
 三十数えて出て来いと言おうとして、そんな細かいことは伝わらないだろうと思い直す。
「………」
 顔だけ振り返ってきた彼の背中を、ぽんと叩いて、笑って見せる。
「風呂入ってこい」

 彼を先に風呂に入らせておいて、自分は濡れた服を脱いでタオルで体中拭いて、それから二人分の足跡が水溜りになってしまった床を 拭いて、間抜けなことに事そこに至ってやっと彼の着替えのことに思い当たった。
 やべっと呟いて慌てて部屋着に着替え、一緒に彼の分の着替えを出す。そして、脱衣所のドアをノックして開けたのだが。
「っ、あぁ!?」
 思わずそんな声が出たのは俺のせいではない、こいつのせいだ! いくら何でも風呂が分からんことはなかろうと思ったのだが、美形は 濡れそぼった服と髪のまま、呆然と脱衣所で立ち尽くしていたのだ。足元には水溜り。
「お前、何してんだ風邪ひくぞ!」
「……………レー…、レー…?」
「れれれじゃねーだろ! ああもう!」
 ぶちんと何かが切れる音がした。浴室の扉を開け、彼を押し込む。男二人で風呂とかどんだけ倒錯してんだ、とかそんな冷静なツッコミ はなしの方向だ。
 バスタブに程よく溜まった湯を止めて、今度はシャワーのコックを勢い良く捻る。さっき着たばかりの俺の部屋着もびしょ濡れだが、 もう構わん。
「剣や鎧の手入れなんか俺は知らん。錆びても文句は聞かんぞ」
「…?」
「…えーっと、こうか」
 まだぼんやりしている彼の装備を、外から順に剥がしていく。男の衣類を喜んで剥ぐような趣味はない、断じてない。非常事態だ 今回限りだとぐるぐる脳内ツッコミをしながら、ベルトを抜いてズボンに手を掛けた。
「え………」
 いわゆるパンツ一丁という状態にさせて、俺は思わず固まってしまった。いや、おかしな意味ではない。決してそういう意味ではない。 俺が目を留めたのはまだ布に隠れているそこではなくて、太腿のほうだ。
 刺青。左右両方の太腿に、文字が彫り込まれている。
 目にした瞬間ピンと来た。これは恐らく、同じ単語を様々な言語で記してあるのだ。根拠のない勘でしかないが、しかし奇妙なことに 根拠はなくとも自信はある。そしてこういう時の俺の直感は大概当たってきた。だから多分、今回も当たりだろう。
 中には何の記号だと首を傾げたくなるものもあるが、比較的見覚えのある文字が二種類含まれている。サンドリア語と、バストゥーク語だ。 どう発音するのか分からないので、読めても読めないが…ってややこしいなおい。
 しかし、気になるのは、上下が逆になっていること。普通刺青って人に見られることを意識して彫るもんじゃないのか? これじゃ 読みやすいのは本人だけだぞ。
 それにボクサータイプの下着に隠れて、まだ黒い点が見える。これだけじゃないな、刺青。
「…。これは断じて、セクハラじゃないからな」
 通じていなくとも一応はそう断って、いよいよ彼を素っ裸にさせた。足元に固まっているズボンと下着を、片足ずつ上げさせて取っ払う。
 そうじゃないかと思ったが、やはり刺青はまだあった。太腿、そして下腹部。
 嫌な感じがする。そこはまず他人の目に触れない、最もプライヴェートな部分だ。基本的に自分の目にしか留まらないところに、自分が 読みやすいように、覚書のように刻まれた文字。それも、多数の言語を使って。
 何があったか知らないが、どうやらこいつが記憶喪失なのは間違いなさそうだ。それも、記憶のある間にそれが失われゆくことを悟っていたんだろう。
「……………イツキ」
 ぽつり。小さな自分の声が零れた。
 下腹部の刺青の中に共通語の文字を見つけ、無意識に口にしてしまっていたらしい。
「こっちも、『イツキ』だな」
 前述したように基本的に共通語世代なので他の言語は範囲外だが、ウィンダス語は分かる。
「イツキ…。…名前…? もしかしてお前の名前じゃないのか?」
 これも勘だ。確認するように視線を上げる。少し見上げる角度が悔しいが、そうして見上げた眼は、ひどく揺れていた。
「イ、ツ、キ…?」
「ああ。イツキ、だ。ここにそう書いてある」
「…イツキ………。…イツキ…イツキ…。ネィエ…イツキ……」
 また分からん単語が混じった。
「イツキ………。…ネィエ・メ…イツキ。……イツキ………、…イツキ・コイズミ………」
 はっ、と。唐突に、彼の眼に光が戻った。そうして、目の前にいる俺にその視線を固定する。彼自身の意思で。
「…ユ・レーネ…?」
 だから、わからんというのに。
 けどなぜかお前は誰だといった主旨なんだろうなという見当だけはついて、ぷっと笑ってしまった。
「キョン」
「…キョ?」
「キョンだ。キョン」
 まったくふざけた名前を付けてくれたもんだ。亡き両親に産んでくれたことは感謝しても、このことだけは恨んでいる。いずれあの世で まみえた時には真っ先に文句を言ってやろうと思っているくらいには。
 もう一度、今度は自分で自分を指差しながら。
「キョン」
「…キョン」
 うわ。
 …とりあえず、優しくふわりと微笑んだ彼の破壊力は、一瞬俺の頭をぐらりと傾がせたくらいには凄まじかった。ダメージに換算すれば、 噂に名高いクラクラ暗黒ラスリゾブラポンくらいは出たに違いない。それがどういう代物なのかは知らんが。

 で、だ。
 それからどうしたかといえば、ぼんやりと意志表示をし始めたイツキ(仮定)のヤツをざかざかと洗ってやって、湯船に放り込んだ。 そうしておいて、俺はびしょ濡れになった服を脱いで体を洗ってシャワーで流して、湯船…は諦めた。温泉でも銭湯でもないのに男二人で 温まる趣味はない。イツキ(仮定)に湯船から出るように促して、やっぱりざかざか体を拭いてやった。
 さて服を着せてやるかと気分はすっかり介護士だったわけだが、そこまで来るとのろのろと彼が動き出した。なんとなく、という様子で ゆっくりと下着を穿き、部屋着を着る。
「よし」
 この調子なら日常生活も何とかなるだろう。にっと笑ってぽんぽんと肩を叩いてやると、彼はぼんやりとした顔を向けた。
 その顔を見た途端、俺の頭の中で警鐘が鳴り響く。
「―――――おい、もうちょっと辛抱しろ。こっちだ」
 イツキ(仮)に起こっている異変を察した俺は、手を掴んで歩き出した。不安定な足取りの彼に、頼むから保ってくれよと口の中で 唱えたのは三回くらいか。
 幸い、目的地に到着するまで彼の意識は保った。ベッド(勿論一人暮らしなんだから自分のだ)に彼を促すと、そこで彼はネジが切れた ようにぱったりと倒れ、意識を失ってしまった。
 ほー、と長い息をつく。さすがにこいつを引き摺ってここまで運ぶのは骨だ。なんとかここまで意識が保ってくれて良かった。と同時に、 無理もないなと思う。何があったか知らないが、尋常じゃない事情があることは容易に察しがつく。それに多分、疲れきっていたんだろう。 しかもあの大雨に打たれて冷え切った体が温まった後なら尚更、眠気が襲うのは自然な流れだ。むしろここまでよく耐えたと褒めてやってもいい。
 整い過ぎた美貌は、しかし眠りに落ちた途端やたらとあどけない印象になった。こいつ案外俺と同い年くらいなんじゃないのか。さっき まで五つくらいは上かもしれんと思っていたんだが。

 気になるのは、あの最初に見た顔。何の感情もない、だが焦点の合わない眼の奥は確かに途方に暮れていた、何とも言えないあの顔だ。
 一体何があった。どこから来た何者だ。何かヤバい事情や裏の繋がり的なものがあるんじゃないだろうな。
 一転して幼くなった寝顔に向かって、俺はそっと囁いてやる。
「もう大丈夫だ。俺が守ってやる」
 聞こえちゃいないだろうけどな。
 妹が野良猫拾って来た時だって、ちゃんと最後まで面倒見ろ、それができないなら飼えない、何度もそう言って聞かせた。おかげで妹は 寮住まいになった今でもちゃんとシャミの面倒を見ている。勿論寮母さんの許可を得てだ。今じゃ寮のアイドルになっているそうだが、 まあそれはいい。猫と同列に並べられるのはイツキ(仮)にとっちゃ不本意かもしれんが、拾たって意味じゃ同じだ。だから、 俺がちゃんと面倒見てやる。お前がどんなヤバいことを背負ってたって構わん。なにしろ俺は、あの泣く子も黙るハルヒ博士の『お気に入り』 なんだからな。虎の威を借る狐と言わば言え。使えるコネクションは総動員させてもらうぜ。
 さて、こうして寝顔を眺めていても仕方がない。というか、そういえば俺はバスタオルを腰に巻いただけだった。イツキ(仮)が 出てから入るつもりが、結局こうなっちまったから、自分の分の新しい服を用意してなかったのだ。
 とりあえず服を着て、洗濯と晩飯の仕度ってとこか。二人分作れるだけ材料あったかな…。ま、あいつがハルヒさんクラスの大食らい じゃなければ大丈夫だろう。




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UPの際の海原のツブヤキ…興味のある方は↓反転して下さい(大した事書いてません)

 あれっこんなに長くなるはずじゃなかったのに。うおう。
 ええっと、前・後の二編編成になっちゃいました。それと、キョンは死んでませんので!!