農業情報研究所農業・農村・食料欧州ドキュメント:14年11月8日 ;10日改訂

フランスの多様な農業 日本の大規模能率的農業育成農政の反省の一助とするために

  戦後15年、なお零細地片による古風な低生産性農業が支配していたフランスは、1960年農業基本法・62年農業基本法補完法を制定、輸出増大で国民経済に寄与する高生産性農業の構築―農業近代化に乗り出した。先買権を付与されたSAFER(土地整備農村建設会社)と老齢者の引退(離農―農地手放し)を促進する離農終身補助金の創設により、ひたすら大規模経営―他産業と所得が均衡する持続可能経営―の育成が目指された。

 ところが、「生産性市場主義」とも呼ばれるこの農業近代化路線は、早くも1,970年代には矛盾を露呈した。近代化は必ずしも農民の生活条件を改善しなかった。農業人口流出による農山村の「砂漠化」や環境・国土維持の困難は国全体の重大な社会問題となってきた。経済成長至上主義のイデオロギーから離れ、「生活の質」を重視する国民の風潮も強まった。かつてドラスチックな農業構造改革を唱えたマンスホルトは小規模農家の勧めに転じ、基本法農政の立役者であったピザーニも農業の「多面的機能」の称揚に転じる。

 そうした中、1,981年に成立したミッテラン政権の農相・クレッソン夫人が追求し・奨励しよとしたたのは、近代化時代の「支配的農業モデル」ではなく、支配的農業モデルを拒否し・農民的で「職業的でない」(日本で言えば「産業的でない」ということになろう)農業を実践しつつある人びとが営む小規模で兼業にも依存する「多様な農業」であった。この試みは、EU共通農業政策(CAP)や既存の主流派農民組合(全国農業経営者連盟=FNSEAや青年農業者センター=CNJA)の厚い壁に阻まれ、結局は挫折する。しかし、専ら農業の経済効率を優先する農業政策から農民・農村・環境を重視する農民・農村政策への転換の動きは連綿と続く。それは「多面的機能」を最優先した「1999年農業基本法」、さらにはアグロ・エコロジーを精力的に追求する「農業未来法」つながる。新たなCAP―2014-2020年CAPも、こうした流れを受け継ぐものだ。

 ところが、フランスの1960年基本法をお手本に近代化路線に乗り出した日本の農政は、未だに「支配的農業モデル」の実践者と目される「担い手」の育成以外知らず、小規模農家・兼業農家は、まるで日本経済のお荷物であるかのように、切り捨ての対象でしかない。それが果たす社会的・経済的・環境的役割は、政治家・農政官僚も、研究者も一顧だにせず、農業者(団体)・農業関係者の関心も極めて薄い。その中で大手を振ってまかり通る安倍政府の改革農政路線は、取り返しのつかない「農山村砂漠化」に行き着くだろう。

 こうした情況を見るにつけ、日本の小規模農家・兼業農家が担う重要な社会的役割への認識を促すべく、ここでフランスの「多様な農業」の有り方を紹介することにした。

 ここに示した一文は筆者が出版を目指しながら結局は日の目をみることがなかったミッテラン政府の農業政策に関する1980年代の著作の一部である。それが依拠した文献は、フランスでもまず見ることがない「多様な農業」に関するフランス国立農学研究所(INRA)研究副部長(当時)F.Pernetの研究書・『農民の抵抗』である。古い著作ではあるが、「多様な農業」の本性は今も変わらないだろう。

 *Pernet,F.,résistances paysannes,P.U.G,1982

 フランスの多様な農業(本文)

はじめに

この2030年,フランス農業は近代化 ・工業化,それによる生産性の顕著な向上という激しい変化を経験した。この変化の過程は,同時に農民全体を全国的・国際的な厳しい競争に参画させ,それを通じて競争に耐え得る農民―市場価絡より低い生産費で生産できる農民を選別し ,農民層の分化・分解を促進する過程であった。ごく一部の選ばれた農民 3分の 1 から 4分の 1 )は,経営の集約化・専門化 ・集中を通して,次第に画一的・同質的な「規格化」された「支配的農業モデル」を形成する。他方,このよう 「規格」 を達成できない大多数の農民経営は,国民経済の要請―できるだけ低廉な食糧を国民に供給し,さらには輸出によって国際収支の均衡に寄与する―に応えることのできない経営として,疎外され,切り捨てられることになる。この疎外の過程の最終的な到達局面が離農・離村である。実際,1955年に240 万近くを数えた農業経営数は,25年を経た1979年には126 万とほぼ半減し,この疎外の過程の激しさを示している。

しかし,「規絡外」 の経営は決して消滅はしなかったし ,フランス農業が近代化され・工業化された同質的な経営に独占されてしまったわけでもない。離村の過程は決して一挙に進むのではない。多くの場合 ,それは 10 年から20年をかけて完結する過程である。疎外の途上の様々な段階に ,多くの経営が存続している。その上,技術進歩や競争の激化は,いわゆる「分解基軸の絶えざる上昇を通じて,疎外途上の農業経営を次々と生み出すことになる。さらに,都市住民の中での土地回婦の志向の強まりにより ,近年では 「新農村民J (neo-ruraux の農業参入さえ無視できない広がりを示している。 こうして,1979年においでさえ 20ha未満の農業経営経済的に合理的な規模とされる面積をはるかに下回る全国平均の自立下限面積22haも 達しない経営) が,なお 61%も存続しているのである。これらの経営は,「選ばれた」経営の同質性とは対照的に,多様性によって特徴づけられる。それらは,異質.なものをすべて排除していく近代化の動きの中で,まさしく多様な自然と深〈 結合した農業の本来の姿をである「 多様な農業」 を保存し,形成しているのである

ところで,C N J Aのように,一方で青年農業者の自立の促進・農村人口流出の阻止による最大限の農業・農村人口の維持を主張し,他方で,結局は土地鉱大に帰着するであろう資本投下の憎大による農業発展を奨励するのは,明らかに矛盾している。左翼政権農政が農業雇用の維持を最優先目様に据えるときには,それは,明らかに,労働手段の大量投入とそれが必然化させる規模拡大=土地集中によって効率的な農業生産を目指した従来の農業開発方式の修正を必要とした。だからこそ,クレッソン農相が「農業者の本来身につけている 「農学的センス」や「彼らの分別ある投資のセンスを強調し,あるいは記者会見で 「フランス的生産モデル」を間われ,『 生産のモデルは多様なものとなろう。しかし,われわれは生産者によってよく考えられ,根拠づけられた農業を推進するであろう』と答えねばならなかったのである

しかし,だからといって左翼政権は農業近代化の成果まで否定しようとしたわけではない。クレッソン農相はいう。『 ある人たちは私の政策がフランス農業の《 経済的・技術的衰退》 を導く政策となろうと言う。まったく逆だ。・・・私は,われわれの政策が結局はより高い生産性を,しかも良好な社会的条件の下でもたらすことに賭けている」と。つまり ,農業は,その雇用を維持しながら,同時に生産性を維持し,さらに向上させねばならないのである。その実現が極めて大きな困難に直面するのは避け難い。なぜなら,それは 農業人口維持政策が,同時に,効率的な ,しかし小さな規模で満足する近代的生産モデルを実際に考える時にしか実現できない」からである。このことは,具体的には,前記のような 多機な農業」に単なる生き残り以上の展望を与えることに帰着する。そのような農業を,現在の経済社会全体において積極的役割を演ずるものとして,維持し・発展させねばならない。「多様な農業」の発展の可能性は左翼政権農政の成否を決するもっとも基本的な鍵をなしていたと言えよう。だが,同時にこの「多様な農業」 は現在の経済・社会のシステム全体によって「支配的農業」 の周辺に疎外されたものなのだから,それは最も手に入れ難い鍵でもある。

実際,現在までの農業開発方式が生み出した諸問題に対しては,従来も様々な解決策が試みられてきた

まず,「支配的農業」自体の技術的・経済的限界が次第にはっきりしてきたことがある. 農薬・化学肥料を多用し,有機物が減り ,重い機械に踏み固められたれた土壌での生産性は限界に達した。輪作の単純化や排除は病虫害問題を深刻化し,家畜の能力向上は逆に病気への抵抗力を弱め,ある種の病気の根絶は別の新たな病気を出現させた。このような技術的限界は,経営に反作用を与える。生産資材の経済的効率が低下し,生産費が上昇する 。所得を維持するためには,生産者は一層の工業化に,従って借金に訴えるほかない。これは一種の悪循環である。農業危機はこのような問題を一層深刻化した。この中で,生産資材費用の節約.あるいは「 生物学的」方法を利用してのより安く・より生産的な資材への代替を可能にする新たな技術の開発も進められた。それは,新たな 生産性の飛躍を可能にするが,それが不変の全体的な経済システムの中で行われるかぎり,競争の一層の激化とそれによる新たな疎外を生み出すことに帰着する。このように「 支配的農業」自体が袋小路に入り込みながら,そこから脱出する道は見出していない。

国土の低利用はもっと古くからの問題である。山地等,農業の工業化に不利な地域では,競争の圧力の下で農業次々と放棄され ,あるいは農地利用は粗放化した。現在300 haに上るという不耕作地 friches )の存在がこの動きを象徴している。マンスホルト・プランやブデル報告では,農産物過剰の下でのこのような国土利用の放棄は問題ではないどころか,必要不可欠でさえあった。しかし ,これら地域で生活している人々の職業転換の社会的費用は莫大なものになる。また農業以外に有力などんな活動が考えられようか。そして,そ のような活動のためにも,一定の農業人口を確保せねばならないであろう。従って,地域の条件に適合し,その潜在生産能力を開発する様々な農業生産のモデルが探究されてきた。しかしながら,そのような技術的に適正なモデルが開発された場合にさえ,多くの経済的 ・社会的理由でその実現が阻まれてきた。その最たるものは土地利用の競合である。観光的土地利用や土地投機がその実施を妨げた。他の,より条件に恵まれた地域との競争も大きな理由である。例えば,南部地域の羊の粗放的飼育はこれら地域の最後の切り札とされたものだが,これも ,現在では西郎や北部の集約的飼育が強い競争力を持つに至っている。さらに,人口の希薄化が地域における社会生活そのものの条件を危機に陥れている。この人口希薄化 (過疎化) が現在の全体的社会 ・経済システムの働きの結果であるとすれば,この条件はいかにして回復されるのか。

最近では,様々な地域の未利用資源やエネルギーの開発の試み(廃棄物・ 副産物の再利用,リサイクル,バイオ マス ・更新可能なエネルギーの利用)も盛 んになっている。しかし ,それらも ,いままでのところ,その技術的 ・経済的性格は近代的生産に不適なものとして十分な活用を見るに至っていない。近代化は経済効率のために,すべてを規格化,画一化していく過程であり,規格に達しない経営を排除するだけではなく,地域(空間〉も ,その中に住み,存在する人間も,資源も,適合しないものは一切排除する過程である.。このような全体的システムの中で,「多様な農業」 はいかなる可能性を見出すことができるのか。

第U部はこのような問題への援近の一つの手がかりを得ようとするものである。そのために,第 1章では 支配的農業モデル 」あるいは「近代化」 に抵抗する 農民の試みを全体的に紹介し,第2 章でそのような農民の農業の典型例として 生物学的幾重義」( 有機農業〉を取り上げ,第 3章では,「 近代化から取り残され,いかにして生き残るかを模索している山村農業の現状と対応策をみることとする。

 第1章      近代化に抵抗する農民 

 「多様な農業」が,まさに多様性によってしか特徴づけられないものであれば,経営の数と同じだけの特徴をもった農業が存在することになる。そのときには,その概念的把握は不可能なことである。しかし ,仮に,これらの農業を「支配的農業モヂル」の「 周辺」に疎外された農業という意味で「 周辺農業」と呼ぶとすれば,これらの農業の中に,意識的に『近代化』に抵抗する農業のいくつかの類型を見出すことができる。また,それらの農業者は「支配的農業モデル」,あるいはそれを生み出した現在の社会・経済システムへの「抵抗者」としての共通性を持つことにより,これらの諸類型聞にも,次第に農業生産・経営上の共通の論理・戦略が形成されて くる。それは,結局「周辺農業」全体にも一定の方向性を与えることになる。このような意味で,近代化に抵抗する農業の実践の分析は「 多様な農業」の把握の第一歩をなし得よう。

ただ,これらの多様な実践は,農業の現場に:関する豊富な知織に支えられてのみ,包括的な把握が可能なものであろう。公式統計も,これらの実践についての示唆さえ与えていない。 まして,外国の観察者がそれらの全体像を捉え,一定の評価を与えるなどということは不可能に近いことである.ここでは,国立農学研究所( I.N.R.A.)の研究副部長,フランソワ・ベルネの「農民の抵抗」と題する著作に依拠して,上の問題に接近することとする。ここに言う 「抵抗」とは,勿論「支配的農業モデル」への抵抗であり,現在の社会・経済システムへの抵抗であり,また新たな多様な生産と生活の様式を求めるものである。本書は,いま までのところ,このような農業を包括的に諭じたほとんど唯一の書ではないかと怒われる。以下の叙述における本書からの引用については一々注は付さず,本分中のカッコ内にその頁数を示すこととする

第1節    抵抗農民の諸類型

  F .ベルネは,近代的 ・工業的農業に抵抗する農業の代表的類型として次の四つを上げる。すなわち,「伝統的農業の生き残りの諸形態」,「経営の近代化を試みたが,それを達成できなかった」人々の農業,「 生物学的農 業」〈 有機j農業,「土地に回帰する都市民」(新農村民〉の農業である。これらの農業の持つ特徴は以下のように要約される。

 1 伝統的農業の生き残り形態

19世紀的な 「伝統的農業」は近代的農業の正反対に位置する。工業的農業を拒否する農業者は,常に「19世紀への回帰」,「進歩の拒否」といったレッテルを貼られてきた。しかし,現実には,前世紀と同様な農業が存続できるはずはない。かつて経営の安定と地力の錐持のために不可欠であった多作物同時栽培(輪作を伴う〉と牧畜の組み合わせ,いわゆるボリクルチュール—養畜の形態は,競争の激化の中で,次第に専門的経営に取って替わられた。養豚の工業化は,廃棄物と副産物の優れたリサイクルの手段としての豚の利用を 地中海沿岸やコルシカの局地に押 し込めている。アルプスの大規模な移動放牧も,観光的・都市的土地利用のために,南東 部沿岸の冬季放牧地を奪われ,経営の安全のために収益とは無関係な高価な土地の購入を余儀なくされた。

現在,まさにこのような伝統的農業形態が存続しているとすれば,それは工業的農業によって全く見放された非常な僻地においてだけである

しかし,皮肉なことに,これらの経営の中には,加工(例えばチーズ製造やコルシカの豚肉加工)による付加価値付与,山地の牧草資源の利用,小規模なボリクルチユ—ル牧畜経営における生産物の技術的な相補性などの伝統農業の強みを発揮して,十分な所得を獲得している者もある。この所得は近代的農業モデルへの転検を可能にするほどの蓄積を可能にし,コルシカの養畜,アルプスの移動牧畜に.実際にそのような転換の例が見られる (p.45)。しかし ,これらの農業には,将来の展望が開けているわけではない。これらの農業の経済的成果は,多くの場合,労働条件や社会生活の犠牲の上に立つもので,このような農業を営む農業者はその承継者を持たない。かれらの経営は,何よりも彼らの個人的資質に依存している。彼らは土地の歴史や可能性,地 方の慣習を知り尽くしており,近隣関係が決定的に重要な「社会」の継承者であり,社会関係の十分な制御の術も心得ている

彼らは,離村者の土地や建物の管理を頼まれることもしばしばあり,次第に伝統的様式とはあまり関係のない土地利用の様式が形成されている。例えば,山地において,彼らは離村者の土地で干し草を作る ―競争があれば年々のヴァント・デルプ[ 草販売]により有償で,競争者がなければ無償で。こうし て,彼らは所有地に不釣合いな規模の家畜を持ち,次第に周辺に手を伸ばし,はるかに遠隔の,また非常に刈り取りも難しい地片も固い込む。 このように,放棄された土地や資源の利用の観点からすれば,彼らの役割は評価できるとしても,彼らが前世紀的農業の最後の継承者であることには変わりはない。 ただ,彼らの役割は単に「 死肉を食べる」ような役割に還元されるわけではない。「 よくあるように支配的農業に参入できず,あるいは時にあるように,支配的農業を拒絶する農業者にとって,彼らは伝統的農業のやり方と技術を伝達できる・ また現在必要な変換を施すという条件で実行可能な工業的農業の代替技術を提案できる唯一の生き残りなのである」 。この意味で,彼らは他の「周辺農業」者と深い繋がりを持ち,その発展に一定の寄与をなし得るであろう。

2    近代化に挫折した農業者

 経営近代化を試みながら,技術的能力や土地,資金調進の手段を欠くために それを完遂できない農業者が次第に増えてきた。およそ40歳前後でこの試みを始めた多くの人々にとっては,できるかぎり良い条件で引退を待つのが唯一の解決策となっている。しかし,現在では,競争条件や投資資金の調達条件が悪化するなかで,工業的農業技術に.接近できず,他の解決策を求めるしかない比較的若い農民も増えている。

実際,「経営拡大計画」〈 I 部−U,第 1:章第 1節参照〉によって有利な融資条件を獲得するするために,計画される投資の収益性を楽観的に見積もり,あるいは偽り,現実には償還年賦金が償還能力を超えてしまう場合が多い。このとき,「 拡大計画」は「 埋葬計画」とか「 破産計画」と呼ばれる計画に変ずるわけである.

このなかで,農業指導機関の勧めと全く逆の選択をする者も現れきた。ベルネの上げるこのような農民の一つの像は次のようなものである彼は,まず50 馬力のトラクタを購入するために借金し,引退者の土地により面績を拡大して近代化を試みる。数年間は借金の償還には十分な生産の増加があるが,所得が改善されたとは実感できない。隣人の土地を取得することで新たな 自立を妨げ,隣人関係が損なわれるのも実感する。このとき,彼は搾乳牛を10頭に減らし,予定した搾乳機の購入も止める。この頭数では,機械の掃除の時間の増加によって,搾乳に必要な時間は手搾りによる場合と変わらないからである。人工草地には豆科植物を導入し,家畜の世話にも十分に手をかけることで,外部からの購入も極力減らす。しかし ,農業所得は不十分であるから農業労働と両立できる兼業(冬季の伐採)を求める。これによって,所得は最初の計画を続けた場合と比ベ―借金の返済のために差し引かれる部分を考慮に入れて―大して減ることもない。逆に,労働時間は短くなり,会に出る余裕もできる 。彼は彼が取得するのを止めた土地で,彼と同じようなモデルを選ぶ経営者が自立するのを期待する

このような「縮小計画を実行する農民は孤立的な一例ではない。農業週刊誌《Agri 7》が,総所得が減少する一方の経営近代化を拒否する若い農民夫婦のイン タビューと帳簿を掲載したとき ,この意見は読者役稿欄で非常な反響を巻き起こし,近代化が何をもたらすのかが現在の農民の関心の中心にあることを示し p.51) 。「支配的生産システムの採用を可能にする条件への接近が困難になるのに応じて,《 反抗者》,彼らには考えられなかった進歩への反抗者,そしてまた彼らが,単に排除されるのではないにしても ,徐々に疎外されていく生産者と市場の組織への反抗者と呼ばれる人々が現れる」 (p.51 52)。そし て.このような「 反抗者」は,支配的な生産システムに根本的な異議をさしはさむ「 生物学的農業者」や「新農村民」と繋がりを持つようになる。

3    生物学的農

 生物学的農業といわれるものにもいくつかのタイプがあるが,共通するのは,化学肥料や 農薬など工業起源の化学製品の使用を矩否することである。この意味で,生物学的農業は「工業的農業」に対する最も原則的な反対者であるといえよう。 このような立場は,必ずしもイデオロギー的あるいは科学的論拠によるものではなく,経験的な観察に依拠している。 生物学的農業を選択する動機は ,生産の低下,家畜の健康状態の悪化,地力低下,経営者やその家族の農薬事故やそれを原因とする病気など,個人的経験に根ざすものが多い。

しかし,この農業は化学製品使用の拒否によってのみ特徴づけられるわけで はない。化学製品の拒否は生物学的な生産力の高度な利用を不可避とする。地力維持と家奮のバランスの取れた飼料を同時に確保するために輪作が大き な意味を持つ。このような方法は,明らかに伝統的農業により蓄積された経験的認識を継承するものである

このような技術的特徴は経営面にも反映するすなわち,経営の経済的均衡は通常の経営とは異なり,非常に総合的なレベルで考えられる。収量は一般的には通常経営に及ばないが,長期的にみれば生物学的農業に利があるとされる。また生産物の価絡は一般の生産物より高めに決められることが多い。価格が有利でない場合にも,工業製品の購入や様々なサービス,特に獣医への支出 の減少によって生産費が節約され,通常経営以上の所得も可能になることがある。ただし ,労働負担は通常経営より多くなるのが一般的である 。しかし ,労働力を十分に燃焼できないほどの小規模経営な らば,経営所得の確保のために生物学的農業を選択することも十分にあり得よう。

生物学的農業者の数は確定できないが,おそらく全経営者の1 にも満たない少数者にとどまっている。しかし ,この農業の意義は量的な評価以上の重要性性を持っている。国立農学研究所は,現在の農業の行き詰まりの打開のために「より節約的で・より自立的な農業」を求めて「 最大の生物学的付加価値を持つ農業」の新たな研究方針を打ち出した J .PoIy;Pour une agriculture plus économe et plus  autonome; l.N.R.A .,1978)。生物学的農業はこのような農業の開発に:役立つ経験を提供するであろう。また,それは農業者のみならず,エコロジー運動に関わる多く人々と連携を深め,その中核にいる故に,その実践者の数を超える社会的影響力を持つこともたしかである 従って,生物学的農業は新たな生き方を求めて土地に回帰する「 新農村民」を捉えることも多 い。 

4 「新農村民」の農業

「新農村民」と言われる人々の最大の特徴はその多様性である。土地への回婦の現象は,時代に応じ,古くから多少なりとも存在したから,ま ず,言わば古参の「 新農村民」がいる。その中には農業界に深く入り込み,技術面で著名で,模範例となり ,また農業組合の代表者や市町村の相談員になる者もいる。新たな「 新農村民」の中には,19685月革命を契機に,とりわけ共同体運動の波のなかで,新しい生活様式を求めて農業を始めた人々,一般的には夫婦で,はるかに良く練り上げられた職業的プ ランをもって1975年以後に農 村に入ってきた人々がいる。そし て,これらのグループの中でも ,学生や雇用された経験のない労働者階層出身の若者と,農業教育を受け,貯金や住居を売り払って得た資金をもって職業転換を組織化できる中 ・上級幹部,教育者,社会—文化指導者などを区別できる。さらに,後者のグループも,定年前に退職して比験的快適な農村生活を送ろうとする者や,全体の社会・経済システムから可能なかぎり自立を目指そうとする者に分かれる

このような多様性にもかかわらず,これら「 新農村民」は社会システムの批判から生まれる共通点を持っている。彼らは農業・農村生活を支配するあらゆる「 規範」に批判的で,反抗的でもある。農村生活の慣習的規範に対する批判や反抗は,しばしば周辺農村民との間に軋轢を生む。しかし ,ベルネによれば「新参者たちは ,多分,学校,カフェ,何らかの商業活動の維持を可能にする。この点で,農地を森林に戻す不在の大土地所有者,あるいは農業空間の秩序を乱すセカンド・ハウスの所有者よりもましである (P.59)。農業活動においても行政的・財政的・職業的な様々な規範・基準が根を張っている。農業政策を反映し,同時に社会的に真の農業経営と認められるための支配的条件もなす「自立下限面積」 (SMI)はその典型である。それは,いわば農業者の「 ・レール」をなすわけであるが ,同時にそれが,この面積に達しない者に対しては,農業者としての地位を否定するための手段をなしていることは既に述べた通りである(第I部‐U 1章第1節参照〉。このよう な規準は 新農村民」だけではなく,その他の中小農民にも重圧となっている。たとえば,山地区域においては,多くの農民が「山地特別手当」( ISM 3章)を受給する ための条件を満たせないし ,青年農業者自立援助金 D J A)への接近の条件が厳しいものであることも前の述べた(第 I 部第2章)。 「新農村民」はこのような規範・基準にも非常に批判的である。

このように既成の規範や基準に批判的な彼らは,当然,「支配的農業モデル」や農業の上・下流産業資機材供給産業,農産物を原料とする食品工 )への依存に対して批判的である。従って,彼らは自分の社会的・文化的・政治的な希求に合った新しい農業モデルを経験し,採用しようとしていると考えられる。しかし,それが実現できるとはかぎらない。様々な条件により,彼らは「望むこと」 よりも「できること」をするしかないからである。彼らの多様な経験が新たな農業モデルの実現に到達できるかどうかの検討には,徹底的な多くの調査が必要であるが,「 新農村民」の農業に関する包括的な調査は,南アルプスの一つの県に関する調査が利用できるだけである。それによれば,この県では都市出身の経営者が全経営者の3.5を占める。しか ,彼らが自作あるいは小作の形で経営する土地は SAU (利用農用地商積〉の 1,入会放牧地の2.4%を占めるにすぎない。他方,彼らは山羊の15.6,牛の7.8,羊の3.5の家畜群を持つ。これらの数字や現地における観察から,彼らは必要な面積の土地 を見つけるのが難しく(とくに耕地については),通常の( ノーマルな〉農業に見捨てられた工業化や機械化が難しい生産を選んでいることが分かる従って,新し い妓術や生産システムの実施の余地は 限定されている。

結局,支配的な農業との違いは,いま までのところでは別の面に現れることになる。

その第一は、通常の農業では顧慮されることのない生産物の選択である。気ぐれで,与えられた餌の大部分は拒絶するために工業化された飼養など考えられず,実際,1970年代初めまでは頭数も減少していた山羊の飼育がその典型である。「 新農村民」の登場以来,その数は増加に転じ,地方市場の飽和の兆候さえ現れているが,自身による山羊乳チーズの加工がなお一層の参入の可能性を与えている。数はずっと少ないが養蚕もこのような例の一つである。これはほぼ完全に消滅していたが,「新農村民」の手で絹織りのレベルまでも含めて復活されるようになった。この動きに刺激されて政府はリヨンに全国養蚕センターを設立するに至った(P.62)。 そのほか,養蜂,小果実など資本をほとんど必要とせず,多量の労働時間を要する多くの生産の例がある。第二点は経営管理にかかわり,その鍵となる言葉は「自律」 (autonomie ) である。できるかぎり購入を控え,機械は中古を仕入れ,また可能なかぎり自分で作る。とくに重要な特徴は,販売用生産物よりも自活を可能にする生産物を選ぶことである。しかし,高度なリサイク ルを達成し,また市場に対する自律性を確保するためにボリキュルチユール—養畜の複雑なシステムを採用しなければならないという彼らの間でよく聞かれる主張とは反対に,現実には多くの成功例は上記のように非常に専門化された生産に見られる。最初の意図の実現を可能にするような技術的モデルが存在しないために,結局,通常農業が無視する生産物の生産に向かわせている。しかし,商品化に関して 言えば,明らかに通常農業とは異なる実践が見られる。彼らは消費者との新し い関係を作り出 そうとしており,価格一品質に関する経済的動機のみに基づく この関係を,イデオロギー的 ・文化的・地域主義的動機に基づく関係に変えるに至っている。 従って,彼らの農産物市場は,意図したわけではな いにしても,よく保護されたものとなっている。

最後に,彼 らの社会的・文化的・政治的希求に適合した生産妓術という問題に触れれば,そのような代替モデルはなお存在しないとしても ,多くの『 新農村民』の探求は二つの方向づけ持ち,その総合により自分の経営に適合した生産技術を引き出そうとしている。第一は,できるかぎり自給自足で暮ら し,利用できるあらゆる資源を活用し,生産手段も大部分は自分で作り出す伝統的農業の方法に頼ることである。このために,第一次大戦以前の「 農業ラルース」 が彼らの『枕頭の書』となっている。第二は,「生物学的農業」技術に頼ることである。「新農村民』 は,すべて多少ともエコロジストの流れに身を置いており,自然環境の人工化により収量を安定させ,増加させる工業的方法ではなく,生物的サイクルの自然の生産性に基き ,その生産性を最大限に発揮させようとする方法を選ぶのは当然の傾向である。 しかし ,この方法の確立には,工業的方法に比べ,「 新農村民J の能力を超えた ,はるかに深い科学的認識を必要とする。従って,必ずしも科学的ではないとはいえ,古くからこの方向を目指してきた「 生物学的農業」は,さしあたり彼らの探究に重要な手がかりを与えるものであろう

新農村民」の中には,以上のような様々な方法の巧妙な総合に到達した者も現れている。サヴォワ地方の一例は次のようなものである    

所得の基本的部分を確保する新たな生産物は生物学的耕作による薬用植物である。生物学的方法は,もちろん薬としての価値を高めるものである。小規模な羊飼育が導入され,これによって過大な労働時間を要せず必要な堆肥が確保される。羊の品種は消滅途上の野生的な地方種であり,その羊毛は夏季に何人かの研修生を受け入れ,職人的な織布に利用される。菜園の生産物や何頭かの子羊は直売される。薬用植物のために太陽乾燥機が組み立てられた。これら薬用植物は誠実な顧客で機成される市場で販売される。羊の頭数は20頭で,通常の農業の規準では採算が取れないとされるが,これは全体の均衡のために必要とされる頭数であり,その生産物は最大限に利用されている。この例では, 各生産物が,労働負担の面でも,技術的な相補性の観点からも,相互に均衡の取れたものとなっていることが重要な意味を持っている。薬用植物の需要が大きいからといって,無暗にその栽培を拡大することはできない。 工業的 ・企業的農業の視点では,これは不合理としか見えないであろう。しかし ,「新農村民」 は,多分,現状で十分な所得が確保されているかぎり ,これを不合理とは見ないであろう。彼らにとっての農業は,自律的な一つの生き方を求める手段であり,「 企業」ではないからである  

5 周辺農業の類縁性

以上のように,支配的農業の周辺に存在し,近代化に抵抗する農民たちの実践は多様であるが,いままでの記述においても,これら農民間の接近の動きが示唆されている。「新農村民」の中では,そのエコロジー的関心から生物学的農業技術に援近する動きがある。伝統的な小農民たちも,生産費の低減を可能にするこれらの技術を採用している。 生産資材価格の上昇,近代的な工業生産物を利用できなかった古い時代の技術の記億によって,これら農民は伝統的な農村の外部から現れた農業者と出会うことのできる様々なグループに加入する。これらのグループの中で,「 新農村民」は伝統的小農民からかつての農業のやり方を聞き出し,これら小農民も自己の存在を確認する。

これら多様な農業者は,農業を指導する職能組織により常に無視されてきたという感情を共有する。多数派農業組合は,社会的規準に:合致する経営者の地位を規定し・守るときには,いつも彼らの存在そのものを否定する傾向がある。普及組織も彼らには無関心であり,指導がある場合にも,彼らには接近不能な解決策しか与えない。必要とされる規準を満たせないために,一定の援助や補助金も受けられないこともある。多様な農業者のこのような共通の感情が彼ら自身の結集を促すことになる。彼らは,このように組織化される「 インフォーマル」な集団を通じて孤立を脱し,意見と技術を交換し,個人的になされてきた困難の様々な解決策を改善するようになる。

このような探究は技術や生産面だけではなく,商品化にも及ぶ一市織や直接販売に関する情報交換,相互援助。生物学的農業者は食品の安全性に関して強い関心を持つ確固とした都市の消費者を顧客としている。「新農村民」も都市民の言葉で話すことにより,様々な注文を出し,また彼らの実践に共感する顧客を持っている。伝統的小農民も,職人的生産物に心を動かされ易い誠実な顧客を持っている。市場はこれら多様な農業者が出会い,また彼らと 同様に多様な消費者が出会う特権的な場所となる。この市場では単なる経済法則ではなく,様々な経済外的要因が作用するそれは経済的関係に還元された社会的関係をより複雑に,豊かにする。ベルネの用語法とは多少離れるが,ここには,異質なものをすべて排除する同質的空間ではなく,多様なものが多様なままに相互に想像(創造〉力を高めながら共存する空間―H. ルフェープルの用語で言えば「 示差的空間」 あるいは 都市的空間」があると言えよう。これら農業者の実践は,農業内部だけではなく,社会全体の機能のシステムの変革の問題にかかわる。しかし,そのような「 空間」 はまだ微小なものにとどまっている。生物学的農業者と「新農村民」は全体の農業経営数の1割に満たない(P.71)。彼らの「伝統的小農民」,ある いは競争の働きによって投げ出される近代的な多額の負債を抱えた農民に対する役割は,その実数の大きさに比べてはるかに大きい」としても,また将来の望ましい農業のタ イプを問う農業週刊誌のアンケートにおいて「5200の回答のおよそ3分の2が生物学的農業の方法の利用」が好まし いと答えているとしても,それは「周辺農業」(「 示差的空間」 )の潜在的可能性を示すにすぎない。それが同質的・支配的農業(空間)に押し潰されてし まうのか,それに取って代わるのか,この問題に対する確たる答は不可能なことである。ただ,このような農業 (空間)の拡大のためには,まさに多様な実践―その論理と戦略―が不可欠であり,またそれらは一定の整合性を持たねばならないであろう。以下,これらに関し,ベルネの検討するとこ ろを見ておこう。

(以下省略)